エッセイ: 2008年12月アーカイブ

 仕事の打ち合わせで出会う人や、忘年会で出会う人が、すごく語るのだ。
「今ここで、どーしても言っておきたいことがあるっ!」
 という風情である。
 少し前までは、こういう情景があまりなかった気がする。何かについて熱く語るなんておかしい、といわんばかりに、みんな、どことなく余裕こいてた感じすらあった。
 それで、切羽詰まっている私は自分が恥ずかしく、無理してでも余裕こいてる振りをしてみたり、だった。
 それが、ここに来てみんなの語ること語ること。
 会う人会う人、話が長い。
 そして、何やら世界情勢や世界の文化の趨勢についてなど発言している。
 これは何なのだろう。

 何か言いたい人々というのはどこにでも存在した。
 子どもを遊ばせる公園仲間の母親にも、幼稚園や保育園や学校の保護者会にも、仕事先にも、親戚の中にも、何かについて熱く語りたい人は一定数、居たのだ。
 それらの語りのそれぞれに、何らかの価値はあった。
 若く未熟で、しかも田舎ものの自覚満載だった私は、興奮して語る都会在住の人々にずいぶん勉強させて貰った。
 だが、ある時に、あまり勉強にならない話というものもあることに気がついてきた。必死に聞き耳を立てていた初心者は、いつしか傲慢になり果て、ついに、誰の話もあまり聞きたくないよねー、という時期が長く続いていた。そういう私の気配を察知してか、どの人もあまり語らない、幸運な年月が続いていたのだ。
 なのに、どうしたことなのか。
 最近会う人会う人、みんな、激烈に語ってくれる。

 世界情勢が悪化しているからだろうか。
 それとも、私の脳みそが緩い時期であることを動物的勘によって察知しているのであろうか。
 熱い語りを聞く私は、いい面の皮、という気分である。
 相変わらず、面白いと感ずる話はほとんどない。
 仕方がないので、口直しに本を読む。
 本も、つまらないときは、すぐ寝る。
 気づくと、10時間も寝ていることがある。
 嫁に来て以来、こんなに寝るのは初めてだ。

 これでは、太る一方なため、駅ではエスカレーターを使わず、階段を上ろうと決心した。
 体は本日から、日野原先生、あるいは森光子に師事する予定である。
 心技体、は間違いで、体技心だと、青木プロも言っていた。
 口でなく、まずは階段からである。 
大仕事を終えると、「荷下ろし鬱病」というような症状が起きる。
高速で動いていた機械を急停止するのが良くないように、人の心も、急停止すると色々な弊害がある。
いつも、大仕事を終えた後がつらい。
仕事をしている間も、無論、別の意味でしんどいのだが、祭りの後の虚しさはまた別のものだ。

「ぼくたちにとっては、いまや生産することより、分解することのほうが大切になっているのではないだろうか。(中沢新一「アース・ダイバー」)」

そんなときに、こんな一節に出会う。
生産は、ある意味、取り組みやすい事柄である。
作り上げるには労力が要るけれど、ある種の興奮状態でもあり、また、それを使命と感じて動くのは人間の好む感情だ。

作り上げたものを、上手に分解して無に帰すのが難しい。
作りだしたものを無に帰す仕事は、興奮してはできない。
そこには、断念と諦観があり、幾分の感謝がある。

わたしは、これからどうしたいのか。
そう考えていたときに、こんな一節に出会った。
分解して無に帰すこと。
これがわたしのやりたいことかもしれない。
無駄なものを持ちすぎている。
それを始末するのは、自分でありたい。
身仕舞い、潔く、身軽にならなくては。 
 スタジオができて以来、本当に忙しかった。2年間、あまり休みもなく、毎日長い時間働いてきた。
 しかし、それでも元気である。会社は、色々あれども、仲間と一緒に働くので、フリーでいたときよりよほど楽だ。
 フリーでいたときは、一瞬一秒も無駄にしたくないと思っていた。自分の動きようで全てが決まるのがフリーランスの働き方だ。
だから、一瞬も気が抜けない。それと比べると、会社勤めはそんなに突き詰めなくても大丈夫なのだ。仲間がいるから、誰かが、誰かの代わりをしたり、穴埋めをしてくれる。

 色々な人がいる、というのは良いことだ。それぞれ別のことができて、色々なことに気がつく。

 そういう気分に馴れてきて、早めに家に帰るのも楽しくなってきた。
 家に帰るのは、たいていが料理をするため。
 料理といっても、子育て中のようにたくさんのものは作らない。
 今は、湯豆腐なんかが良い。

 田無には、豆腐屋が色々ある。
 旧青梅街道と駅の近く、そして帰り道の途中...。
 そのうちのどこの豆腐を買って帰ろうかな、と考える。
 今日は、湯豆腐にしよう、と決めたとする。
 3つの店の豆腐の味は、それぞれ別の個性があって、その日の気分で選ぶことができる。堅め、柔らかめ、濃い味、あっさり味。
 その上で、薬味を変えると楽しみ倍増だ。
 日によって、生醤油、出汁割り、ポン酢。
 そこに、すだちや刻み柚子、大根おろし、かんずり、柚子こしょう、刻みネギ、おかか、おろしショウガ、焼き海苔などを自在に加味しながら、食べる。
 職住接近、田無に住んでいると、こういう贅沢ができる。

 豆腐は豆腐屋で買いたい。
 パンはパン屋で買いたい。
 しかも、その日の気分でいくつかの店を回りつつ。
 最近は、海苔やお茶、ハム・ソーセージも専門店で買う。
 ゆっくり考えて、ゆっくり見て選ぶ。

 本当に時間がなかった頃は、宅配の生協一本槍。
 あるいは、閉店間際のスーパーに駆け込んでいた。

 ゆっくり考えて、ゆっくり見て選ぶ。
 あちこち、町の中をうろうろしながら。
 今では、それが何でもなくできる。
 他の人に言えば、「そんなの普通でしょ」と笑われそうだが、私には生涯訪れないかもと諦めて、期待もしなかった時間。
 まるで、休暇をもらったみたいな帰り道。 
 時々、「わたし、本当に音楽が好きなんだろうか」と思うことがある。
 わたしは、普段、あまり音楽を聴かない。
 聴くときは、ぜひ聴きたいと思うものを短時間だけ。

 みんな、仕事をしながらBGMを流している。
 町へ出ると、色々な店でも音楽が流れている。

 わたしは、ほとんどBGMを聴くことができない。
 音楽を流すと、それに全神経が行ってしまう。嫌いなものなら、ずっと不快で、好きなものなら聴き入ってしまう。時には、気がそれて、人と話をするのすらままならない。ご飯を食べる時も、かかっている音楽が気になる。もしも、以前その店に行ったときと同じものが流れていたりすると、ちょっとがっかりする。クラシックの名曲など、何となく雰囲気作りとして流しているのかも知れないが、どれも曲名が分かるので、「また同じものということは...、セレクトしてないのだ」と落胆してしまう。

   本当の音楽は、そこに演奏する人がいて、聴く人は、わざわざ聴こうとするものだと思っている。
 王侯貴族は、傍らに演奏する楽団をはべらせて食事などしたらしいが、わたしは、いちいち演奏内容が気になるので、それはいらない。
 音楽を聴くのなら、演奏する人が音楽について何かを考えて、それを基に何かをしようとし、時間をかけて創り出し、決然と演奏しているところを見たい。
 わたしには、音楽は、告白だ。

 日常、音楽のパフォーマンスと、ライター仕事がいつも錯綜している。
 ライター仕事といっても、大半が音楽についてなので、その間、音楽からまったく離れているわけではないが、主題は同じでも、体や心の使い方はずいぶん違う。
 書いている時は「物書き業の方が好きだわ」と思い、歌ってみると「いやいや歌うことの方が好きだわ」と思う。
 長い人生の間には、逆の感じ方の時もあった。
 書いていると歌いたくなり、歌っていると書きたくなる。 
 今は、その頃と比べると落ち着いている。
 なにかひとつに専念しないのは、良くない性分だ、と思わなくなったらしい。
 何しろ、作曲や演奏をしながら原稿に追われるという業態で日本中、時には世界を駆け回る音楽家と知り合う機会も多くなった。
 忙しい人は、普通の感覚からは想像できないほど忙しい。
 芸術家なんて呼び名は素晴らしいが、とりあえず色々なことをこなさないと凌いで行けない業界ではある。

 創作の現場に立ち会うと、「過剰」が作品や価値を生むのだ、ということが分かって来る。
 創作する間、寝ない、食べない、休まないで興奮状態を続けられる人が多い。
 一般的な仕事と比較すると、ひとまとまりのくくりが時間的に長いのだ。
 そのようにしながら、日々こつこつ続けていることが、ある日まとまってみると、その内容と量の豊かさに感動する。
 創作の仕事は、疲れはするが、楽しいのでつい休まないことになってしまう。
 振り返ると、月に1日しか休まない、なんていうこともしばしばある。
 周囲から「休め、休め」といわれる。体が心配だ、と。
 確かに、これだけ仕事をすれば、疲れる。けれども、この仕事はそういう風にやる職種だ。体力と気力の続く限り、過剰にやり続ける。やりつづけられることが「才能」のひとつなのではないか。世間が「才能」とか「天才」と呼ぶものは、過剰を続ける体力なのだ、と思うほどだ。
 時には、わたしなどには、全く届かないほどの過剰さに出会う。
 感嘆する。その人は、人類の宝だ。
 最近、数人の奇才に出会って、ますますその感を強くしている。

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