時々、「私はどうして私なのか」と思う。
どうしてこういう人なのか。
それには何か理由はあるのか。
何かの本にあった言葉
「思い煩うことはない。人生は無意味だ」
それはそうなのだ。意味なんて無い。
私はどうしてこの私なのか、ということも、私がそうしてきたから、という返事しかない。
歌を教えているとか、本を書いて仕事にできているとか、家庭がある、子供がいる、などなど、よく考えるとなぜそうなっているのかとても不思議だ。
だがそれらは縷々、自分で決めたてきたことでもある。
自分が決めていないことは、両親が誰であるか、名前が鏡子という珍しい字であること、そして生まれ育った場所。
若い頃には、自己決定以外いやだった。
何でこんななのか、と理不尽に対していちいち怒った。
でも、この頃は、自分で決められなかったことの方が、自分の重要な要素なのだ、と感じるようになった。
私は、北海道の余市町とか小樽市の自然のことを、血肉のように大切にしているようだ。
そこの季節感、気配、匂い、景色なんかが、とても大切なのだ。
そして祖父母の来歴、両親や兄弟のことも、決して幸せな思いばかりではないけれど、それも私の血肉になっている。どちらかというと、辛い理不尽な経験の方が、私を良く育てている。不思議だけれど、苦しんだことが栄養になった。その栄養素は、「人生に意味など無い」ということを深く噛みしめることなのだが、意味が無いからこそ、そこに自分なりの絵を描き出していくことや、積み重ねたものを抱きしめることや、表現することが素晴らしいと分かる。
百人百様、ひとりずつに、素敵な瞬間がある。
キラリと閃いたり、感動したり、泣いたりする時間がある。
ひとりでいて、ふと思う。
「私はどうしてこういう人なのだろうか」
何かの必然とか、使命とかを感じたい時期もあったけれど、この頃はただ、「たまたまこういう人なんだろうなぁ」と思う。
たまたまこういう人なのだから、こだわらず色々と変化して、水のようにその時々の器の形になりながら、少しでも良い味を出したいものだ。
いつも気楽に、でも真剣に。
どうしてこういう人なのか。
それには何か理由はあるのか。
何かの本にあった言葉
「思い煩うことはない。人生は無意味だ」
それはそうなのだ。意味なんて無い。
私はどうしてこの私なのか、ということも、私がそうしてきたから、という返事しかない。
歌を教えているとか、本を書いて仕事にできているとか、家庭がある、子供がいる、などなど、よく考えるとなぜそうなっているのかとても不思議だ。
だがそれらは縷々、自分で決めたてきたことでもある。
自分が決めていないことは、両親が誰であるか、名前が鏡子という珍しい字であること、そして生まれ育った場所。
若い頃には、自己決定以外いやだった。
何でこんななのか、と理不尽に対していちいち怒った。
でも、この頃は、自分で決められなかったことの方が、自分の重要な要素なのだ、と感じるようになった。
私は、北海道の余市町とか小樽市の自然のことを、血肉のように大切にしているようだ。
そこの季節感、気配、匂い、景色なんかが、とても大切なのだ。
そして祖父母の来歴、両親や兄弟のことも、決して幸せな思いばかりではないけれど、それも私の血肉になっている。どちらかというと、辛い理不尽な経験の方が、私を良く育てている。不思議だけれど、苦しんだことが栄養になった。その栄養素は、「人生に意味など無い」ということを深く噛みしめることなのだが、意味が無いからこそ、そこに自分なりの絵を描き出していくことや、積み重ねたものを抱きしめることや、表現することが素晴らしいと分かる。
百人百様、ひとりずつに、素敵な瞬間がある。
キラリと閃いたり、感動したり、泣いたりする時間がある。
ひとりでいて、ふと思う。
「私はどうしてこういう人なのだろうか」
何かの必然とか、使命とかを感じたい時期もあったけれど、この頃はただ、「たまたまこういう人なんだろうなぁ」と思う。
たまたまこういう人なのだから、こだわらず色々と変化して、水のようにその時々の器の形になりながら、少しでも良い味を出したいものだ。
いつも気楽に、でも真剣に。
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