朝ドラが私の田舎

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昭和30年に北海道は余市郡余市町に生まれました。
余市町黒川町4丁目63番地。いまはもう、跡形もありませんが。
家業は内海歯科医院。祖父から父の代になっていて、戦後のまだ貧しい時代、住み込みの従業員もいました。
私の母校は黒川小学校。あの宇宙飛行士の毛利衛さんが先輩です。
小学校は、当時ニッカウヰスキー工場の隣にあって、時々酒粕の匂いが強烈に漂ってきました。
そして、小学生になった私の親友は、竹鶴みのぶさん。つまり、今の朝ドラのマッサンのお孫さんです。
みのぶさんには孝太郎さんさんというお兄様がいらして、彼は私の兄のお友達。
余市川が氾濫して大洪水になった日、遊びにいらしていて、帰れなくなり泊まっていたのを覚えています。

しばしば、山田町のお屋敷に遊びに行きました。
芝桜でいっぱいの長いエントランスを抜けて玄関を入ると、政孝社長が撃ち殺したヒグマの敷物が二枚。洋館の居間は、台所と小窓でつながり、田舎では見たことのない西洋式の水洗トイレがありました。

クリスマスにお呼ばれして、初めてプディングというものを知りました。
ブランデーをかけて火をつけ、ミルククリームをかけていただきます。
大きなツリーの下には、沢山のプレゼント。薄暗い照明、ろうそくの灯り。
何もかも、見たことのない世界です。

みのぶさんは、小学校4年生になる年に東京に引っ越されました。
それから中学を出るまでの月日は、私にとってはちょっとぼんやりとした、辛い日々となりました。

私の家にも竹鶴家にもピアノがありました。
私はバイオリンも習っていて、田舎の学校では大分いじめられやすい存在でした。
小樽の高校に入るまで、違和感と暗い気分がつきまといました。

思い返すと、竹鶴家との交流は、私にとって素敵な時間だったようです。
あの、重厚な居間の雰囲気や、ピアノを弾くことが日常の暮らし、広い庭でハッカを摘んでままごと遊びをしたり、珍しいお菓子を頂いたり。
あれらの経験がなかったら、私の人生の色合いは幾分違っていたはずです。

朝のドラマはずいぶん脚色されているみたいに感じますが、私が触れた人々が描かれていると思うと感慨深いものがあります。

時々東京から戻られる、本物のマッサンにもお会いしました。
禿頭にカイゼル髭。
大きな声。
良くステレオをかけながら、コンガを叩いていましたな。
いつも和服で、威風堂々。
千枚漬けとべったら漬けがお好きでした。
お会いすると、子どもながらに緊張したものです。

そして私は、ゼシー・リタ夫人が創設した「リタ幼稚園」を卒園しました。
みのぶさんと出会ったのも、その幼稚園でした。
月日は流れ、私の田舎の家も、多分お屋敷も無くなってしまいました。
みんなどうしているのでしょう。
遠い昔の記憶です。



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このページは、kyokotadaが2014年11月18日 15:37に書いたブログ記事です。

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