前回ブログを書いた1月末からずっと、喉の調子が最悪だった。
以前、無茶をして失声した経験もあるけれど、その時でも10日間で声は戻り、ライブで歌う間にめきめきと回復した。
今回の不調は咳から始まった。熱も無く、風邪を引いた実感も無いのに咳だけが止まらない。
出会う幾人かの人々が同様の状態にあったので、今年の風邪は咳なのかと思ったりした。
次第に声が出難くなり、レコーディングを控えていた2月始め、親しい耳鼻咽喉科の先生に診て頂いた。声帯の左半分が真っ赤に充血していた。色々な処方をして頂き、薬を飲み、吸入をし、何とか声は出続けた。それでも、レコーディングの出来について、とても不安が残った。
やがて、咳は止まり、しかし痰の絡み方が半端なく、ライブの度に、5割しか声が出ていない、今日は7割だ、と落胆した。
けれど意外な事に、聴いて下さった方たちは、それほど酷く感じないと仰る。
私の体感では、ほんとに酷い声のはず。
レコーディング後に、ラフミックスを聴きながら、ギタリストの加藤さんとメールのやりとり。全然納得いかないと嘆く私に、加藤さんは、「声が出ないことで君の弱さが出ていて、それも良いと思うよ」と。
あっ、と思った。
偶然なのか、3月はブッキングに手こずってライブお休みになっていた。
声は出ない、レッスンもなかなかうまくできない。
他にも、仕事がらみで様々な考え事の多い日々。
日は疾風のように過ぎ去った。
4月は打って変わってライブが続く。
私にしては、珍しいペースで週に2回ずつ。
久しぶりに会うメンバーとの楽しい演奏。
日によって声は、出たり出なかったりだったけれど、そのどれもがかけがえ無く、一度きりの体験だった。
常日頃、声ばかりに頼る歌い方を好きでは無いと思っていた。
声が完璧に出ないことこそ個性の源だとも思っていた。
理想の歌唱を追い求めて、しかし足りない部分を補う表現力。
それを目指していたはずだった。
けれど、どこかで、ボイストレーナーであることに、責任を感じすぎていた。
トレーナーなのだから、声は出て当然だ、とばかりに。
ピアニストは、行く先々でコンディションにばらつきのあるピアノを弾きこなさなくてはならない。
それは大変なことだろう。
ボーカリストは、日々の体調により、鳴らない声で何とかしなくてはならない日がある。
鳴らなくても、出なくても、その中で何とかする。
その中で、発見したり、感じ取ったりすることもある。
楽器のプレイヤーが、技術を追い求める時、それを何に使うかを見失うことがある。
いわゆる、テクニックに走って、内容に乏しい、とか。
テクニックはあるが、心に響かない、とか。
疑問の余地無く、音楽をやるからには、技術は磨くべきだ。
それは、今心に湧き起こったことを、そのまま表現するために使いたいから。
コンディションが悪いときでも、心に湧き起こることは変わらない。
それを逃さず、大切に、表現に昇華するはたらきが、技術の手前に存在する。
このはたらきを、技術と呼ぶのには抵抗がある。
これは技術では無く、芸術かも知れない。
演奏する人の中に湧き起こるものを、きっとオーディエンスは見守っている。
私の中に湧き起こるもの。
輝きや、惛さや、嘆きや、喜びを、見守ってくれてる。
声は、完璧でなくても、私という存在が想いに溢れていれば、何とかなっていくのかも知れない。
音楽は、技術が無くては出来ないけれど、それよりまず、心が動かないともっと出来ない。
以前、無茶をして失声した経験もあるけれど、その時でも10日間で声は戻り、ライブで歌う間にめきめきと回復した。
今回の不調は咳から始まった。熱も無く、風邪を引いた実感も無いのに咳だけが止まらない。
出会う幾人かの人々が同様の状態にあったので、今年の風邪は咳なのかと思ったりした。
次第に声が出難くなり、レコーディングを控えていた2月始め、親しい耳鼻咽喉科の先生に診て頂いた。声帯の左半分が真っ赤に充血していた。色々な処方をして頂き、薬を飲み、吸入をし、何とか声は出続けた。それでも、レコーディングの出来について、とても不安が残った。
やがて、咳は止まり、しかし痰の絡み方が半端なく、ライブの度に、5割しか声が出ていない、今日は7割だ、と落胆した。
けれど意外な事に、聴いて下さった方たちは、それほど酷く感じないと仰る。
私の体感では、ほんとに酷い声のはず。
レコーディング後に、ラフミックスを聴きながら、ギタリストの加藤さんとメールのやりとり。全然納得いかないと嘆く私に、加藤さんは、「声が出ないことで君の弱さが出ていて、それも良いと思うよ」と。
あっ、と思った。
偶然なのか、3月はブッキングに手こずってライブお休みになっていた。
声は出ない、レッスンもなかなかうまくできない。
他にも、仕事がらみで様々な考え事の多い日々。
日は疾風のように過ぎ去った。
4月は打って変わってライブが続く。
私にしては、珍しいペースで週に2回ずつ。
久しぶりに会うメンバーとの楽しい演奏。
日によって声は、出たり出なかったりだったけれど、そのどれもがかけがえ無く、一度きりの体験だった。
常日頃、声ばかりに頼る歌い方を好きでは無いと思っていた。
声が完璧に出ないことこそ個性の源だとも思っていた。
理想の歌唱を追い求めて、しかし足りない部分を補う表現力。
それを目指していたはずだった。
けれど、どこかで、ボイストレーナーであることに、責任を感じすぎていた。
トレーナーなのだから、声は出て当然だ、とばかりに。
ピアニストは、行く先々でコンディションにばらつきのあるピアノを弾きこなさなくてはならない。
それは大変なことだろう。
ボーカリストは、日々の体調により、鳴らない声で何とかしなくてはならない日がある。
鳴らなくても、出なくても、その中で何とかする。
その中で、発見したり、感じ取ったりすることもある。
楽器のプレイヤーが、技術を追い求める時、それを何に使うかを見失うことがある。
いわゆる、テクニックに走って、内容に乏しい、とか。
テクニックはあるが、心に響かない、とか。
疑問の余地無く、音楽をやるからには、技術は磨くべきだ。
それは、今心に湧き起こったことを、そのまま表現するために使いたいから。
コンディションが悪いときでも、心に湧き起こることは変わらない。
それを逃さず、大切に、表現に昇華するはたらきが、技術の手前に存在する。
このはたらきを、技術と呼ぶのには抵抗がある。
これは技術では無く、芸術かも知れない。
演奏する人の中に湧き起こるものを、きっとオーディエンスは見守っている。
私の中に湧き起こるもの。
輝きや、惛さや、嘆きや、喜びを、見守ってくれてる。
声は、完璧でなくても、私という存在が想いに溢れていれば、何とかなっていくのかも知れない。
音楽は、技術が無くては出来ないけれど、それよりまず、心が動かないともっと出来ない。
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