kyokotada: 2016年10月アーカイブ

世代のこと

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若い人について、時々SNSに書かれているのを目にする。
礼儀の事やら、感受性のことなど。
大方は不満だったり、憤りだったり。
時には、若い人同士で固まっていないで、もっと先輩に学ぶべきだ、とか。
行動が理解不能だとか。

たいてい、私には、それほど気にならないことばかり。
自分に子供がいると、彼らがどれほど私の時代と異なった人生を過ごしているか良く分かるから。
物心ついたときからパソコンが有り、携帯電話があり、それらを使いこなすのに不自由しない。
親の世代から、嗜好のエキスのような影響を受けもするので、選択眼は鋭く、自分の立ち位置にも敏感だ。
だから、子供たちのそれぞれが、際立って異なる個性を見せても、なるほどと頷くしか無いと思えるし、そう不自然には感じない。
育つ中での情報の質と量の違い。
情報に対する感受性の違い。

たとえば、団塊の世代の方々には、異様なほどにアメリカに対する近親憎悪が感じられるが、私の世代ではあっけらかんとした憧れに変わり、子供たちの世代に至ってはあまり興味の無い存在となっている。しばらくの間、絶対的に素晴らしかったアメリカ文化は、今に至るとOne Of Themでしかなくなっている。先行する世代の人々は、これに代表される世界観の変化に気がつかないように見える。
人にとって、自分と同じ世界の見え方、というのがまず基本に有り、しかし、他者は全て、それとは異なる世界を見ているはずだ、という意識。

心理学を学んだ中で、もっとも自分に有効に働いたのはこの感覚かも知れない。
人の話を聞く、ということの難しさ。
話を聞きながらつい自分の体験に引き寄せ、バイアスをかけて解釈してしまうどうしようもなさ。
それをいちいち確認する注意深さ。
こちらの言い分は、ほとんどの場合理解されないだろうという諦観。
しかし諦めてはいけないだろうという希望。
話の聴き方の徹底的な訓練から、話をすることに対する心の下地ができあがった。
人は、ひとりずつ異なっている。

世代が変われば正義も変わる。
努力の質も量も、見返りすら、一様では無い。
そのことをいつも自分に言い聞かせて、若い人たちと接すると、どこかほのぼのとした共感が湧いてくる。若い人たちは、私たちの役に立つ為にいるのでは無く、彼ら自身の充実のためにいる。
それは私たちが過ごしてきたこれまでのいのちと同様で、どこまで行っても全ての世代は対称に存在するのだ。

世代は次々と生まれてくる。
私には来年孫ができる。
その成長を見ながら、また新しく時代や世代のことを感じるのだろうな。
どんなことが見えるのかな。

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