日記: 2011年5月アーカイブ

この世には、「良いことと悪いことがある」と思っていた。
平和とか、無事とかは良いこと。
その他はほとんど悪いことかも知れない。

私は、子どもの頃からいつも心が切迫していた。
それが何故なのか、全く分からないまま、ただただ切迫していた。

子どもなのに頭痛持ちで、しばしば胃の薬を飲み、鬱っぽく、爪を噛む。
本ばかり読む。
夜は寝付きが悪い。
いつも努力が足りないと焦っている。
誰かに負けると死ぬと思っている。

書き出すと苦しいが、こういう大変な子どもだったのには事情があり、原因もあった。
悪くすると、鬱病をこじらせていたかも知れない。
もしお酒が飲めたら、依存症になっていたかも知れない。
お酒は飲めないので、薬に走っていたかも知れない。

けれども、どうやったのかは分からないが、今はわりと楽に生きている。
万巻の書を漁ったし、心理学を勉強したし、我慢もしたし、信じるものを持とうともした。
けれどそれらの何が私を救ったのかは分からない。
運良く、本当に運良く、私は結構納得行く現在を手にしている。

この後、そうは行かない状況になっても、一度手にできたのだからその幸運に免じて、人生を納得しようと思ってもいる。

震災で、みんな昨日までと異なる日常になった、と言っている。
事実、被災していなくても、この世には厄災というものがある、という事実を見てしまった。
人災も甚大に起きた。
災いが起きたことで、支持される考え方がこれまでと大きく変わることを体験して驚いている。
それ以前には、自己責任論にやり込められて存在意義すらなかった、助け合いたい気持ちを発見してもいる。
それは、一定の人々に安堵をもたらしているように見える。
悪いことは良いことにも繋がる。

繁栄や成功は、長い間良いことで、その恩恵にあずかっている人々の堅固な安定は絶対に揺るがないとすら思われていた。
けれど、呆気なく崩壊する。
堅固だと思うその確信が死角だらけの仕組みを作るのだろうか。
油断していて、膝の後ろを軽く押されただけで転ぶみたいに、悪意あるアクションひとつで瓦解が起きる。
瓦解、崩壊することで日常を奪われた人々もいる。
予想していなかったらしく混乱している。
良いことは悪いこと。

けれど一方には、何によらず崩壊しないものはないのだ、という現実を体験して、突破への希望を持つ人もいる。
その希望すら、持てば持つほど身動き取れなくなったりもするのだが。

自分のことで言えば、私は、周囲が驚くほど、恨み辛みを手放してきた。
どうしたらこんなにあっさりと、私をいたぶった人たちを新しい眼で見たり、対応したりできるのか、自分でも不思議でならない。
けれど、それが、唯一私を救った資質かも知れない、とも思う。

持てあますほどの怒りと、嘆きと、哀しみと、諦めと。
けれどその後には、初めて会う人々、初めて対する物事のように彼らを見ながら、私はそこにいるのだ。

休日の土曜日に、わざわざ何か書かねばと思い立った。
書くことがあると思い立った。
けれど、書いてみると、まとまらない。
あまりにも色々な要素が渦巻いていて、整理するのに時間がかかる。

二日続けて中味の濃い夢を見た。
夢の中で海外に行ったり、地方に行ったり、ライブをしたり、結婚式をしたり、色々忙しかった。

それって、何となく別の人格になりすましているような気配。
しかし、人格というものは、自分の未来に向けて瞬時も休まず作られていくものだ。
細胞分裂みたいに。

怪我をした私の心は、新しい細胞を呼び込んで、なるべく生き延びやすいようにかさぶたやら、新しい皮膚やらを作り出している。

怪我は、致命的にしない心がけが大切。
使い減りしない心がけが大切。
命を惜しむというのではなく、ニヒリズムを恥じる、ということ。

何かできるのなら、それをできるだけ長い時間、良い状態で続けられるように、そういう心がけ。
心がけは努力とは違うのだ。
もう少し、自然で力が抜けている。
自分を追い詰めたり、損なう方向に向かわないだけのこと。
自分をうまく使ってやる方向に向かうこと。

さて。
ステーキがご馳走?
それとも、野菜たっぷりのサラダがご馳走?
久し振りに友だちと会うと、それなりに突き進んでいたりする。
私だけが動いていて、見えない部分は停まっているかのように感じるのだが、じつは、全員進んでいる。
進む、という感覚は、時間が彼方に流れてゆく、という気持ちから出てくるらしいが。
実際、世界は停まらない。

昨日は、打楽器奏者・石若駿君の芸大合格祝いの会で、焼き肉を食べてからその近くにあるライブハウスに行き、お客がいないのを良いことに、セッションして遊んだ。
駿君は、ピアノも弾く。
それがやはり、しっかりクラシックをやっているひとの弾き方で、感心した。
もう、彼の時代には、ジャズらしくとかクラシックらしくとかは無くなり、それぞれの中に互いの良い部分が溶け込むのかも知れない。

ヴィトウスは、ジャズの人は音色を美しくする訓練を、クラシックの人は即興の訓練をもっとやるべきだ、と言ったそうである。

音楽は、ひとりにひとつずつある。
その人以外にはその音楽はない。
技術とか、センスとか、趣味とか、好みとか...。
つまりその人を形作り、現れるものと隠れているものの全てが、音の中にある。

駿君は、一見地味に見えるのだ。
それは、上京して勉強を一生懸命やっている学生なのだから当たり前なのだが、本人は気になるらしい。私も同じことを気にした時期があった。いわゆる、ジャズ・ミュージシャンらしさとか、ジャズ歌手らしさとか。
ヴィジュアルにそれが無いことがデメリットであるかのような批評。
けれど、派手な衣裳を着ても、髪の毛を金髪にしてみても、それは擬態で、ただ自己暗示の材料にしかならない。中味が薄いとか、勉強が足りない、という自覚は、どんな時もしっかりと自分の中にある。それを外見なんかで誤魔化そうとしたってそうはいかないのだ。

一見地味であることで見くびる人は多いけれど、そのままその先入観を抱き続ける人もいれば、最初の印象は違っていたと言ってくれる人もある。
つまり、見た目の印象で全ての判断を終える人と、話を聞こうとしてくれる人とがいるということ。
それはこちらの守備範囲を超えたことだ。

どこまで行っても、自分の話だけする人と、相手に興味を抱いて聞き出そうとする人。
自分の知っている範囲が全世界だと思う人と、自分の外側に広大な未知の世界があるはずだと考える人。
そしてそれにかけるエネルギーの量がまた、千差万別と来ている。

「人」の存在は、だから、周囲の果てのないカオスの中で激しく揺れながら保たれている。
あたかも、波打つ時間に翻弄される、万華鏡の模様のように。

長い間、子育てと家事と仕事で休む間もなかった。
しかも、仕事がフリーランス一直線であったため、カレンダーは子どもの学校に関することのみ。
自分の休日は、考慮の外だった。

休みらしい休みを自覚的に取るようにしたのはこのところ、会社を作って、しかも分社して制作に絞ってからのことだ。
まだ、休むのに馴れていない。
長い連休が明けて会社に来てみたら、何か具合が悪い。

フリーランスとか、ミュージシャンというものは、仕事を仕事と思っていないフシもあり、日曜祭日でも平日でも等しく、お呼びがかかれば仕事をするものなので、売れていれば当然のごとく休みは減り続け、休みがないことがステイタスでもあり、しかし、その合間にしてやったり的な休み時間(休日ではなく)を作るのが、売れっ子の手腕なのである。

休みだから休みらしいこと、つまり自分が本当にしたいことをする、という発想は、私にはない。
仕事があっても無くても、いつも好きなことをしているのであるから、その日常が健康の秘訣みたいだ。

これからは、休むのをよそうかと思う。
毎日、体調がほどよく保てる範囲で仕事を続ける。
別に無理はしないけれど、休むと、他のヘンなことに勢力が注がれてしまい、そのせいで調子が狂うらしいのである。

休まないことが悪いことだと、どこかで自分を諫める感があったが、今日限りそれを止めることにする。
ああ、体調悪い...。

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