文学のテーマは、だいたいが恋愛と死だ。
書き手によっては、これに貧困や信仰などが加わるのだが、いずれにしても「恋愛」は、人間にとって大きいテーマなんだそうだ。
そういえば、かつては私にとっても恋愛が大問題だったような気がする。
「恋愛」という事態を中心に、人生のおおよそのスケジュールを組もうとしていた時期もあった。
懐かしーー。
燃えていたなぁ。
それなのに、今となっては、その実感すらなかなか思い出せなくなっている。
あれ、この世に「恋愛感情」なんてものが、存在したんだっけ???
もしも誰かが大まじめに、「彼女は彼を愛している」と言ったとする。
それに対する私の反応は、「その愛しているの内実とは、発情か、依存か、腐れ縁か、思い過ごしなんじゃなかろうか」というようなものだ。
さらに、「鬱陶しいなぁ、愛なんて執着の言い換えだよ」と拒否る。
なんという淋しい想像力か...。
愛に挫折すると、こういう人間になってしまうらしい。
「結局、誰も私を分かってなんてくれない。愛なんて所詮幻想なのよ」である。
救いようもないくらい激しく幻滅しているわけだ。
「愛」という感情にというより、そのような関係性に。
だがしかし、その淋しすぎる想像力に対して、クールな助言を下さった男性がいた。
その人ったら、変人と言えば変人なのだが...。
「愛情なんて言ってたらめんどくさいだろうさ。そんなもん、生きてくのに邪魔。今日一日をいかに効率良く過ごすか、そのためにはそばにいる人々にどのように気分良く動いていただくか。それしかないでしょ。愛情に拘ったりしてると、大したことは何にもできないよ」
はい、確かに。
私も、戦後アメリカからもたらされた「ロマンティック・ラブ幻想」が、いかに日本の老若男女を惑わし、不幸にしたかを知っているつもり。
しかしね、考えようによっては、ロマンティック・ラブを信奉しようが、現実主義を貫こうが、人が人生のどこかで「愛」と考えるものに挫折するのは同じだとも思う。
現実主義であると自負する人々のバカみたいに楽観的な愛情観に、しばしば呆気にとられてきたこともあり...。
若かりしころに描いた恋愛模様とは、男女が互いを好きになり、喜んだり、嫉妬したり、不安を抱いたりする悩ましい日常に幸福を感じる、というものだった。
けれども、ここまで生きてみると、恋愛模様もそれとはかなり違う風情に見えてくる。男も女も、突き詰めれば己の生きたいように生きようとするのであり、その時に欠落する部分を補助してくれるパートナーを欲するということなのだ。
私の場合、落ち着いて生きていくためには、ぜひとも母性的な男が必要みたいだ。
時には、よしよしと頭を撫でてくれるような。
だが、なぜか母性的な男を好きにはならない。
好きになるのは偏ったほどに父性的な男で、たいていがエゴイスト。
それだとこちらの欠落を埋めてもらえないので不満山積して不幸だと感じ続けるはめになる。
この矛盾した感じこそ恋愛なのだ、と思っていた節もある。
まぁ、苦しいからそう思いたくなるのは仕方がないが。
結局、私の人生に於いて「愛」という関係性は、運命的に不満足なものとして終わるらしいのだ。
性格と本能の食い違いが避けられない事実だということに、納得だけはゆくけれど...。
それにしても、残念かも。