エッセイ: 2010年10月アーカイブ

人は、本来混沌としているもので、喜怒哀楽なども、名前がつかないと自分が何を感じているのかすら説明できない。

 心理学には、喜怒哀楽その他の様々な感情をラベリングする、という手法がある。セラピストが、「いまおっしゃっているその気持ちは、これこれのようなことでしょうかね」と呟いたりすることで、自覚していなかった愛情とか、怒り、寂しさなんかに気づくのだ。

 気づくというか、はじめて、自分の感じていることに名前がつく、という感じ。つまり感受性への自意識が新たに生まれる。

 

 名前がつかない場合、この世はただの混沌である。

 外来語を翻訳して初めて、哲学や文学、自然科学などを考え、説明する言葉ができたように、人は名づけて初めてその存在を認識できる。

 

 ラベリングには、そのように、大方のことを整理整頓しながら考えられるという、偉大な効用があるのだが、その一方で、ラベリングによって認識の範囲を狭めてしまい、さらにその境界の虜になってしまうという困った弊害も生む。

 全ては、バランスなのだが...。

 

 だから、自分にとって、様々なラベルがもつ境界線とその可動域を、しばしば修正する必要がある。

 ラベルの可動域は、世間の常識を基準に考えるときと、クリエイティヴィティを考えるときとでかなり変動する。同じことに対する「了解」の質が人によって異なるのはそのためかも知れない。

 

 思い返すと、私は「そんな無謀なこと!!」と、常識的な傍の人間がハラハラすることばかりしてきた。しかし振り返ると、無謀だけが私を窮地から救った。

 

 常識的なラベリングにとらわれていたら、そのぶっ飛びはできなかったように思う。だが、裏を返せば、この程度ならぶっ飛んでも大丈夫なのではないか、と確信させる、私的世界でのラベリングの方法を掴んでいた、とも言える。

 

 ラベリングできて始めて、それを逸脱する時の危険の度合いが判断できる。

 ラベルの裏を読む、あるいはラベルの読み方を知る。

 その学びのチャンスは、現実にしかない。

 であれば、振れ幅の大きい人生の方が、ラベルの数が増え、そのお陰でチャンスの生まれる回数も増える。

 

 人生は、先の分からないジャングルであり、ジャングルには危険と資源が共存している。

 驚き、楽しみながら、目の前に現れる珍しいものに名前をつけていく度に、私にとっての新しい世界が開けていく。

 

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