想像すること

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生まれ育ったのは北海道の田舎で、人口が2万人の町。
テレビも雑誌も、東京発のものには知らないことが沢山書かれていて、それらについて想像するしかなかった。
受験の時も、東京の人たちがどのように勉強しているのか、想像するしかなかった。
音楽を始めたら、都会の人たちは場慣れていて、その来歴も想像するしかなかった。
子育てしている間、物書きになってしまったが、こちらが読んでいる本はどれも素晴らしい書き手によるもので、それを手本にするわけにも行かず、どう書けば合格なのか、想像するしかなかった。
しばらく音楽の現場を離れていて、戻ったとき、20年ブランクがあったことをどのように回復するか、何より、私が別のことをしていた日々ずっと途切れず音楽を続けていた仲間がどれほど先に行ってしまっているのか、想像するしかなかった。
いつもそのように想像して、きっと自分の思い至るよりずっと先の境地に何もかもがあるのだと、自分を励まし工夫して進むことにしていた。

ある時こんな言葉に出会った。
「師とは存在でなく機能である」
素晴らしい師とは、何かを教えられる人というよりは、とんでもない境地があるはずだと思わせてくれるものである、というほどの意味だろうか。

田舎にいては都会を推し量り、両親の叱咤は単なる不満だったかも知れないが、それを深読みし、至らない自分を恥じた。

じつは、素晴らしい境地とは、誰からもたらされたものでもなく、自分の中に育てた想像だ。
その想像が、いつも現実を超えているようなのだ。
こんなものでしょ、と短絡できない。
もっともっと知りたい、分かりたい、やりたい。
想像が大層すぎて鬱っぽくなったりもする。
自分の希望に押し潰されたりして。
何様だよ、自分。

けれど、ふと、それはとても良いことなのだと考え直した。
つまり自分の思い過ごしこそが「機能としての師」になるのだから。
素晴らしいという評判、凄いという話題を耳にして、想像する。
どんなパフォーマンスなのだろうか。
どんな風に企画し構成し練習しているのだろうか。
それを考え、想像して自分の道筋に戻る。

たくさん想像すること。
その時間がたくさんある。
それが現実より上を行っていれば、私の工夫は少しずつ役に立つのだ。


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このページは、kyokotadaが2013年10月22日 11:26に書いたブログ記事です。

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