海外アーティストを聴いて思ったこと

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しばしば、海外のジャズ・ミュージシャンを聴く。
(もちろん、クラシックもオペラもポピュラーの他のジャンルも聴くが)。
海外のミュージシャンの佇まいが、どことなく国内のそれと異なるのはなぜなのだろうか、と考えていた。
何か学ぶべき点はあるのか、それともそれぞれの個性について理解する方が良いのか。

そして、ふと、腑に落ちたことがあった。
一所懸命と一生懸命だ。

日本の音楽家は、その場でともに演奏する仲間や、オーディエンスに対して「一所懸命」な感じがする。
一期一会精神といっても良いけれど、この機会を大切に、今ここに居る人々と自分の精一杯を分かち合いたい、という雰囲気。

対して西欧の音楽家は、「一生懸命」に見える。
自分の個性、価値観などに嘘をつきたくない、自分の美意識を生涯にわたって懸命に確立するために音楽をやる。だからぶれない。自己の確立に一生を懸ける。

日本のパフォーマンスはサービス精神に満ちている。
「盛り上がる」も含め、熱をこめて訴えかけ、伝える。
それは、時に押しつけがましく感じられ、クールさに欠けたりする。
けれど、日本のライブシーンが、ほとんど友達同士の「行ってあげたり来てもらったり」に席巻されている状況を見ると、とても頷ける。
真剣に誰かの生き様を理解しようとして耳を傾けるよりは、多少の微笑ましさを感じながら、仲良し同士の鑑賞会をする方が、日本人のメンタリティーに合っている。
ライブがセッションと仲間内の交換ばかりになる危険はある。

西欧では、パフォーマーはどこまでも自己表現をしようとする。
自分だけの世界を追求している。
自分のスタイルを確立しようとして、オーディエンスが喜ぶか否かよりは、自分の理想の追求に精を出す。だから、いつの間にか、彼らのスタイルは必ず確立する。
けれど、齟齬ばかりにつきまとわれて神経症になりやすい。

この異なるふたつの姿勢が、とても面白いと思う。
アジアは芸能寄りであり、西欧は自己実現寄りである。
どちらも無くてはならない要素だから、世界中のほとんどの表現者がこの振れ幅のどこかに自分を位置づけて、多少行ったり来たりしながら活動している。

自分はどうなのかというと、かなり西欧寄りだと感じる。
仲間を作るのに抵抗がある。
楽しむのに抵抗がある。
そして勉強が好きだ。
しょうもない。


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このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2014年6月 9日 12:41に書いたブログ記事です。

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