風は、もうアジアなんだよね

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日本語で詞を書いてメロディを乗せると、ジャズっぽくならない。
日本語にはそれにふさわしい音列があるのだ。

子供の頃、素敵な音楽はいつも欧米から流れてきた。
ピアノやヴァイオリンの先生、学校の音楽の先生、そしてテレビやラジオ、雑誌に書かれる記事。
それらのほとんど全てが欧米の顔をしていた。
だから、私もその中から好みに合うものを選んだ。

魅力という言葉は、音楽のためにあった。
クラシックの子供用にアレンジされたもの、ラジオのベストテン番組で聴くヒット曲や洋楽、音楽雑誌で褒めちぎられているアーティストたち。
日本のどこにもない、見たことも聴いたこともない魅惑の文化。
憧れはいつも遠い、手の届かない先にあった。

プロとして音楽活動を始めた頃、世界はポップミュージックの最盛期で、日夜、莫大な利益が生みだされていた
そしてやはり、音楽の本場は、アメリカとヨーロッパでしかなかった。

リズムもメロディも演奏する人々も、どこをとっても素晴らしい音楽。
いつしか南米やアフリカの音楽も加わって、まったく、クラクラするほど。
その魅力に、少しでも近づきたくていつも懸命だった。
一生かかっても、届きそうもないな、と案じながら。

でも今、もう、色々なことを真似しなくて良いかな、と思えてきた。
努力すれば、好きな音楽をかなり満足のいく形で追体験できるようになった。
あくまでも「追体験」だけれど。
誰かがクリエイトしたものを、そのままやってみる。
それは、真似ではなくリスペクトなのだが、如何せん、どこまで行っても自分のものではない。

リスペクトは大切なことだが、その呪縛に搦め捕られる怖れもある。
自分をさておいて、「日本人なんてダメさ」とうそぶいたり。
でも、私は日本人なのよ、やはり。
海外の素晴らしい音楽を学び、研究して追体験できても、本来は日本人なのよ。

だから、「もういいのかな」と感じた。
それはひとつの悟りみたいなことかも知れない。
その時から、自分の音楽を始めることにした。
もちろん、ジャズもボサノヴァもラテンもシャンソンもなんでもやる。
それは人類の宝だから。
それにプラスして自分の曲を作って歌う。

かつて欧米に対して抱いた、あの焼け付くような憧れは、取り入れることで沈静化し、私の音楽活動の滋養になっている。
それはそれは沢山のことを学び、理解した。
訓練するべき内容もつかんだ。
だから今からは、アジアの風土と日本にある素敵な要素をしっかりと受け止めて、フォークロアではない、コンテンポラリーな音楽を創っていく。

いつも風は熱い方から涼しい方に向かって吹く。
長く欧米から吹いてきた風が、今、アジアから吹いてくる。
アジアを愛そうと思うと、知らず、優しい気持ちになってくる。

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このページは、kyokotadaが2014年7月24日 17:42に書いたブログ記事です。

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