日常と非日常の間

user-pic
0
千年に一度の大震災と、例のないほどひどい原発事故。
今、私たちはその渦中にいる。

私の祖父母、両親の時代は戦争が度重なった。
日清、日露、太平洋戦争。
その果てに、世界で唯一、日本の国土にだけ殺戮目的の原子爆弾が投下された。
ことあるごとに、その時々の悲惨な話を聞いて育った。
終戦記念日が近づくと、多く、戦争にまつわるテレビ番組が増える。
蘇る既視感。

人は人によって傷つけられる。
傷つける側の人々は、そもそも、どうやって出現してくるのだろうか?

いつも思うのは、私たちには、それでもなお変わらないと信じたい日常が必要だ、ということだ。
たとえば、このような非常事態でも、人はいつもと変わらず出勤するし、選挙には無関心だし、お笑い番組を見る。
音楽を奏でるし、小説世界に逃避するし、ごちそうに舌鼓を打つ。

私たちには、日常が大切なのだ。
たとえ政治に大きな影響力があれども、それ以前に私たちには日常が大切なのだ。
政治といえど、それは民意の反映などではなく、誰もが知らないうちに担いで、さらに権力を持たせてしまった、たった一人のサイコパスによって動乱するものだ。
それを知って、人は選挙に出かけなくなったのではないか。

人は善き人を選ぶより、まずもって、自分がサイコパスにならないように、規則正しく寝起きし、働き、ご飯を食べ、愛を語ることに努力する。
素直に笑い、泣き、時々は怒る。
家族のために、同僚のために、安定した存在であろうとする。
その営みが最優先ではないか。
本能として。

私たちは非日常の中にいるのかも知れない。
けれど、いったい、典型的な「日常」というものは在るのか?
誰かにとっての非日常は、渦中にいる人々にとっては、いつもと変わらない、完璧なる「日常」だ。

マスコミやメディア好きな人々は、いつの間にか、ひとりの人間の力を過剰に評価しすぎてはいないだろうか。
本来は、その巡り合わせや能力に応じつつ、基本的な、一人の人としての営みを保てるような環境にとどまり、正気でいる努力をすべきなのだ。

痛みや悲しみは分散し、喜びは分かつ。
それを、素直にできる人として居られるよう心を砕くべきなのだ。

今より貧しかった昔よりも、言葉遣いや佇まいは洗練されのだ。
けれど、大切なのは本心だ。
まず心から発せよ。
まず、自分の心から、言葉を発せよ。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tadakyo.web5.jp/mt/mt-tb.cgi/427

コメントする

このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2013年8月 7日 12:03に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「胸が熱くなること」です。

次のブログ記事は「新しい才能と居ること」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。