kyokotada: 2017年9月アーカイブ

人生の色合い

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明日は私の誕生日で、めでたく62歳になる。
還暦を過ぎると、人はやたらと年齢のことを気にし出すようだ。
それは、身体の不調が増えることで、いやでも寿命の事に思いが至るからだろう。
何度か、絶不調を経験すると、翌朝はもう目が覚めないかも知れないな、と寝る前に思ったりする。
こうなると、残りの人生をどう過ごすかについても、思わず知らず、考えてしまうことになる。

体調の悪い日には、もう人生に疲れたから、なるべく人と会わず、静かな場所でゆっくりしていたいと思う。
それが、幾分元気が出ると、死ぬまでめちゃくちゃやってやるぞ、と過激なことを思ったりもする。
私の場合、常日頃がめちゃくちゃなので、これ以上どうすることも出来ないかも知れないが、それでもまだ工夫、改善の余地は無いかと、欲張りな思考回路になる。

私は今から、どのように生きるのが良いのだろうか。
孤独が嫌いではないから、ひっそりと本を読んだり、映画を見たり、絵を描いたり、独りで完結することだけをしながら、時間をかけて食事を作り、家を整理する日々、という在り方にも憧れがある。
ただし、これは誰かに生活の面倒を見て貰える場合に限り、私の場合は、自力で稼がなくてはならないので、いくら望んでもこうはなり様がない。

何しろ、仕事はしなくてはならない。
仕事をし続ける上で大切なのは、他人と過不足なく付き合っていくことだ。
互いの都合や能力をうまく使い合って、つかず離れず、もたれ合わず、無視もせず、普通に過ごしながら何かができあがっていくのが理想だ。
どんなことにせよ、疲れるのは身体に悪いので、事件事故は起こさないに限る。

若い頃は、ぶつかり合うのも経験のうちで結構なことなのだが、還暦過ぎには適応できない。
無闇にはしゃがない、興奮しない、そして憎まない、怒らない。
要はクールに平常心で。
この要領を用いれば、あと数年はいい仕事がやれそうにも思う。

いい仕事をしたいという欲はある。
だが問題は、そのいい仕事という定義が、時代と共に変わっているらしいことだ。
今現在というものは、私にとって、とても分かり難い。
つい数年前までは、時代を語る本を読んだり、テレビを見たりしていて、その時々の潮流みたいなものが感じ取れた。

それが、このところ、からきし分からない。
まずもって、人間が分からない。
私と同じ人間が生きているのかどうか分からないほど。
だから、何をすれば的外れでないのかも、良く分からない。
人と人が、共感している様を見ても、本当にそれで良いのか、嘘か勘違いなのではなかろうか、と勘ぐってしまう。
多分、こう感じているのは、私独りではないはずだ。
同様のことを感じている人は、他にももっとたくさんいて、その不安とか淋しさの風が辺りに吹いているような気がする。

今までと同じように努力することが、とても滑稽で、無駄なことかも知れないと、心の底の方で感じる。
それは、私が年を取ったからなのだろうか。
それとも、その風は、あまりに時代が速歩で進むために、必然的に巻き起こっているものなのだろうか。
誠実に頑張ってきた人たちの首筋を、冷たい手でひらりと撫でていく、時代はそんな風に残酷に変身するものなのかも知れない。

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