kyokotada: 2016年3月アーカイブ

火事場の馬鹿力

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この頃ボーッとしている。
昔のことを思うと、同じニンゲンがここまでぼんやりなってしまうかと、感慨深い。
ボーッとしていながら、仕事は山積みであるが、その山積み加減を忘れられる。
今この時は、料理するから、あるいは家族といるから、と自分に言うと、山積み仕事のことはすぐに脇に置いておけるのである。
それはそれは気が楽なものだ。

子育てしながら仕事と家事とを頑張っていた時には、いつも頭がパンパンだった。
若いから、というだけでは説明できない、もの凄い力が湧いていた。
仕事のスキルアップのために勉強もしたし、大変な量の本も読み、家事、育児、雑用は、いつまでもはてしなくあった。
時々、近所の奥様たちから「今大変だろうけれど、一番充実してる時だから頑張って」などと励まされ、そんな甘いもんじゃない、と反発も感じたけれど、今振り返るとそうだったのかも、と感じる。
ただし、そう感じるようになれたのは、時間が経って色々な苦しみが色あせたからに違いなく、実際はそんな甘いものではなかった。このままでは死んでしまう、と怯えたことも再三だった。
それほど苛酷に働いたし、不安に追い詰められたし、疲れていた。

しかし、そんなことの原因のあれこれを作って下さった周囲の人々は、事実がそうだったことに自覚はないのだ。
周囲の人の幸福のためと思って譲ったあれこれのせいで、私ひとりがもの凄いことになっていたが、譲られた方々は、それほどひどい仕打ちをしたとは、未だこれっぽっちも感じていないのだ。
つまり人は、大変だと泣かれたり、掻き口説かれたり、激怒されたり、罵られたりしない限り、相手が大変な犠牲を払っているとはこれっぽっちも思わないのだ。
こちらは、黙って何とかしようと頑張り続けた。
なぜかというと、喚いたり、攻撃したりするのは美しくないと感じたから。
その美意識だけのために頑張り続けた。
それこそ、火事場の馬鹿力である。
振り返ると、人の幸せのためと、自分の在り方に対する美意識のためだけに無駄な努力をし続けた。
はっきり「無駄」だったと知っている。
そのことが役に立って今日があると理解できているのは私ひとりだけだから。
そしてそういう自分を、嫌いではない。

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