音楽: 2011年11月アーカイブ

毎日色々な音楽を聴いたり、触れたりしている。
好んで聴くものもあるし、話題だから聴いてみようというものものあるし、友だちの演奏に出かけることもあるし、蕎麦屋のラジオで聴くこともある。
色々な音楽があって、私はそのうち、結構たくさんの種類を聴く方だと思う。
オペラやクラシック、ジャズ、ソウル、ゴスペル、ロック、民族音楽、歌謡曲、フォーク、演歌。
仕事では、どんな歌も私仕様で教えることにしている。
美空ひばりの発声は、ジャズと変わらない。
サラ・ヴォーンは、オペラのアルトだ。
良い歌は、どんなジャンルであっても、良くあるためのエッセンスが同じだ。
気持ちの良い発声と、旋律理解と、リズム感。

音楽はどんな姿をしていても良いのだ。
どんなアプローチであっても。

料理と音楽は似ていないだろうか。
どの国にも共通の基本があり、バリエーションが数限りなくある。

料理の基本がまず良い素材を見極めることであるのを思えば、音楽ではパフォーマーが良い素材として成立していなくてはならないはずだ、と感じる。

身体と楽器の一体感。
歌手なら身体を楽器として感じる感性。
外からではなく、身体の中に生成するリズム。
出したい音に対する自己肯定の強度。

それらのことを、内在化し、認知し、醸成して表に出す。
体内で熟成させる感じは、子どもを胎むときと似ている。
育って人となり、胎内から外に出て独立する。
言葉や音が種となり育って表現され、音楽として成立する。

そういえば...。
教育と表現が別のものだということに気づく人が少なくなった。
型を身につけることと、内的な自由度を増すことを、双曲線を描くようにふたつながら発展させられなくてはならない。その方法と成果について、自覚的でありたい。

私は、音楽を求める人を慈しむ。
何をどれほど受け取ってもらえるかは、未知数だけれど。
互いの音楽を聴き合うことは、話すよりもっと、深い共感を呼び起こすから。
先週の金曜日、昭和音楽大学で行われたテレサ・ベルガンサの声楽公開レッスンへ。
テレサは、スペイン生まれのメゾ・ソプラノ。頂いたパンフレットの写真はどう見ても40代であるが、ご本人は70代後半とお見受けした。

ちょっと不安なので、Wikiに行ってくる。

はい、ただいま。
1936年生まれでした。

4名の学生が登場したオペラ・アリアのレッスンの内容は、事前に行われた準備段階でほぼ完成していたらしく、それほどテクニカルな事には触れなかった。
どちらかといえば、オペラでの役作り。
レチタティーヴオのこなし方みたいなこと。

レッスンというよりは、歌手としての在り方の方に焦点があった。
自分の声質を知ること。
個性を大切にすること。
人生経験を歌に昇華させること。
それらを、ご自身の体験を元に語られる。

多くは盛り込まない。
そのポイントの選び方が素敵だ。

歌の教師は大変に難しい。
最近とみにそう思い始めた。
私自身はプロでありたいと思うので、色々な情報を収集し、幅広く知見を保ちたいと考えている。
けれど、アマチュアで歌うことを楽しみにしている人たちは、ただ、聴いて憧れた曲をそのまま再現できさえすればいいのだ。
そしてそれすら、時には難事業だ。
「歌う」という行為の広大な沃野のどこいら辺に場所を定めてその生徒を導くか。
事情を聞き、観察し、道を選択しながら進むのだが、その加減がじつに難しい。
特に、生徒同士で情報交換するとき、それぞれが別のことを教えられていることに驚き、差別ではないか、とすら思うそうである。

私はいつも、教える内容が「オン・デマンド」であることを伝えるが、生徒の皆さんにとっての習うということ、あるいはメソッドという物が、ある一定の堅固な体裁を成していて、決まり切ったその内容を初歩から同一の順序で教わることだと先入観を抱いているとすれば事はなかなか厄介である。
学校教育は表面そのようであるため、無意識にそう思うかも知れない。
歌を習うとき、教師である私の頭の中には時系列のメソッドなり、エチュードなりが並べてあり、そのバックグラウンドに指導要領的な物を隠し置いていると考えられているとすれば、それは随分違っている。
私の頭の中は、整理されていない。
悪い意味ではなく、言い換えれば、いつも流動的だ。
整理された棚様の場所から持ち出してくることもあれば、浮遊して私を取り巻く物をまさにその時つかまえて使うこともある。

何がその時必要か、役立つか。
その背景には自分が苦労して掴み取ってきた体験そのものがあるのだ。
その体験を、言葉を尽くして説明する。
何しろ、時には取説的音楽教本のライターでもあるし、抽象を比喩で説明することは苦手ではない。
意を尽くして、伝わるかと探り探り、生徒の理解力をためつすがめつ、無理なら撤退し...。

なぜ撤退も大切かと言えば、学ぶということにガッツのある人は少ないからだ。
ほとんどの人は、学ぶことがそれほど好きではない。
例え、憧れきった趣味の世界であっても、それに優先されるものは多くある。
それが常識ある人の在り方だ。

クリエイターとかアーティストとかミュージシャンと呼ばれる人々と付き合っていると、誰もが、身体の続く限り、時間の許す限り学んで、体験して、飽くことのないのに気づく。
その特異体質を、周囲の人々は理解のしようもないと思う。
それは「業」とか「質(たち)」というものだという気もする。
本人は辛いが楽しい。
「くるたのしい」という感じ。

いくらでも、いつでも、自分の専門についてのことを探し、発見し、楽しんでいる。
ある種の特異体質なのだ。

ベルガンサに戻れば、そうして来たに違いない彼女の人生の、自信に満ちた幸福が、何の計らいもない自然な仕草や声で存分に体現されていた。
通訳さんに対する、いたずらじみた、ちょっといたぶるような「No no no」すら可愛らしい。
だって、音楽は人が幸せになるためにあるものでしょ、といわんばかり。
その楽観を人生を賭けて身体に取り込んできた人だけが保つ存在感は掛け替えがない。

歌と生きた歌手の、たっぷりとした余裕や、コケットや愛を、遠くのステージに感じて幸せなひとときだった。


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