エッセイ: 2008年6月アーカイブ

好奇心の在処

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 テレビを点けると、羞恥心というグループが歌っていて驚いた。すぐには意味が分からず、色々訊いて回るうちに、「恥ずかしいほど無知な人たち」を演ずる賢い3人組らしい、ということが分かった。
 じつは、好奇心について書こうとしたら、はじめに「羞恥心」という言葉が浮かんでしまい、まずそれをやっつけさしてもらった。すいません。
 で、好奇心について。
 最近また好奇心がむくむくと活性化している、という報告である。
 じつは、長いこと(20数年)フリーライターをしていて、雑誌やらムックやら分冊百科やらの記事をいやというほど書くため、恒常的に「ネタ探し」たる行為を続けていたら、ある時、自分本来の好奇心がすっかり枯れちゃった感じがした。
 その上、副作用として、雑誌やその周辺のもの、「企画」と名がつくもの一切を、見たくもなくなってしまった。厭世観丸出し。「どーせ、企画でしょ、どこまでも商売でしょ、いらんいらん」という気分である。
 ところが最近、また、いろいろな記事や特集の立て方を見て「面白い!」と思えるようになった。
 それどころか、できるだけたくさんのものを見たり聴いたりしたい!!と意気盛んである。面白いことが山ほどあり、まだ見も知らない偉人も山ほどいるのに、あーもったいない、知らずに終わりたくない(何が終わるのか?)  好奇心というか野次馬根性が、果たしてどのように回復したのかといえば、今回は仕事というより、自分の興味に基づいていろいろな事柄を見ているようなのだ。
 情報すべてに「うんざり感」てんこ盛りだった先日までが嘘のよう。
 最近見た中で、やはりすごいのは横尾忠則だったりする。
 日記を見て大笑いし、展覧会の絵を見て驚き、話の率直さと正直さに感心した。しかし、そのぶっ飛び方をしっかり「ぶっ飛んでる」ものとして確保し編集し、書籍なり展覧会なりwebサイトなりで展開させているのは果たしてどなたなんでしょ。
 意外に本人なのかも知れないが...。そんな時間はないはずだ、と思いたい。
 表現活動がぶっ飛んでいる人でも、社会性も同様にぶっ飛んでいるとは限らない。実際、私の周囲で天才的だったり、売れていたりする人々は、パフォーマンス的にはぶっ飛んでいるけれど、日常生活では何となくギリのところで踏みとどまっており、例外なく人に好かれていたりもする。
 実際に見た人の情報によれば、横尾忠則は、どんな場所にも一人で出かけ、一人で仕事して、そのまま帰って行くということだ。秘書や助手はいても、大変実務的な黒子的な役割なのかも知れない。
 私は、いつも忙しがっているため、「仕事を他人に振ればいいんでないかい」とアドバイスされがちだが、私としては、「他人に振れる仕事をしているようではしょうがないでしょ」という気持ちになる。他の人では出来ない仕事なので、私に溜まるわけで、そういうところに価値を置いて受けて立っているのだ。
 発案と情報収集とコーディネイトと編集、実際のパフォーマンス。などと書くと凄そうだが、ただ面白いことを実現する方法を追求しているだけではある。
 好奇心は、私の中でわーーっと編集され続ける「何だか良く分からないけれど大切そうなアイディア」喚起のために掻き集められる豪華な情報群に対して、いつも勢い良く発露しはじめるのである。   

笑いたくなる

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 新しい日常を、日々、紡ぎたい。
 あらかじめ定められた仕事をこなして日を送るのではなく、その日にすべきことを、毎日、毎度、考え出す、創り出す。

   去年は、とてもたくさんのことを始めた。
 でも、それらのことが無事に回転し始めた後で、私は今、少し退屈している。
 新しいことを始めるにあたって、面倒くさいとか、大変とかは少しも思わなかった。たぶん、忙しい、と感じたこともない。
 いつも、ただ面白く、楽しく、わくわくしていた。
 ところが、出来上がってみると、それらはどれもあらかじめ頭の中にあり、分かっていたもの・ことだから、達成感よりも既視感が強く先に立った。
 出来上がってみたら、普通のこと。
 当然ながら、その後に訪れた渇望は

「見たことのないもの、私の空想を超えるものに出会いたい」

 わたしは、もの凄くびっくりしたいし、爆発的に開放されて大笑いしたいし、ヘトヘトになるまで体力を使い果たしたい。

 ライブでは、たまにその感じがある。
 曲がどんな風に展開するのか、見えない時。
 あらかじめ、優れたアレンジがあって、どのような雰囲気の曲なのかが知れ渡っている曲でも、いくつかのコードをカットしたり、付け足したり、変えたりすると、別の様相が現れ、思いがけない方向に展開することがある。
 想像もしなかった場所で、笑いたくなる何かが湧き出ることがある。
 その瞬間をもたらすものは無数の偶然。
 一人残らずみんなが自由で、自分を掛け値なく表すことのできるほどの技量があって、何より音楽を面白がろうとしているとき。
 そんな時、突然のように、何だか素敵に快楽的な音が沸き立つ。
 人間を超えた、別の次元にあるものが、ひょっこりと起き上がるみたいに。
 「わぁー、出た~」
 私は、笑いたくなる。
 とても。
 私たちってとても素敵だ!!と、笑って、幸せになってしまう。

俳句な歌詞

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 先日のライブで、ギター加藤崇之氏作のボサノヴァ曲に日本語の歌詞をつけて歌ってみた。
 この曲は、美しいメロディーながら、音符の数がもの凄く少ない。
 白玉(全音符や2分音符)も多く、言葉を成立させるのが大変。
 しかし、あることを思いついた。
 歌詞を付けるのではなく「俳句」と思って作れば良いのだ。
 これはなかなか良いアイディアだった。
 少ない言葉で中身を濃く、という日本伝統の技が素晴しく有効に働くこととなるのだ。
 この手法を採ると、スタンダードナンバーの日本語歌詞もいける気がする。
 そもそもは、英語の四行詩、ソネットである。
 韻を踏みつつ、言葉で遊ぶ。

 俳句には、季語を読み込むなどの約束事があるようだが、それはそれとして、作詞するときの気分は俳句、あるいは短歌にて発想してみる。
 勉強のため、「俳句王国」というテレビ番組を見たりしている。
 どうやら「句会」とは、少ない言葉から想起される景色や雰囲気、詠み人の心持ちについて歓談するもの、言い換えれば、連想を引き起こす言葉の連なりに芸術性を見ては、同席する互いの世界観を照らし合わせて楽しむものらしい。

 「季語」については無知だけれど、その程度の縛りを置くところがまた、技を競う上でなら楽しいのかも知れない。
 俳句の出来を競う気はないが、その形式は好きだな。
 だから、しばし、その心持ちを研鑽して、美しい歌詞などにチャレンジしてみようではないか。

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