kyokotada: 2018年10月アーカイブ

生まれた境遇や、その後の人生の巡り合わせで、何の落ち度も無いはずなのに不遇という人は五万といる。
というか、ほとんどの人々は、自分を不遇だと感じてもいる。
恵まれている人々は、しかし、それを肯定したがらない。
いわゆる自己責任論。
自己責任論は、成功した人にとっては蜜の味らしいが、裕福な家庭に育って、1度外に出てみたら、財産とは時勢や運に多く負っているものだと、子どもでも気がつく。

私にそれとなく、親子関係の問題を話してくれる人々は、たいてい裕福なのだ。
裕福であることは、素晴らしいことである反面、それを享受する人格にとっては危険なものでもある。

裕福だというだけで、自分には他の人々より価値がある、と単純に思い込んでしまう人がいる。
そのような人が親で、自分の機嫌を損ねる他者を罵るタイプだったりすると、実に救いようが無い。
そしてなぜかそのパターンが多い。

私の育った時代はたまたま高度経済成長期で、大戦で辛酸を舐めた後の大逆転勝利を体現した人が多数いる。
およそ、人並みの才覚と体力があれば、かなりな確率で成功できた。
そして、成功を全て自分の実力だと信じてしまうことが非難されることは無かった。
それどころか成功体験は国を挙げて奨励されていた。
当人だけで無く、家族皆が尻馬に乗ってしまうくらい。
良く、作家などが地方の講演会などに出かけると、控え室で派手な印象の婦人が根拠無く偉そうにしているのに出会い、あれは誰かと尋ねると、例外なく当地の金持ちの奥様であるのだ、という話を聞いたことがある。
作家が面食らうのは、その地での知名度と普遍的な知名度や認知が混乱していることに気づくからだ。
そしてそれは、何かの機会に試されるということがほとんど無いので、温存されてしまう。

たとえば、そのような人物が親だと、子どもは勘違いを刷りこまれ、随分変な価値観を持ったまま成長してしまう。
勘違いは悪できないが、対人関係では致命的に働く。

いじめに遭うとか、はぶられるとか、嫌われるとか。
そんな程度はまだしも、最も大変なのは、自分を過大評価していることに気づけない点だろう。
外界に対しては、何らか下駄を履いている気がしながら、罵られて育つので自己評価は低い、あるいは自己尊重感が無い、という変な人になっている。

普通にしていると不安なので、やたらはしゃいだり、逆に、おどおどしたりする。
人見知りである。
そして、自分は誰にとってもお邪魔で迷惑な存在かも知れないと、いつもいつも感じている。

そんなだから、役割のある仕事の立場上での付きあいはとても楽だけれど、友達付き合いはひどく苦手だ。
仕事でも、こちらからアプローチするのは、心理的にとても大変。

理屈では、色々とアプローチして、その中の幾つかが成功すれば良いのだ、と考えるのだが、それ以前に、頭の中で失敗に対する叱責がデフォルトとして鳴り響くので、とても辛い。
踏み出すまでに費やすエネルギーの量が半端ない。

ちょうど、私が産まれて育った時代、アメリカでは人種差別に対する熱い「公民権運動」が続いていた。
ジャズに出会った頃、まだその余韻があった。
音楽とともに、レイシズムに興味が向いた。
人が他者を差別したり、迫害したり、ついには殺害したりする。
平等が成立しない原因は何に起因するのか。
優位性を成立させるその仕組み。
人種差別については、20歳の夏にホームステイした西海岸の家庭で、その実際も体験した。
自分に似ない他者に対する恐怖が、ひとつの大いなる遠因だろうと感じた。

結婚して子どもを育てている間は、フェミニズムの勉強会などに行った。
女性が主体性を持つとはどのようなことか。
家族の面倒を見る存在に終始して良いものか。
10歳ほど年上の、団塊の世代の女性たちが、議論を沸騰させていた。
けれど、多くの主張や、説明をすぐには理解できず、納得もできないまま長い時間が過ぎた。

次には、大学時代に出会って、そののままうやむやになっていた「臨床心理学」の本格的な勉強。
セラピスト養成の研究室に入れて頂き、大学院生や臨床心理士たちと切磋琢磨した。
学際的な論文など、読むのも書くのも初めてに近かったので、頭が壊れるかと思ったが、何とか自分なりに、学問のやり方を学べたと思った。

しかし、これらの勉強が何を目指していたかと言えば、ひとえに、自分を救うためだった。
いつも辛い。
いつも孤独。
愛について懐疑的。

この時期には、クラシック音楽関係の著書を書いていたので、そちらの学際的な勉強もしていた。
そのように、膨大に勉強し続けたけれど、辛いのは治らなかった。
結局、辛いのは治らない、という場所で、覚悟を決めて生きなくてはならないと思い知った。
成果ではないものでしか、自分は救われないらしい。

愛を示されると怯えてしまう。
その人が自分を支配しようとしていると感じてしまう。
支配した後に放擲するのではないかと怖れてしまう。
しかも人生は、そのように進んでもいる。
それは自分が招いていることなのか、そのような巡り合わせしか用意されていなかったのか、知りようも無い。
けれど、内面的には、ずっと辛くても仕方が無い、と開き直るしかないと悟った。

他の人の心の中を見たことが無いから、そしてこのレベルまで踏み込んで語り合うなどということもないから、私が特に辛い人生なのか、他の人々とそう変わらないのか、それは未知のままだ。

けれど、ここにいるまま、何かを希望したり、かいくぐったり、時に感動したりしつつ、生きていくことはできるかもしれない。
どこまで行っても、「かも知れない」でしかなく、それが人生の終わりまで、ずーっと続くのに違いないのだけれど。

人の心の有り様の、あまりの繊細さと複雑さに、何だか笑っちゃいますけど。

誰かの欲望を叶えるために生き始めると、こちらに向けられる欲求はどんどんとエスカレートする。
体育会系のコーチが、才能のある選手たちに無理なトレーニングを課して、今よりさらによい成果を出させそうと目論むのが具体例だ。
選手たちは、しばしば、彼らの欲望に応えて疲れ果て、故障したり、心を病んだりする。

面白いのだろうと思う。
もっと勉強すれば、あるいは、もっと練習すれば、成果が上がるよ。
もっと良い結果がついてくるよ。
そう励ましながら妄想するのは面白くて楽しいに違いない。
だって、要求する彼らの中に、フィジカルやメンタルの現実の追い込みは起きないのだから。

彼らの妄想の中では、努力していることへの快楽、楽しさしか思い浮かばないのかも知れない。
それらはドラマや劇画の中で、楽しいこととして描かれている。
そのフィクションに悪のりするのは、確かにとても面白い。
問題は、その面白さを自分のために採用するのでは無く、誰かに対して投げるという点だ。

多くの場合、無理な注文をする人々は、現実的な努力をしたことが無い。
自分が誰かに対して望む「努力」という事態の、真実の重さや内容について、確かな具体像、体感を持つことができていない。
知らないから気軽に申しつける。
「もっとこうすれば良いのに」

ひとつことを極めるとき、前提として主体的に選び取ったものである必要がある。
他者から押しつけられたものに対して、人並み外れた努力ができることは稀だ。
好きこそものの上手なれ、という良く言われる次元でも無い。
好きに加えて、生物学的な向き不向きが影響する。
誰かには簡単にできるのに、自分にはできないことがある。
その逆に、他の人々には難しいことらしいが、なぜだか自分には楽にこなすことができることもある。
その、自分が他の人々より楽にこなせることを選び取り、深めて、本当の難しさをとことん知り、さらに飽くことなく時間をかけながら、自然体となるまで身につけていくことこそ、努力だ。

人はひとりずつ違う。
驚くほど。
その違いを、自分と周囲とが見極め、受け容れ、しばしば点検しながら丁寧に歩む以外、良い生き方を選び取る術は無い。

けれど、その体感をすっ飛ばす人々がいる。
見るだけ、空想するだけで、大変さを知ることはない。
そのためか、自分の不快には大層敏感で、耐性も低い。
キレやすく、時に、不快の責任をこちらに押しつけて、言い募る。
いたわりやねぎらいはしなくとも、罵り言葉なら、唖然とするほどスラスラと口から流れ出る。

「なぜお前は、こちらが思うように動かないか?
それは嫌がらせか?
こちらの要求に応えないのは、愛情欠如なんじゃないか?
そんな態度で良いと思ってるのか?
恩知らずか?」

その口からすらすらと流れ出す罵り言葉は、全て、こちらにしなだれかかるほどの甘えでしかないのだが、当人は、こちらを断罪でもしているかのように高揚して、得意げな顔さえする。
その表情は、言葉で痛めつけることで人を支配したい欲望にまみれている。

罵る人が家族にいると、良い人は病み、駆逐されて、家庭そのものが壊滅する。
家族の中にたったひとりでも、無知と甘えとにまみれて、それに気づけない人がいるだけで、家庭は無残に破壊される。
普通に理解力のある人は、自分の心を守るために無口になり、閉じこもって悪口を避けたがるので、事態はさらに悪化し続ける。
戦えば良いと思うだろうか?
テレビのドラマか何かのように、ちゃんと話し合えば良いとか、思うだろうか?

「話し合い」という、フィクショナルなデマゴーグ。
戦いは、同じルールの下でしか成立しないということを知っているだろうか?
同じ言語を話していても、全く言葉の通じない人々がいるということを、誰もが日々、様々な場面で経験している。
それを知らない人だけは、お茶の間ドラマのように予定調和な成り行きを妄想するかも知れない。

良い映画には、その絶望的な困難を丁寧に描いているものが多い。
そして文学も。
つまり、人間とは、これらの困難について考え考えしながら、身を守り、死なないように、そろりそろりと生きている存在なのだ。

他者の欲望

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心理学には様々な流派がある。
前提として「臨床心理学」と言わなくては、セラピーやアナライズにすら辿り着けない。
迷路にネズミを走らせたりして統計を取る、「実験心理学」という分野もあるのだ。

さて、臨床心理学。
私が最初に触れたのは、アメリカのサリヴァンという精神科医の著書だ。
大学のゼミで購読したその本こそが、後に、あまり論理的でないこの頭が壊れそうになるまで考え続ける学びへと導くものだった。
ゼミは「ユートピア思想」へのアプローチとして、人間の心がどのように形成されていくのかを考えるものだった。

とても個人的な理由で、その内容に触れたときのショックを今でも思い出す。
人の心の成長は、育てる人の態度に大きく左右される。
そして育てる人は自分では選べない。

親の意に添えないことを、親の言動に理解が及ばないことを、自分の無知のせいと思い込んでいた、その思い込みに新しい光が差した。
親は必ずしも正しくないと、サリヴァンはほのめかした。
そこから、怒濤の心理学本探しが始まり、既読書が積み上がっていく。

人の心理は、矛盾した情報を受け取りすぎることで、歪む。
歪みはそのまま負荷となり、心の形成に影響を及ぼす。

乱読する中で出会った言葉のひとつに「他者の欲望」がある。
フランスの精神科医ラカンの言葉だ。
ラカンは難解で、私には歯が立たなかったが、この言葉ほど自分の辛さを上手く言い当てているものは他に無いと感じた。
誰かが私に、「こうした方が良いよ、そうしてくれると私が嬉しい」と訴えかけている。
私は無意識にも、意識的にも、その信号を受け取り、自分の欲望はさて置いても、他者の欲望を叶えなくてはと懸命になる。
それは、自分の感情を自分で矯正することに近い。
怒ってはならない、避けてはならない、嫌ってはならない...。
果てなく続く「ならないの連鎖」
感情を制御した果てには、行動を制御されることでは起きない種類の病理が、心に棲みつく。

感情を制御されると、人は生気を失っていく。
終始、焦燥感と不全感に苛まれるようになる。
いつも忘れ物をしているような、何もかもやり遂げていないような、自分の不完全さばかりが意識される。
責め苦のような日々が続く。

そのまま、子ども時代と思春期が過ぎる。
楽しそうに語らい、連れだっている友と打ち解けられなくなる。
グループの中で孤立しがちになる。
人よりも素晴らしく努力しているのだが、承認は得られていない気がする。
どこまでも続く、自分の努力の足り無さに対する不安。
どこにいても、誰からも承認されていないと感じる孤独。

何よりも問題なのは、それを異常だと知りえないことだ。
他の友人たちの家庭と、自分の家庭とを比較するだけの知恵は無い。
その安心や無邪気な喜びや希望が、他の友人たちと較べて極端に少ないことに気づく術は無い。

他者の欲望は、発している本人にとっては親の愛だったのだ。
エゴでも、見栄でも、自分は親なのだから、その立場で子どもに望むことは正しいはずだと、無邪気に信じられていた。
その無邪気さの残酷。
矯正器であちこちを固められた幼い心は、生涯治らない歪みを負う。

たったひとつの救いは、いつの日か、自分に歪みがあることを知ることはできる、という点だ。

大人になって、臨床心理学と出会い、幸い私にはそれができた。
できないと、摂食障害や、自傷行為、不良化、依存症などに進まざるを得ない。
私の兄弟はそちらに行ってしまった。
私を留めてくれたのは、音楽や文学への傾倒だ。
それに依存しても、自傷ではない。

自覚ができて少し楽になり、しかし、その歪みから生じる、生きていく上での困難を改めて認め、受け容れることにせねばらなくなった。
少しずつ、健康に生きる可能性が出てきた後も、他者の欲望は、長く付きまとった。
それが完全に無くなったのは、親が認知症になった時だったかも知れない。

厄介なのは、他者の欲望を私も欲望するということだ。
親から離れても、周囲には必ず人がいる。
私は誰かを喜ばせようとする。
逆に、こちらからのお願いはし難い。
頼まれなくても、気がつくと誰かの楽のために動いてしまう。
それを称して「気が利く」とか「良い人」と言うべきだろうか?

そんな人になりたいわけでは無かったろう、と思う。
わがまま勝手で、傍若無人な、でも、魅力的な人にこそ、なりたかったのだろうと思う。

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