優しいということ

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優しい人、と表現されて悪い感情を持つことは少ない。
自分はいかがかというと、優しすぎるかも知れない。
けれど、優しいということの中身には、人によって異なる評価が隠れている。

私は、どの人に対しても、同じような大切な気持ちを持つけれど、それは初対面で判断しないようにするためで、つきあううちに自分なりの距離の取り方とか、踏み込み方を決めていく。

人によっては、私はお人好しのように見えるらしい。
マザー・テレサみたいだという人までいる。

昨日、婚外子の相続権についての裁判をニュースでやっていて、様々な意見が出されていた。
婚外子は同一の父親の財産なら、平等に相続権を得るべきだということ。
それに対して、「家」意識のあると無いとで大幅に意見の違いがあることがうかがえた。

私は、両親の間に生まれた実の子であるのだが、相続権を放棄した。
それは、兄と弟に養うべき家族が居て、私が相続するためには、彼らが住んでいる住居を売らなくてはならなかったからだ。
私は、持ち家がなかったけれど、それでも、彼らの家族のために放棄した。
けれど、それ以降に感謝はされていない。
私の配慮は当然のことで、特別なことではないと思ったようだ。
感謝されるどころか、ずいぶん誤解されて、嫌な思いまでしている。
とても人には言えないほどの。

けれど、それでも私は、権利を主張してぶんどるお金についてくる嫌なことの方を避けたいと思ってしまう。私に分け与える財産が無いではない。けれど、それを手元に置いていないと不安でいられないようだとは推察できる。

幸い、私には自分の身を養える仕事があり、子供たちも立派に自立し、健康であれば死ぬまで楽しく働いていられる気もしている。
今のところかぶらなくて良いストレスを、権利を主張することで発生させてしまうなら、貧乏な方がなんぼか良い。

その表面的な私のノンポリを見て、優しいという人がいる。
優しいのでは無く、見限っている。
彼らが私ほど強かったら、優しくはしなかった。
それは、ばかげた行為かも知れないけれど、私の中ではそのように落ち着いている。

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このページは、kyokotadaが2013年11月 6日 11:28に書いたブログ記事です。

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