変わることを楽しんでる

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若い頃は、一本筋の通った生き方、なんてものに憧れた。
一貫した自我を持とうとか、自己実現するぞ、とか威勢が良かった。
その現実はどうだったかというと、単に右往左往していた。
すっかり迷走し尽くした今日この頃、じつは、何の拘りも執念もない「私」というものが居る。
無私と表現しても良いくらい。
歌手の中には、「歌わないと死んでしまう」という様な方も居るが、私は黙ってろと言われれば何日でもじっと黙っていられる。
仕事が休みだと、家で本を読んだり、テレビ見たり、たまに絵を描いたり、いろいろな家事をたくさんして日が暮れる。
それで充実している。
たまには散歩にも行くし、ベランダでプランターに何か植えたりもする。
けれど、どんなこともそんなに熱を込めていない。

いつも、状況に応じてきた。
子供が生まれれば育児をして、家計が苦しければ働いて、誰かが困っていたら助けたし、請われれば色々な役を引き受けた。
会社まで作って、レーベルもやった。
でも、いつ無くなっても良いのだ。
存在する間は、懸命にやるけれど、存続できなければ諦める。

しみじみ、ああ、時間とともに私の環境は変わるんだなぁ、と感じ入る。
朝早く目が覚めてしまうので、午前中にやることを考えている。
いつも心のどこかで、何か書くべきかな、と考えている。
けれど、まだ機は熟さない。

明日はまた、何かが変わっているかも知れない。
新聞で読んだ記事に、「テレビ電話がなかった時代、いずれは電話機に画面が付くと考えられていた。けれど、最終的に実現したのは、パソコンでのスカイプだった」
というのがある。
変わるって、そういうことなのよね。
これが変わると予測したものじゃなく、別の角度から予測に似た形が生まれてくる。

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このページは、kyokotadaが2014年2月20日 12:45に書いたブログ記事です。

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