日本で発刊されているガイドブックは、パラパラと立ち読みしてみて、役立ちそう、と思わせることが大切なのだな! という事が分かった。
正月休みから、さまざまなガイドブックをためすすがめつ、バトンビーチを一日かけて歩くお散歩コース、という記事にすっかり魅入られた。距離も程良く、楽しそうな店が満載。
よって、到着翌日はビーチ周辺を歩くことに。
謎のガイド、ケンさんにそれを言うと「バトン・ビーチ何も無いよ」とのコメントだった。
しかし娘は「男と女では、何かある、の判断基準が違うと思うよ」と強気。
確かに、ケンさん、私たちに、「おかまショー」の話を何度もしていた。おかまショーも、像のショーも見たくないというと、ケンさんは少し困った顔をした。
そんなこんなで、34度Cの気温の中、ガイドブック片手に出かける。
ビーチに続くホテル前の道路は、早朝から大量の自動車とオートバイで渡ることもできない。もちろん、横断歩道や信号も無い。
そこは、10代と覚しき若い警備員が、サッカー審判のようにピーピッピと激しく笛を吹き鳴らして車を堰き止め、客を渡す。陽に焼けて真っ黒な上汗まみれの警備員君、仕事が楽しそうである。
ビーチ沿いに歩いて、コンビニで水を買い、薬局でサンスクリーンを買う。
道すがら、トゥクトゥクと呼ばれる簡易タクシーや、屋台の人々がひっきりなしに声をかけてくる。
トゥクトゥクは悪い運転手にぼられる心配があり、屋台は腹を下す心配があるので、極力目を合わせないようにスタスタ歩く。
ビーチの一角では、夜間に予定されているライブのためのステージ設営が進んでいた。
なかなか良い機材が揃っている。
ガイドブックの地図は、思っていたよりずいぶんと広範囲だった。縮尺を都合良く見ていたが、1時間歩いてやっと目的のストリート周辺に辿り着く。おまけに、横道に入ろうとすると、目印の店が無かったり変わっていたり。地図には無い小さい通りも大量にあって、迷いまくってしまう。
タイの高級な陶磁器を扱う店にやっと辿り着いたが、さすがの高価格。目の保養だけに留める。
続いて、タイシルクの店を探したが、ついに見つからずじまい。
もっとも多い店は、パブだろうか、ずーーーっと奥までカウンターが続く、間口も広い店が何軒も軒を連ねている。ミニスカの女性が、昼間からビールをサーブしている。そこにはマッチョな入れ墨欧米男たちが。夜ともなれば、一体が通行止めになって、ストリート中が酔っ払いで溢れ返るそうだ。
お酒は全く飲めない私と娘は、そうですか、と頷くのみ。
酒池肉林には、行ってみたくならないのだ。
お昼は、有名なレストランであるパトン・シーフードに行ってみた。
軽めに、スープと炒め物。
どう見ても日本人らしい、中年の婦人が、入れ墨だらけのたくましいタイ人の青年といる。
ラブ的な仲良しっぽい。すごいな。こういう遊びをする女性もいるのだな。
町中に小さな店はたくさんあれど、売っているものはどれも安っぽい。
そこで、ショッピングセンターに行き、やや高級な石けんやハーブ製品をお土産用に購入した。
ショッピングセンター内は、どの階もセレクトショップ形式で、中国系、インド系、イスラム系とさまざまな人々が沢山の店を開いている。
なぜか、店番の人々は皆座っている。店の前に椅子やベンチを置いて、だらーっと座ったまま、客を待っているのだ。
日本なら、店員は立ってお客様をお待ちし、歩き疲れた客がそこここに置かれたベンチで休む、というスタイルだが、タイでは、店番の人が座り、客は立ったまま我慢するのである。
1階には、巨大な食品スーバーがあり、そこでタイカレーのペーストを購入。これがお土産希望で一番多かったのだ。試しに色々なメーカーのものを買ってみた。
それにしても、人の多さ、店の多さ、屋台の多さに驚く。
同じような店がひしめき、どれも値切れば半値になる。
自動車、トゥクトゥク、オートバイ、屋台。
喧噪と生きるための必死な商売。
でも、沢山売れなくても食べて行けそうな緩さも併せて感じられる。
かなりの年齢のおばあさんが、首から下げた箱に煙草を入れて売っている。
これだけの商いでも、やっていけるのかも知れない。
そういえば、サンフランシスコではあれほど目にしたホームレスや物乞いが、ここにはいない。
みんな、何かしら働いている。
複雑な仕事では無く、ただ運転するとか、少ない種類のものを売るとか、マッサージするとか。
同業がひしめいても、慌てず騒がず、マイペースで客を待つ。自分は椅子に座って、街を行く観光客を呼び止める。
その、泰然とした、不安のなさ。
不安はあるのかも知れないが、日本で働く人々の、いくらやっても不全感が残る焦燥とは明らかに異なる、ゆったりとした空気。
働くことと、コスト感覚、自分の能力の受け止め方。
そういう事柄が、日本とはずいぶん違う。
けれど、つい数十年前までは、日本の人々も、こんな風に、「自分にできること」を粛々とこなすだけで、生きていくことができたのだ。
自分の生い立ちの中で、確かにそういう人々に出会っていた。
働くことに対する、人としての感覚が、文明国では苛酷になっているのだな、と改めて感じた。
(つづく)
正月休みから、さまざまなガイドブックをためすすがめつ、バトンビーチを一日かけて歩くお散歩コース、という記事にすっかり魅入られた。距離も程良く、楽しそうな店が満載。
よって、到着翌日はビーチ周辺を歩くことに。
謎のガイド、ケンさんにそれを言うと「バトン・ビーチ何も無いよ」とのコメントだった。
しかし娘は「男と女では、何かある、の判断基準が違うと思うよ」と強気。
確かに、ケンさん、私たちに、「おかまショー」の話を何度もしていた。おかまショーも、像のショーも見たくないというと、ケンさんは少し困った顔をした。
そんなこんなで、34度Cの気温の中、ガイドブック片手に出かける。
ビーチに続くホテル前の道路は、早朝から大量の自動車とオートバイで渡ることもできない。もちろん、横断歩道や信号も無い。
そこは、10代と覚しき若い警備員が、サッカー審判のようにピーピッピと激しく笛を吹き鳴らして車を堰き止め、客を渡す。陽に焼けて真っ黒な上汗まみれの警備員君、仕事が楽しそうである。
ビーチ沿いに歩いて、コンビニで水を買い、薬局でサンスクリーンを買う。
道すがら、トゥクトゥクと呼ばれる簡易タクシーや、屋台の人々がひっきりなしに声をかけてくる。
トゥクトゥクは悪い運転手にぼられる心配があり、屋台は腹を下す心配があるので、極力目を合わせないようにスタスタ歩く。
ビーチの一角では、夜間に予定されているライブのためのステージ設営が進んでいた。
なかなか良い機材が揃っている。
ガイドブックの地図は、思っていたよりずいぶんと広範囲だった。縮尺を都合良く見ていたが、1時間歩いてやっと目的のストリート周辺に辿り着く。おまけに、横道に入ろうとすると、目印の店が無かったり変わっていたり。地図には無い小さい通りも大量にあって、迷いまくってしまう。
タイの高級な陶磁器を扱う店にやっと辿り着いたが、さすがの高価格。目の保養だけに留める。
続いて、タイシルクの店を探したが、ついに見つからずじまい。
もっとも多い店は、パブだろうか、ずーーーっと奥までカウンターが続く、間口も広い店が何軒も軒を連ねている。ミニスカの女性が、昼間からビールをサーブしている。そこにはマッチョな入れ墨欧米男たちが。夜ともなれば、一体が通行止めになって、ストリート中が酔っ払いで溢れ返るそうだ。
お酒は全く飲めない私と娘は、そうですか、と頷くのみ。
酒池肉林には、行ってみたくならないのだ。
お昼は、有名なレストランであるパトン・シーフードに行ってみた。
軽めに、スープと炒め物。
どう見ても日本人らしい、中年の婦人が、入れ墨だらけのたくましいタイ人の青年といる。
ラブ的な仲良しっぽい。すごいな。こういう遊びをする女性もいるのだな。
町中に小さな店はたくさんあれど、売っているものはどれも安っぽい。
そこで、ショッピングセンターに行き、やや高級な石けんやハーブ製品をお土産用に購入した。
ショッピングセンター内は、どの階もセレクトショップ形式で、中国系、インド系、イスラム系とさまざまな人々が沢山の店を開いている。
なぜか、店番の人々は皆座っている。店の前に椅子やベンチを置いて、だらーっと座ったまま、客を待っているのだ。
日本なら、店員は立ってお客様をお待ちし、歩き疲れた客がそこここに置かれたベンチで休む、というスタイルだが、タイでは、店番の人が座り、客は立ったまま我慢するのである。
1階には、巨大な食品スーバーがあり、そこでタイカレーのペーストを購入。これがお土産希望で一番多かったのだ。試しに色々なメーカーのものを買ってみた。
それにしても、人の多さ、店の多さ、屋台の多さに驚く。
同じような店がひしめき、どれも値切れば半値になる。
自動車、トゥクトゥク、オートバイ、屋台。
喧噪と生きるための必死な商売。
でも、沢山売れなくても食べて行けそうな緩さも併せて感じられる。
かなりの年齢のおばあさんが、首から下げた箱に煙草を入れて売っている。
これだけの商いでも、やっていけるのかも知れない。
そういえば、サンフランシスコではあれほど目にしたホームレスや物乞いが、ここにはいない。
みんな、何かしら働いている。
複雑な仕事では無く、ただ運転するとか、少ない種類のものを売るとか、マッサージするとか。
同業がひしめいても、慌てず騒がず、マイペースで客を待つ。自分は椅子に座って、街を行く観光客を呼び止める。
その、泰然とした、不安のなさ。
不安はあるのかも知れないが、日本で働く人々の、いくらやっても不全感が残る焦燥とは明らかに異なる、ゆったりとした空気。
働くことと、コスト感覚、自分の能力の受け止め方。
そういう事柄が、日本とはずいぶん違う。
けれど、つい数十年前までは、日本の人々も、こんな風に、「自分にできること」を粛々とこなすだけで、生きていくことができたのだ。
自分の生い立ちの中で、確かにそういう人々に出会っていた。
働くことに対する、人としての感覚が、文明国では苛酷になっているのだな、と改めて感じた。
(つづく)
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