希望とか夢とか

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「希望」という言葉をむやみに使うべきではない、という意見を見た。
そうだよね、と感じた。

震災以来、絆と同様、やたらと夢や希望が語られる。
もちろん、未来を暗いものとして捉えるよりは、努力が報われるはずだと考える方が頑張りやすい。
けれど、どうも、メディアに登場する希望の相貌は、なけなしの体力や気力を奮い立たせるためのものとは違って見える。

「希望」という商品がある。
それは、一面、パンドラの箱の底で、じっと持ち上げられるのを待っていた危険な思想でもある。
音楽をしていて、もっとも手に負えない「盛り上がる」という状況によく似ている。
希望は、それさえあれば、何もかもが良い方向に進み出すと勘違いさせるためにも使われる。
「まず心の中に希望を絶やさないことです」
えっ、それは人が、意志的にでできることなのか?

音楽では、内容がどうあれ、興奮し盛り上がった感が残れば、それで成功したと勘違いされる。
価値観というもの。
感受性というもの。
審美眼というもの。
それらが鍛えられれば、ひとつの言葉に代表される状況などないと分かってくる。
キャッチフレーズほど残酷で雑なものはない。
それが、垂れ幕のようにみんなの心の中で単純化され、微妙であったり、精妙である事柄を、薄っぺらい、一目で理解した気になってしまうものに変換していく。

希望と夢を歌うべきだろうか。
実際には、喜怒哀楽は、ただ事実の中に感じ取られるものでしかない。
誰もが、その状況を見て知って、自分の体験と照らし、心の底の方でほのかな苦しみとして了解するものではないか。
嬉しいことすら、危険なのだ。
楽しいことは、より儚いのだ。
それに先立つ、沢山の迷いや積み重ねや逡巡を、経て初めて何かが掴める。

夢や希望を語るよりも、それをどう自分の中に位置づけるか。
怠けていないか。
方法を間違っていないか。
自分をさておいて批評ばかりしていないか。
そういうことを、いちいち、くどいほどに繰り返す。
それを「希望」という言葉に変換するのには大変な距離がある。
希望というよりは、丁寧に、目に見えて良くならないにせよとにかく丁寧に、日々を暮らすこと。

ふと思う。
良くならなくて当然なのだと。
そう構えられる覚悟が持てると、自分に対しては希望に似たものが生まれるかも知れない。
「良くならなくて当然なのだ」
そう考えながら、まだ、明日は今よりもう少し物事が進んでいるかも知れないと、うっすら思う。
それは恐らく、希望と言うよりは生きる知恵としての楽観に過ぎないのだけれど。

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このページは、kyokotadaが2014年5月15日 13:29に書いたブログ記事です。

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