音楽の「間」について

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オペラの本を書いていた間、新国立劇場にずいぶんお世話になり、アイーダの稽古まで見せて頂いた。アイーダは、日中の歌手と合唱団が一堂に会した、記念すべき演目だった。

日中の合唱団を指導されたのは、新国立劇場の合唱団をいまや世界的に高い評価を受けるまでに引き上げた、指揮と指導をされている三澤洋史さん。最近では、この方の名をしばしば目にするようになった。
この秋、エッセイ集が出たというので早速購入、楽しい内容に読み終わるのが惜しいような時間を過ごした。
ゲネプロに入れて頂いたブリテンの「ピーター・グライムズ」のことも沢山書かれていて、そうかそうだったのか、と頷くことしばしば。

略歴を見ると、三澤氏は、私と同い年だった。その上、ジャズもお好きらしい。
クラシック音楽というと、リズムやビートがジャズとは異なると考えられがちだけれど、今や、神髄に至れば、全く差など無いのだと言う人の方が多い。
私も両方を聴いていて、プレイヤーのリズム感に、種類の違いはあれど、優劣は無いと思っている。

ちょうど昨日は、石若駿が上野の芸大奏楽堂のモーニングコンサートで、オーケストラをバックに打楽器コンチェルトを演奏した。
聴いていると、ジャズ的、ラテン的あらゆるビートが登場する現代曲で、彼が選んだとしたら、さすがにセンスが良いなぁ、と感心するような曲だった。

その、進化し続けるリズムやビートの世界に、日々、目のくらむ思いでいて、「間」についての話をいくつか目にした。
最初は、その三澤氏のカラヤンについて語られた部分。
フレーズの終わりから次のフレーズに入る、音の無い、まさにその「間」の感じられ方が、カラヤンを置いて他には無いという凄さなのだとか。
何か分かる。
説明はできないが...。

こういう話は、長く音楽を演奏している人にしか通じないかも知れない。
それは、どこまで行っても体感でしか無く、ある時、「あぁ、これかも...」と感じられるものだからである。
私の場合は、長年、それがあるか否かすら気づかず、しかし、素晴らしいビートで歌う人々を見て、自分とどこが違うのかを考え続け、フレーズの終わり方やディクションの語尾にあるかも知れないと感づき、試行錯誤するうちブレスの方法に辿り着き、やっとこの頃、ビートの締め方に至った。
自由さやリラクゼイションは、いずれも、悟られた瞬間としての、これら「間」の中にあり、スピードやアタック、うねりもこれらと共にある。

そしてもうひとりの達人、義太夫の竹本住太夫。
浄瑠璃の情は言葉と言葉の間の「間」にある、と言っていて、更に凄いのは、三味線や人形との関係を、「どれも合わせていないのに、必ずどこかで合っている。いや、その前に、お互いに合わせに行ってはいけない、という暗黙の諒解がある」
という話。

私たちジャズの演奏家も、「受けにいく、合わせにいく」事をしなくなった時に、やっと一人前と評価して頂ける感じがしている。

練達に至るためのさまざまな事柄が、どんな芸のジャンルでも同じ要素として感じ取られていることに深く感動する。
人間がすることだから、突き詰めると同じ場所に出るのだろうか。
しかし、人類はなぜそれを快感、あるいは感動として受け取るのか。
不思議は深まるばかりだ。

そういうことを繋ぎあわせて無邪気に喜んでいる私...、というのも、何となく可笑しいけれど。

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このページは、kyokotadaが2014年11月28日 15:25に書いたブログ記事です。

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