震災はあまりにも大きい悲劇で、私にはとても手がつけられなかった。
当事者で無い者には、立ち入る際に相応の覚悟がいる。
けれど、当事者で無い者にしか作れない視点もあるかと思う。
私は曲を書いて、詞を乗せる前にいつも覚え書きを作る。
自分の中に在るものを確認するために。
「No Man's Land 覚え書き」
海について。
私は北海道余市町生まれなので、海は近しい。
奥尻島の例はあるが、本来、日本海は、それほど大きい津波が起きない海だ。
けれど自然は厳しい。とくに、冬の漁船の遭難、明治大正期の「板っこ一枚下は地獄」と語られてきたやん衆漁師の命懸けの仕事のことは知っている。
祖母の実家であるニシン御殿を寿都町に訪ねた際に、明治の時代、網元が漁の様子を見たという座敷に座ってみた。海に向かって古いガラスが嵌められた展望を持つその座敷中央に、雛壇のように高くしつらえた部分があって、網元はそこに座って漁の様子を眺めたという。
かつて、冬の漁では、誤って海に落ちるとそこで命が失われたそうだ。何しろ着ている物が「どてら」だから、海水を吸ってみるみる重くなり、助からない。漁はいつも厳寒の時期で、やん衆と呼ばれた流れの漁師たちは、布団を担いで鰊と一緒に北上した。
やん衆と逆の航路をとって、西に鰊や昆布を運んだのが北前船。京都の「和食」の発展には、この船がもたらす海の幸が不可欠だった。
北の漁場についての歌は多い。勇ましい歌。少し、軍歌に似ているかも知れない。生命を賭して何かをする。
津波は、驚きであり恐怖なのだが、人はどこかで海から収奪してきたものについて、借りがあると感じてはいないだろうか。その返礼としての供犠のことをどこかに隠蔽していたと薄々感じるかも知れない。
日本人は、というか、アイヌの文化を見ても、自然から収奪したものに対する返礼について、とても神経質だ。中沢新一の「対称性」の考え方に詳しいけれど、人は、自然から食料なり衣類なりを抽出すると、それを収奪と感じて同等の物や祈りを返さなくてはならないと、強く感じたらしい。
だから、地震や津波、そして原発事故という一連の災害や不幸の向こうに、人が収奪してきた方法と莫大な量についての借財感を置いてみたりする。
宗教の成立は、キリスト教なら「原罪」の認識から始まる。
日本人は、度重なる自然災害やそれに伴う飢饉について、怖れは怖れとして、悲しみは悲しみとして受け止めながらも、どこかで、自然と共存するための借財を支払うという視点を受け容れているような気がする。頂いたのだから、どこかでお返ししなくてはならない。生き残った者は、責任を持って、元の姿に復元しなくてはならない。
頂いたら返すというバランス感覚は、太古から人の中に備わってあるものらしい。自然に奪われた大切な人々。けれど、失われた人々に対する喪失感や哀悼に、供犠の考えを付加して、神に捧げられた尊い生命へと昇華させる。
連想は靖国にまで及びそうになるが、政治的な目的などではなく、ただ、自然と共存してきた、この一帯の地に住んできた、私たちの祖先は、「頂いては返す」という行為を、心の安定に用いてきた。
日本は火山の国である。どこにでも温泉が沸き、そこここで噴火がある。しかし、同時に森は生い茂り、海には様々な海流が流れ込む。多様性と潤沢な発想と手間暇と平和が溢れんばかりの、宝石のような場所だ。
そこに何を予見し、どう生きていこうとするか。
誰もがその事実を見極めなくてはならない。
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