自分のことも分からない

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人は自分でしかないのだが、では、自分のことが分かっているかというと怪しい。
分かる、というときに、外界を感じている自分と、感じ方を検分している自分が居る。
五感や喜怒哀楽で直接色々な事を感じて、「いまこう感じている」と言葉にする自分が居る。
そういう自分の態度が、どのように世界に受け容れられていて、それが良いのか悪いのかを判断している自分も居る。

すると、何を基準に自分を判断しているのか、と考える自分が出てくる。
只今している態度や用いる準拠枠は適当か否か。
こうしてみると、自分というのはロシアの人形のように、外側からだんだん中に入り込んでいく。
最深部に居るのは果たして私なんだろうか。
ただの命とか、DNAということも考えられる。
私は誰で何?

とくに、親しい人たちが亡くなったりすると、私だって同じように明日にはもう居ないのかも知れない、と考えたりもする。
怖い感じはしないけれど、それはどこかで「無」を信じているか、「無」でなければ、あの世を楽しめるな、という情熱があるからだろう。
いずれにしても、どうしようもない。

どうしようも無いから、歌ったり書くしか無いのだ。
それしかできない。

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このページは、kyokotadaが2013年11月20日 12:10に書いたブログ記事です。

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