大学を出る頃、母親と私は全くそりが合わず、いつも言い争いをしていた。
母親と私とでは、日本人とアメリカ人以上に世の中の捉え方が違っていたのだ。
世の中の捉え方なんというものには、正しいかどうかという基準などないのだが、私の母という人は、「正しい理解の方法があり、しかもそれを誰よりも分かっているのはこの私である」という確信を、羞恥ひとつ含ませずに公言できる人であった。
従って、私には反論する言葉の勢いというものからして、到底勝ち目など無かった。想像してみて欲しい、敵は自分を神に近いとすら信じている「金満主婦」なのである。
私の対抗手段は、「私は勘が良い。それも並外れて」と思い込むことだった。ただし、それは、社会的に成功するとか金儲け等をするという種類の人生を進むための「勘」ではなかった。
私は、自分の「勘」を、好きなことをどれだけいっぱいできるか、という道を探し出すのに使った。
母が結婚を勧め、それを私が拒否するという前時代的なバトルが続いた。ついに母は、ほとんど首を絞めてでも言うことをきかせようくらいに思い詰めたらしい。一生分くらいの罵詈雑言を浴びせられた。
母の提案とは、「地元の歯医者と見合いをして結婚し、実家の近くに住む」というものだった。私は、その提案を耳にしてすぐ、「それを呑んだら、自分か相手の男が発狂して死ぬだろう」と予測した。
心折れてそうしていたとしたら、私は今頃、自分の夢に挑む機会を失った日々に対し、あるいはロマンチックラブの結果としてするはずだった結婚ができなかった愛情生活に対し、あるいは東京にいたかったのにいられなかった地理的不満足に対し、それ以外の全ての不満に対し、母を呪い、夫を呪って、無惨で嫌な人間になっていたはずだ。これは、昔の傲り高ぶった自分を知っているだけに、確信を持って言える。
母は、めっきり弱ってきたこの数年だけ私を責めなくなったが、それまでは、本当に実の母だろうか、と疑うくらい私を責めていた。母の全ての不満は、私が手本とした「勘のいい父親」と娘である私のせいになっていた。
しかし、母が不満しか言わない人になってしまったのは、そもそもの生き方の選択方法が間違っていたためではなかったろうか。
常識として絶対に幸せになるはず、という確率論のような選択をすると、なぜか人生に少しの傷も許せなくなるようだ。何となれば、その選択のために大切な自分の欲求を殺したのであるから。
自分の快を殺す選択をした人は、「しょうがないなぁ的愛情」とか「情けない泣き笑い」とか「自分を許してやるように他人をも許す」とかいう曖昧にまみれた、60点合格の並な人生を「惨敗」の人生と了解してしまうようなのだ。そしてその惨敗要因はすべて、自分の幸せを託して期待したのに、一向応えてくれなかった周囲の人々のせいとなる。
私は、無茶をした割に家族もいるし、仕事もあるし、友達も大勢いて、本を読んでも音楽を聴いても、こうして文章を書いても、歌を歌っても楽しいので、60点主義の割には結構な出来だ、と自画自賛している。
身の程を知れば、人生は割と楽しいものとなる。
全ては「勘」だったのだ。
人とはどんな生き物なのかを考えるとき、私は自分の勘に頼った。
道を歩いていて「寿し勘」の暖簾を見るとぐっと来たりする。
勘を頼りに生きるというのは、言い換えれば、自分自身を信じるしか手がないということだ。
自分自身の気持ちよさ、自分なりの正義なんかを信じる他ないということなのだ。
「勘」は経験値でも、戦略でもない。
それは、私が自分を動物だなぁ、と思う時に発揮される、無意味、無価値の「方向探知機」なんである。