人は平等なのだ、ろうか?

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生まれた境遇や、その後の人生の巡り合わせで、何の落ち度も無いはずなのに不遇という人は五万といる。
というか、ほとんどの人々は、自分を不遇だと感じてもいる。
恵まれている人々は、しかし、それを肯定したがらない。
いわゆる自己責任論。
自己責任論は、成功した人にとっては蜜の味らしいが、裕福な家庭に育って、1度外に出てみたら、財産とは時勢や運に多く負っているものだと、子どもでも気がつく。

私にそれとなく、親子関係の問題を話してくれる人々は、たいてい裕福なのだ。
裕福であることは、素晴らしいことである反面、それを享受する人格にとっては危険なものでもある。

裕福だというだけで、自分には他の人々より価値がある、と単純に思い込んでしまう人がいる。
そのような人が親で、自分の機嫌を損ねる他者を罵るタイプだったりすると、実に救いようが無い。
そしてなぜかそのパターンが多い。

私の育った時代はたまたま高度経済成長期で、大戦で辛酸を舐めた後の大逆転勝利を体現した人が多数いる。
およそ、人並みの才覚と体力があれば、かなりな確率で成功できた。
そして、成功を全て自分の実力だと信じてしまうことが非難されることは無かった。
それどころか成功体験は国を挙げて奨励されていた。
当人だけで無く、家族皆が尻馬に乗ってしまうくらい。
良く、作家などが地方の講演会などに出かけると、控え室で派手な印象の婦人が根拠無く偉そうにしているのに出会い、あれは誰かと尋ねると、例外なく当地の金持ちの奥様であるのだ、という話を聞いたことがある。
作家が面食らうのは、その地での知名度と普遍的な知名度や認知が混乱していることに気づくからだ。
そしてそれは、何かの機会に試されるということがほとんど無いので、温存されてしまう。

たとえば、そのような人物が親だと、子どもは勘違いを刷りこまれ、随分変な価値観を持ったまま成長してしまう。
勘違いは悪できないが、対人関係では致命的に働く。

いじめに遭うとか、はぶられるとか、嫌われるとか。
そんな程度はまだしも、最も大変なのは、自分を過大評価していることに気づけない点だろう。
外界に対しては、何らか下駄を履いている気がしながら、罵られて育つので自己評価は低い、あるいは自己尊重感が無い、という変な人になっている。

普通にしていると不安なので、やたらはしゃいだり、逆に、おどおどしたりする。
人見知りである。
そして、自分は誰にとってもお邪魔で迷惑な存在かも知れないと、いつもいつも感じている。

そんなだから、役割のある仕事の立場上での付きあいはとても楽だけれど、友達付き合いはひどく苦手だ。
仕事でも、こちらからアプローチするのは、心理的にとても大変。

理屈では、色々とアプローチして、その中の幾つかが成功すれば良いのだ、と考えるのだが、それ以前に、頭の中で失敗に対する叱責がデフォルトとして鳴り響くので、とても辛い。
踏み出すまでに費やすエネルギーの量が半端ない。

ちょうど、私が産まれて育った時代、アメリカでは人種差別に対する熱い「公民権運動」が続いていた。
ジャズに出会った頃、まだその余韻があった。
音楽とともに、レイシズムに興味が向いた。
人が他者を差別したり、迫害したり、ついには殺害したりする。
平等が成立しない原因は何に起因するのか。
優位性を成立させるその仕組み。
人種差別については、20歳の夏にホームステイした西海岸の家庭で、その実際も体験した。
自分に似ない他者に対する恐怖が、ひとつの大いなる遠因だろうと感じた。

結婚して子どもを育てている間は、フェミニズムの勉強会などに行った。
女性が主体性を持つとはどのようなことか。
家族の面倒を見る存在に終始して良いものか。
10歳ほど年上の、団塊の世代の女性たちが、議論を沸騰させていた。
けれど、多くの主張や、説明をすぐには理解できず、納得もできないまま長い時間が過ぎた。

次には、大学時代に出会って、そののままうやむやになっていた「臨床心理学」の本格的な勉強。
セラピスト養成の研究室に入れて頂き、大学院生や臨床心理士たちと切磋琢磨した。
学際的な論文など、読むのも書くのも初めてに近かったので、頭が壊れるかと思ったが、何とか自分なりに、学問のやり方を学べたと思った。

しかし、これらの勉強が何を目指していたかと言えば、ひとえに、自分を救うためだった。
いつも辛い。
いつも孤独。
愛について懐疑的。

この時期には、クラシック音楽関係の著書を書いていたので、そちらの学際的な勉強もしていた。
そのように、膨大に勉強し続けたけれど、辛いのは治らなかった。
結局、辛いのは治らない、という場所で、覚悟を決めて生きなくてはならないと思い知った。
成果ではないものでしか、自分は救われないらしい。

愛を示されると怯えてしまう。
その人が自分を支配しようとしていると感じてしまう。
支配した後に放擲するのではないかと怖れてしまう。
しかも人生は、そのように進んでもいる。
それは自分が招いていることなのか、そのような巡り合わせしか用意されていなかったのか、知りようも無い。
けれど、内面的には、ずっと辛くても仕方が無い、と開き直るしかないと悟った。

他の人の心の中を見たことが無いから、そしてこのレベルまで踏み込んで語り合うなどということもないから、私が特に辛い人生なのか、他の人々とそう変わらないのか、それは未知のままだ。

けれど、ここにいるまま、何かを希望したり、かいくぐったり、時に感動したりしつつ、生きていくことはできるかもしれない。
どこまで行っても、「かも知れない」でしかなく、それが人生の終わりまで、ずーっと続くのに違いないのだけれど。

人の心の有り様の、あまりの繊細さと複雑さに、何だか笑っちゃいますけど。

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このページは、kyokotadaが2018年10月28日 16:27に書いたブログ記事です。

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