エッセイ: 2010年11月アーカイブ

記憶力なのか?

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最近、「我ながら色々なことを記憶しているなぁ」と実感する。
子どもの頃から、何でも良く憶えている、と言われていたが、覚えられないことも多かったので、まぁ人並みだろう、と判断していた。
この頃になると、忘れていない、あるいはいざというと出てくることも含めて、私のデータ・ベースはなかなか凄い感じがしてきている。
ジャズのスタンダードやポップスの英語の歌詞など100曲以上は覚えている。
歌のメロディは、テレビの懐かしのメロディなら全曲くらい覚えている。
クラシックの音楽史とかミュージシャンの名前なども沢山知っている。
文学、心理学、人類学系のことも結構知っている。
料理を沢山知っている。

つまり、普段は知っているとか覚えていると意識しない事柄でも、きっかけができるとそのデータ・ベースが起動して次から次から色々な知識が出てくるのだ。
花を見たとき、急にその花の名前が分かって「ん?」と思う。
そういえば昔、花の分冊百科の仕事をしたんだった、と思い出す。
「ラナンキュラス」「デンファレ」なんて、普段絶対に覚えない。
先日は、テレビのクイズ番組でCuという元素記号を見た途端、それが「銅」であると分かり、「ん?」と思った。

こないだは、ミュージシャンと「共感覚」の話しをしていて、「ああ、ストラヴィンスキーみたいのね」と言われ、「いや違う、それはスクリャービンだべ」と考えている。

知っていることは、考えるための材料になる。
どこまで行っても材料。
そこから何かを考え出し作り出す方法は、また別のことなのだ。
そして、漠然とでも目的がある場合、知り方についても、どのように「知ったか」が重要である気がする。
どのような手段で知り、どのように自分の表現や創造性のうちのどこに役立てるか。
じつはこちらを構築することの方が難しい。

知ることで満載になって、ただ知っているだけ、という次元にいると思うと、我ながら淋しくなる。
知っていることをいくら展示しても、仕方がない。
それを使って何を生み出せるか。
いつもそれを考えてはいるのだけれど...。
記憶力がベースとなってそれが発酵したり化学変化を起こさないと、目覚ましいことはできないということなのだ。

 人は誰でも、何かを純粋に愛し、追求することができる。

 対象は様々だとしても、平等にその自由がある。

 

 学問の世界には研究という領域があって、その世界に住む人々にしか理解できない「仮定」とか「証明」とか「理論」などがある。専門用語が満載の学術論文は、専門外の人にはほとんど理解できない。

 

 同じことが、音楽の世界にも存在する。音楽家が「リズム」とか「和声」という時、彼らの頭の中には、膨大で絢爛なサンプルが鳴り響く。しかし、音楽家でない人々にとって、リズムは拍動でしかない。和声は、指摘されないとその存在にも気がつけないものである。

 

 世界をどう観察し、理解してインプットするか。

 

 それが私達ひとりひとりの個性となる。

 

 深くひとつの専門に入り込むと、他の専門家に、あるいは専門分野そのものに対しても、大いなるリスペクトが生まれる。

 と同時に、玩ぶ風に取り組んでいる人々への、憎悪に近い軽蔑も生まれる。別に腹なんか立てなくてもいいじゃん、人それぞれでしょ、と自分でも思う。だが、思いがけない時に、こちらの専門についての無理解や無神経な反応にさらされると、我ながら情けないほど傷ついてしまう。

 捧げた愛情が貶められるからだろうか。それとも、相手に理解の許容量がない場合、こちらの怒りのやり場が見当たらないからだろうか。

 

 趣味で取り組んでいる人々には、プロとして掘り下げている人々の深さや高みは体感できない。体感できなければ、その事柄に対する感動も理解も生まれようがない。人生に於ける利用の仕方が異なると言っても良い。 

 

 ものごとに対する深い理解や俯瞰能力は、ある場所にまで掘り進んだ個人にだけ体感できるものであり、深く広くなるたびに、可視ポイントが膨大な量になる。おまけに、それらの隅々にまで気を行き届かせないと落ち着かなくなる。心配であったり、不安であったり...。好むと好まざるとによらず、一旦そこに至ってしまうと、見えてしまった事柄を整理しハンドリングすることに大層な労力を要する。

 深いところがあることを知らない場合は、その労力の所在がそもそも想像の外であるらしい。一般的にはその状態を「脳天気」とか「幼稚」というのだが。

 

 我知らず掘り進んでしまう人とそうでない人とは、どこがどう違うのだろう。

 没頭する人と気が散る人とは、どこがどう違うのだろう。

 

 好奇心とか、興味とか、好きな事柄とか。人は何かに没頭し、探求したり学んだりすることに快感を覚える本能があるらしい。最近は、その境地にいられることが幸せなのだという論調が盛んである。

 

 しかし、私にはその境地にいて、たまたま社会にも適応できた人々だけが幸せという言葉を口にできるような気もする。

 

 時には、没頭している驚喜のうちに、生きる術の何もかもを失う場合もある。

 それすら幸せのひとつのかたちだと、言えなくもないけれど。



私が趣味で描いている絵を一枚。

趣味の定義は、「身銭を切って楽しむこと」だそうである。

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 色々なことを大切なのかどうか、判断している気がする。

そして、優先順位をつけましょうとか、選択と集中をしましょうとか言ってみたりもする。

 ところが、良いことか悪いことなのかは、時間が経って、記憶や印象が大分薄まったり忘れたりした頃になってすら、実際はどうなのかよく分からない。

 価値とか善悪というものが、どのように決まるのか。

 考えてもよく分からない。

 気分良く生きようとすると、判断なんてものを自分の中に採り入れすぎない方が良い、という感じすらする。

 

 便宜上、決めなくてはならないときも、首を傾げて曖昧にする。

 白黒つけろ、と迫られても、困った顔で首を傾げる。

 これこそ、人の在り方に等しい。

 見ていると、みんな良かれと思ってしたあれこれのことのほとんどが、あまり意味もないままに過ぎて行く。大決心は喜劇的でもある。

 やってみた結果、8割方は余計なことだったりもする。

 

 そう思いながら、日本映画のことを思い出す。

 山崎豊子の描き出す会社は、本当にこんなだろうかと、自分の緩さに感謝するほど壮絶なのだ。

 それでいて、森繁社長の漫遊記は、私などまだまだ生真面目すぎると反省するほどいい加減なのである。

 そしてそれぞれがやはり日本の一面らしい。

 何が本当か。

 映画は両極端を描いているのか。

 

 生きているときに絶対に大切なのは、ただ、寝て食べて機嫌良くいることだけ。それ以外は、暇つぶしのようである。

 楽しみのひとつとして、互いの暇つぶしの質をああだこうだと批評し合う。

 そういう発散を大まじめにしていると思うと、何だか笑いがこみ上げてくる。


                     うちで大人気の卵焼き。

                     砂糖多め、醤油ちょいたらし。

                    卵2コで作るときが、もっとも美味しい。

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