エッセイ: 2004年11月アーカイブ

 10時間もぶっ続けで音楽を演奏する会というものがあるなんて!

 驚いたことに、あったのでした。

 成蹊大学のMJG-モダン・ジャズ・グループ-のOBと現役が30人ほど集まった会のことです。私もこのサイトで宣伝しておりましたが、昨年、第1回目を開催してみましたら、それに刺激を受けたのか、一度は現役ミュージシャンを離れた、あるいは卒業時に素直に就職したという面々、今年はものすごい復活ぶり。
 プロも大勢いますため、入り乱れ、競い合ってのものすごいセッション。
 一度にSAX4本並んだときは、思わず「ここはPIT INNか」と呟いてしまいました。

 同じ大学のサークル出身でも、プロ・ミュージシャンになると普段の音楽活動を一緒に行うという例はまれ。
 それぞれ、個性の強すぎる面々だけに、活躍するジャンルは様々、共演するミュージシャンも各人各様になっております。
 ところが、誰もが素晴らしい音楽性の持ち主だから、たまに出会って共演してみると偉くカッコイイ事が起きる。
 今回の白眉は、鈴木道子、通称みっちゃんのボーカルと、加藤崇之君のギターによるスロー・ブルースでした。
 正に、鳥肌もの。
 いい音楽を聴くと、しばらく心が幸せでいっぱいになります。

 何十年ぶりの呼びかけに応えて参加してくださったたくさんのメンバー。
 本当にありがとう。
 これを機会に、またクレイジーを取り戻しましょうね!!

 私のような単品の歌歌いにとって、それぞれのライブやコンサートで何を着るかは大変な問題である。
 たいていの場合、ギャラは決して良くないが、にもかかわらずそれに交通費と衣装代がこみである。
 そりゃ、少しでもきれいに見せたいから、何とかして格好のつく衣装を調達しなくてはならない。
 服だけではない。
 靴、下着、アクセサリー、さらにはメイク道具。
 美容院代なんかも含まれる。
 だがしかし、そこに回すお足というのは、いつも最後の最後になる。
 その前に、生活しなくてはならず、子どもの教育費も出て行く。
 さらに、歌のレパートリーを仕入れるためには、CDやら楽譜やらも欲しい。 
 もちろん音源を再生するコンポやMDウォークマン、あるいはi-podなど。
 再生装置って、やっと過不足なく揃えたと思うと、何かが壊れるんだよね...。

 それらを満たした後に、残り少なくなったお足で衣装を探すわけである。
 たいてい、残り少なすぎて何も買えない。


 ある時、ライブの前に空き時間があったので、ふらりとユザワヤに寄った。
 そしてワゴンの中から派手派手しい布地を幾枚か買った。
 何という当てもなくである。
 ただし、衣装には派手な生地が良いかも、とは思った。
 しばらくそれを抱えていたら、友人の中に服を縫うことを生業としている人を見つけた。彼女に託して、好き勝手に要望を告げ、縫ってもらった。
 何と!これがとても良いのよ。
 安い端切れが「お仕立て」した立派な服に見える。
 これはひとえに、縫ってくださる友人の腕の良さに負うのだが、地獄で仏とはこのこと(大げさだねぇ)。
 衣装に関して、大いに気が楽になった。
 何しろ、一点もの。
 今時のブチックなんかでは、なかなか売っていないようなセンスの、個性的な服ができるのだ。 

 そして自分に関して気づいたこと。
 私は古くさい感じの服なら着られるようだ。
 古き良き時代のハリウッド映画みたいな。
 歌う歌も、古い歌、どちらかといえば得意。
 ジュリー・ロンドンなりきりごっこ、大好きである。
 胸が大きく開いていて、ウエストが絞ってあって、スカートが広がってる。
 これ、女の夢ではないですか。
 
 今まで、ドレス着たりするのはものすごく恥ずかしく、ステージ衣装というものに不適応状態だった。
 紅白歌合戦をみていても、ひとごとでも恥ずかしかった。
 だが、時代をずらすとこれが平気な感じがするのである。
 一種の仮装。
 これまで「歌うときは、仕方ない、女装だ」とうそぶいていたのですが、どうしてどうして、時代錯誤しようと思いついたら、なぜだか日に日に女らしくなってくる。
 あらま、一体、どうしたのかしらん...?!。

恋愛

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 文学のテーマは、だいたいが恋愛と死だ。
 書き手によっては、これに貧困や信仰などが加わるのだが、いずれにしても「恋愛」は、人間にとって大きいテーマなんだそうだ。
 そういえば、かつては私にとっても恋愛が大問題だったような気がする。
 「恋愛」という事態を中心に、人生のおおよそのスケジュールを組もうとしていた時期もあった。
 懐かしーー。
 燃えていたなぁ。
 それなのに、今となっては、その実感すらなかなか思い出せなくなっている。
 あれ、この世に「恋愛感情」なんてものが、存在したんだっけ???

 もしも誰かが大まじめに、「彼女は彼を愛している」と言ったとする。
 それに対する私の反応は、「その愛しているの内実とは、発情か、依存か、腐れ縁か、思い過ごしなんじゃなかろうか」というようなものだ。
 さらに、「鬱陶しいなぁ、愛なんて執着の言い換えだよ」と拒否る。
 なんという淋しい想像力か...。

 愛に挫折すると、こういう人間になってしまうらしい。
 「結局、誰も私を分かってなんてくれない。愛なんて所詮幻想なのよ」である。
 救いようもないくらい激しく幻滅しているわけだ。
 「愛」という感情にというより、そのような関係性に。

 だがしかし、その淋しすぎる想像力に対して、クールな助言を下さった男性がいた。
 その人ったら、変人と言えば変人なのだが...。
 「愛情なんて言ってたらめんどくさいだろうさ。そんなもん、生きてくのに邪魔。今日一日をいかに効率良く過ごすか、そのためにはそばにいる人々にどのように気分良く動いていただくか。それしかないでしょ。愛情に拘ったりしてると、大したことは何にもできないよ」

 はい、確かに。
 私も、戦後アメリカからもたらされた「ロマンティック・ラブ幻想」が、いかに日本の老若男女を惑わし、不幸にしたかを知っているつもり。
 しかしね、考えようによっては、ロマンティック・ラブを信奉しようが、現実主義を貫こうが、人が人生のどこかで「愛」と考えるものに挫折するのは同じだとも思う。
 現実主義であると自負する人々のバカみたいに楽観的な愛情観に、しばしば呆気にとられてきたこともあり...。

 若かりしころに描いた恋愛模様とは、男女が互いを好きになり、喜んだり、嫉妬したり、不安を抱いたりする悩ましい日常に幸福を感じる、というものだった。
 けれども、ここまで生きてみると、恋愛模様もそれとはかなり違う風情に見えてくる。男も女も、突き詰めれば己の生きたいように生きようとするのであり、その時に欠落する部分を補助してくれるパートナーを欲するということなのだ。

 私の場合、落ち着いて生きていくためには、ぜひとも母性的な男が必要みたいだ。
 時には、よしよしと頭を撫でてくれるような。
 だが、なぜか母性的な男を好きにはならない。
 好きになるのは偏ったほどに父性的な男で、たいていがエゴイスト。
 それだとこちらの欠落を埋めてもらえないので不満山積して不幸だと感じ続けるはめになる。
 この矛盾した感じこそ恋愛なのだ、と思っていた節もある。
 まぁ、苦しいからそう思いたくなるのは仕方がないが。
 結局、私の人生に於いて「愛」という関係性は、運命的に不満足なものとして終わるらしいのだ。
 性格と本能の食い違いが避けられない事実だということに、納得だけはゆくけれど...。
 それにしても、残念かも。

 一応、個人事務所というものを持っている。
 Largo―ラルゴ、という。
 イタリア語で「広い、大きい」という意味。
 音楽用語としては、「非常にゆっくりしたテンポで」である。
 私は、自分のイメージをゆったり大きい感じにしたいと願っている。
 シャープとかとんがっているとかアグレッシブとかでは駄目。
 ほんわり、のんびり、豊かな感じ。
 これが憧れなんである。
 (それで、どんどん太るのかも)

 スポーツジムでも、エアロビクスよりはヨガや太極拳、ストレッチ関係が好き。
 なるべく「ぼわーっ」と空気感を引き連れて生きていたいのだ。

 というのも、本質的に若い頃から欲張りで神経質、動作素早く、一度にいくつもの事を平行してやる、せっかちだから。
 融通きかず、変に潔癖。
 神経症とか強迫的性格ってやつ。
 これがとってもイヤ。
 年中忙しくぴりぴりしてる人って、嫌いなんだよね。
 それで、心してゆったり息をするように心がけた。
 近年やっと、幾分ぼーっとできるようになった気もする。
 別の言い方をすれば、年とって常に全力で動くほど体力がなくなった、ということでもあるが...。

 大学卒業時に就職を考えたとき、自分はどうしても、会社のような組織の中でしゃきしゃき働けない感じがした。
 かなり意識的に芝居をしないと、会社にい続けられないみたいだった。
 第一、朝起きられるかどうか、非常に心配だった。
 当時はもう、プロとして歌っており、昼夜は自然と逆転していた。
 他に、音楽の専門学校の講師の口もあったので、単に易きに着くが如く最初の就職をパス。
 以来、ずーーっとフリーランスである。
 何事につけ、畏まったことや形式的なことが苦手。
 タイムカードとか、出席簿とか、点呼とか、朝の体操とか、訓戒唱和とかは、本当に苦手である。
 子どもたちの授業参観に行くだけで、ぐらーっと眠くなって困るくらいだ。
 確定申告も、青色申告は無理という気がする。

 その点、個人事務所は良い。
 何でも自分の思うがまま。

 ただし事務所を持つと、雑用はどっさりできる。
 主婦でもあるので、まず自宅でひとしきり弁当や朝食の準備、後片づけ、洗濯を済ませ、やっと事務所に向かう。
 だいたいママチャリ。
 前後のカゴには資料やら、着替えやら食品やらがてんこ盛り。
 着いたらそこでまた、掃除。
 書類整理にゴミ捨て。
 仕事開始は午後だが、その日のヴォイストレーニングや個人レッスンをこなしながら、合間にメールをチェックし、原稿を書き、楽譜を書き、スケジュールを管理し、バンドのメンバーやライブハウスと連絡事項を確認してあちこちに電話をかけ、歌の練習をし、歌詞を覚え、リハーサルをし、たまには飲み会にも出る。
 仕事が早く片づく日は、おつかいして家に戻り、娘・息子の話を聞きながら食事の支度やら洗い物やら洗濯たたみなどをし、明日の弁当の算段をする。
 こういう「目の回る忙しさ」を続けるコツは、「ゆっくり動く」こと。
 ゆっくり動くと、仕事量に比して、それほど疲れないのだ。
 そしてほどよい声でゆっくり喋る。
 歌うときや指導するとき、原稿を書くときを除いて極力脱力する。
 周囲に気を使って喋るとか、間を持たせるために喋るとか、気働きをするとかは一切やめる。
 こうすることでかなり体力が維持できるものだ。
 
 だが、このサイクルと環境を確保するまでに10年くらいかかった。
 いわゆる試行錯誤の連続。
 そしてこのペース維持のために必要不可欠なのが個人事務所である。

 事務所は、私の昼寝場所でもあり、着替えをする場所でもある。
 自宅は駅からやや遠いので、スッピン、ジャージのままチャリを漕ぎ、駅近くの事務所に着いてから仕事をこなし、身支度をしてライブ他、都内、地方の仕事に出かけるというわけ。
 これで相当時間が節約できる。

 しかしさらに、もっと合理化できないものかと工夫してしまうのである。
 原稿を書く時間がもっと欲しい。
 曲を書く時間がたくさん欲しい。
 どちらも才能がないので時間がかかる。
 その時間を捻出するには、何をどうすればいいのか。
 事務所の椅子でうたた寝をしながら、まだ欲を出している。

 非常にゆっくりした速度で前進しながら、自転はちょっぱや、という感じかな。
 ネーミングLargoと私の内実が一致する日は訪れるのだろうか。
 多分...、来ないね。

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