子どもの頃のクリスマスは、大興奮だった。
若い頃のクリスマスは、稼ぎ時だった。
家庭を持ってからは、子どもたちを喜ばせる日だった。
そして現在。
クリスマスは何でもない日になりつつある。
プレゼントもしない。
ご馳走も食べない。
みんなに、クリスマスはライブとか忙しいんですか、と訊かれるが、全然何もしない。
それより、25日の支払日の方が大切である。
その昔、クリスマスは魅力的な行事だった。
プレゼントも、肉一杯のご馳走も、音楽も、クリスマスツリーも。
きれいだし、ワクワクするし。
そして今は、やっぱり自分はキリスト教信者ではないなぁ、ってことが自覚されてきたのだ。
クリスマスツリーよりも、京都に行きたい。
知恩院に行かないと、工事で見られなくなる、と焦っている。
しかし、キリスト教でも仏教でも、美しいものは美しく、そして教えは尊いのだ。
いずれにも真実があり、頼りがいもあるのだ。
いっそ、両方の信仰を持つ、ということにしてはいかがだろうか。
それは、神様の国ではいけないことなのだろうか。
そもそも、神様のいる宗教といない宗教がある。
神様がいても、神話とか物語があるだけで、彼らに絶対的に帰依しなくてはならないものでもないらしい。仏教の場合は、好きな坊さんを選ぶ感じなのでしょうか。人気投票のようである。
そしてクリスマス。
気分だけでも味わうために、ケーキを買うことにした。
年末には、蕎麦を食べ、正月にはお雑煮を食べる。
つまり、何かあるときは、それにまつわる何かを食べる、ということが大切なのだ。
これだけは譲れないのだ。
ミッドタウンのイルミネーション
若い頃のクリスマスは、稼ぎ時だった。
家庭を持ってからは、子どもたちを喜ばせる日だった。
そして現在。
クリスマスは何でもない日になりつつある。
プレゼントもしない。
ご馳走も食べない。
みんなに、クリスマスはライブとか忙しいんですか、と訊かれるが、全然何もしない。
それより、25日の支払日の方が大切である。
その昔、クリスマスは魅力的な行事だった。
プレゼントも、肉一杯のご馳走も、音楽も、クリスマスツリーも。
きれいだし、ワクワクするし。
そして今は、やっぱり自分はキリスト教信者ではないなぁ、ってことが自覚されてきたのだ。
クリスマスツリーよりも、京都に行きたい。
知恩院に行かないと、工事で見られなくなる、と焦っている。
しかし、キリスト教でも仏教でも、美しいものは美しく、そして教えは尊いのだ。
いずれにも真実があり、頼りがいもあるのだ。
いっそ、両方の信仰を持つ、ということにしてはいかがだろうか。
それは、神様の国ではいけないことなのだろうか。
そもそも、神様のいる宗教といない宗教がある。
神様がいても、神話とか物語があるだけで、彼らに絶対的に帰依しなくてはならないものでもないらしい。仏教の場合は、好きな坊さんを選ぶ感じなのでしょうか。人気投票のようである。
そしてクリスマス。
気分だけでも味わうために、ケーキを買うことにした。
年末には、蕎麦を食べ、正月にはお雑煮を食べる。
つまり、何かあるときは、それにまつわる何かを食べる、ということが大切なのだ。
これだけは譲れないのだ。
ミッドタウンのイルミネーション