2014年9月アーカイブ

9月はライブ月間であります。
6日には、歌謡曲のCDを出しているお弟子さんの「カラオケ大会」にゲストで出演、カラオケでしっかり歌謡曲を歌ってきた。
12日は、新進ピアニスト、弱冠20歳の高橋佑成とベースの金澤英明と、ごりごりのジャズ。
14日は、バースディライブで、いつものファンク・バンドでフローラ・プリン、スティービー・ワンダー、ジョニ・ミッチェル、サイモンとガーファンクル、リズ・ライト、ロバータ・フラック、パテイ・オースティン、レイ・チャールズ、という信じられないラインアップを出した。
このセットでは、曲ごとに歌唱法が変わる。
15日は、普通に素直なスタンダード。
これから予定の26日は、加藤崇之さんのアコースティック・ギターとデュオで、ボサ、ジャズ、オリジナル、少しインプロ的要素有り。

ほとんどの有名歌手というものは、何を歌ってもその人のものにならないといけなかったらしい。
それが一枚看板に必要な「個性」だったそうだ。
でも私は、そんなの嫌だわ。
世の中にある好きな曲は全部歌いたい。
歌いたいし、全部かっこよくないと嫌だ。
なので歌唱法は七変化。
この中には、クラシカルなファルセット唱法もあり、それは合唱団やコーラスで使っている。

私は、「何でもその楽曲にふさわしい歌い方で歌ってみる」のを個性としてやって行くことにした。
誰かの真似している気はしないし、別のアレンジにしてみればまた変わるし、スタンダードやオリジナルなどはもう、ゼロから歌い様を考えるわけだし。
可能性を広げて、クリエイトしてクリアする、その連続で飽きることがない。

たまにはこういう歌い手がいても良いでしょ。


テレビで田舎の美しい景色を見る。
私の故郷も、それはそれは美しかった。
若い頃は、けれど、その美しい田舎が魅力的に思えなかった。
そこで生きるのは息苦しく、都会で「何か」がしたかった。
都会には、田舎ではできない沢山のことがあった。

いつしか、都会に住んで40年以上が経つ。
今となると、田舎の美しい自然の中で、身の丈でゆったり暮らすのもいいな、と思える。
けれど、ずっと田舎に住み続けたとしたら、現在の私ではなく、きっと別の気持ちでいるはずだ。
単なる想像でしかないけれど、不完全燃焼気味の、不満の多い人になっていたような気がする。

田舎に住むのも良いのかも知れないと、思えるようになった現在の私は、都会の中で育てられた。
結局、どちらも経験しなくては、いずれの良さも、価値も分からなかったに違いない。

音楽についても、私は一度その現場を離れて、ひとりの音楽好きな主婦として生きた。
その中で、自分なりに大切にしたい音楽との関係を再建した。
プロの中で、プロ同士の視線の中で、私の音楽を決めてはいけないと思った。
普通の人の感性と、欲求をもっと大切にしないと。
芸術として突き詰める時も、娯楽として楽しむ時も、両方の価値観や感性を互いに照らしながら自分の居場所を決める。
私は、汲々としてまで音楽をやる気持ちはないようだった。
必ず、どこかに緩みがなくてはならない。
そして、音楽家同士でも、聴いて下さる皆様とも、広く喜びを分かち合いたい。

この気持ちすら、一度音楽を離れなくては持てない感情だった。
プロとして生きている間は、業界の中の毀誉褒貶だけが全てだったから。
だからといって、現在適当な気持ちでやっているかというと、それは全く逆で。
むしろ、誉められたくてやっていた時とは深まりが違う。
ひとりの人として、心の深い場所で、噛みしめるように音楽をしている。
自分と向き合い、周囲の演奏家と向き合い、生徒たちと向き合い、音楽仲間と向き合いして、噛みしめるように音楽を行っている。

そのしっかりとした感覚こそが、若い時から夢見ていた在り方だった。
自分の出す音から全てを学んだかも知れない。
自分に苛立つほどの精神の未熟、焦り、力のなさ、自信のなさ...。
次第に身につき始めた、喜び、懐かしさ、落ち着き、豊かさ...。

身体の中の深い場所に、充実した重心が横たわる感じを持てるようになったのは、いつ頃のことだろう。それは、自分の身体から出し続けた「声」が戻った「こだま」の集積のようだ。

英語で言う「ギフト」。
贈り物と訳される単語だけれど、時には神様の恩寵のことを指す。
芸術と近しく、仲良く暮らせるのは、まさに、ギフトを頂いた人生だ。
誠心誠意、大切にしないといけない。

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