肯定の成り立ち

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人にはそれぞれ出自があり、育った環境がある。
どんな仕事をしていても、あるいは家族になってみても、一人ずつ、じつに精妙微細な違いをはらみながら生きていることに気づく。
生まれた年代、場所、家庭環境、家族の性格。
それらが、経験を作り、一人ずつの個性を作る。
加えて生まれながらの資質というものもあるから、ひとりとして同じ人はいない。
似ていても違う部分の方がうんと多い。

20世紀の半ばに生まれた身として、あの世紀のすごさを思う。
2度の世界大戦、レコードや映画、通信機器の発明と爆発的発展、ITの登場、人類は宇宙にまで進出。

その中で生まれた作品群は、今振り返っても宝の山だ。
細胞が生まれ、増殖し、いつか停滞して減衰していくのと同じように、発明も発見も増大ししばらくの維持の後、減衰する。決して消え果てることはなく、希少な存在として生き続ける。
その爆発的増殖の時期に音楽を聴いて、虜になっている。
映画や小説もしかり。
そして今、古い映画や、昔の書物を読むと、ため息が出る。
そうだった、この迫力に打たれたのだった。
その感動を人生の糧として、何らか意味のあることに力を注がなくては、と感じてきた。
だから、現在の自分を見ながら、いつも必ず「本当にこれで良いのだろうか」と考えさせられる。

「成り行き次第」というのは、素晴らしい考え方で、現在只今が必然の成り行きの果てなのであれば、それを肯定し、その流れを尊重すべきだ。
けれど、流れはどこかで蛇行し、堰き止められて淀んだり、行き場を失ったりもする。

時々、私は誰に向かって発信しているのか、と確認する。
何をするにしても、私が確信したものを出してみて、他者がそれを受け入れてくれないと成立しない。
その他者を私はどのように選んでいるのか。

幼い子供は、必ず親を喜ばせようとする。
長じては、親の代わりに喜ばせたいモデルを想定する。
愛する人、尊敬する人。
それは、人として生きる上では、必ず必要となる滋養だし、自分が喜ばせたいと想定した人々の外側に、思いがけず肯定してくれる人々の層ができたりもする。

誰に向かって、何を表出するのか。
それに対する反応は、自分にどう返ってくるのか。
この運動のダイナミズムをどれほどのスケールで認識できるかで、心の安定がうんと変わる。

沢山のミュージシャンと触れ合っていると、彼らの背後に、肯定的な人々の量みたいなものが透けて見える。数の多寡もあるが、その質というか、個性は、ミュージシャン各自が知らず選んでいるもののようだ。

人は彼らの外側に居る人々をも含んで成り立つ。
その関係性から生じる息吹までもが、彼らの色彩の一部なのだ。


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このページは、kyokotadaが2013年9月 9日 11:40に書いたブログ記事です。

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