kyokotada: 2012年12月アーカイブ

年末です

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今日は野菜類を買った。
里芋、ごぼう、レンコン、たけのこ、きぬさや、大根、キュウリ、トマト、アボカド。
正月にはやはり、それらしいものを作る。
おせちは、みんなあまり喜ばないので、煮物とか雑煮、なます、寿司など。

我が家は酒飲みが一人もいないため、食べるだけで三が日が暮れる。
それでも、普段なら仕事で動いているのが、だら〜っとしているだけなのでお腹も空かないし、夜も眠くならない。
体調が悪くなり、機嫌も悪くなる。

それでもお正月は、何となく良い。
いい気持ちがするのは、子供時分の記憶が良いからだと思う。
私の家は本家で、父が年末年始の行事を取り仕切っていた。

暮れに御用納めをして、住み込みで働く皆さんが田舎に帰ると、しめ飾りを家中の要所に飾り、お神酒を上げる。
仏壇と神棚に灯りをともして、お坊さんがお経を上げに来、神主さんが祝詞を上げに来る。私たちはそのいちいちに付き合って、神妙に座ったり、柏手を打ったり。

大晦日には、年越しの料理を仕上げ、テレビを見ながらご馳走を食べ、年が変われば若水を汲み、雪の中を神社まで初詣に行く。
神社で年越し蕎麦をご馳走になり、家に戻って寝るのが深夜。

元旦は、起きて若水を頂き、雑煮を食べたら和服に着替えて年賀状を見る。
お年玉を頂く。
写真館に出かけて、家族写真を撮る。
幼い頃は、父の兄弟姉妹とその家族と、たくさんの親戚が泊まりにきていた。

二日になると書き初めをする。
父は書道の趣味もあったので、子供たちは皆書道教室に通わされていた。それでも、重ねて、いちいち筆遣いを指導してくれた。

三が日が過ぎると、もう働き出していたような気がするが、どうだったのだろう、いざ思い出そうとすると、記憶は曖昧だ。
正月休みはとても長かったようでもあり、飽きるほど長くはなかったようでもあり。

北海道は、冬休みが長く、三学期が始まるのは1月20日頃。
学校ではスキー教室があり、校庭にはスケートリンクがあった。
木造の校舎には朝行くと、いつも窓の隙間から吹き込んだ雪が積もっていた。
バケツを下げて、小使いさんに石炭をもらいにいく。
一日の石炭はすごく少なくて、燃え切るとあとは冷える一方。
ストーブの周りが温かいだけで、窓際の後ろの席などは冷蔵庫のよう。
それでも、寒いから学校に行きたくない、ということはなかった。
防寒具といっても、今のような立派なものはないから、せいぜいがジャンパーとゴム長靴。毛糸の手袋と帽子。
毛糸の手袋は雪を掴むとそれがだまになって残る。
繊維にへばりついた雪は、温かい部屋に入ると溶け、手袋は濡れたまま。
それをストーブのそばにおいて干す。
帰りまでに乾かないと、家に帰るまでによほど冷たくなる。

家に帰り着いてジャンパーや手袋を脱ぎ、ストーブで手足を温める。
子供の頃、毎日、手足は無感覚になるまで冷やされていた。

吹雪の日も、凍り付く日も、白い息を吐きながら、滑って転びながら、学校に通った。
自分の住む町が、特別に寒いということにも気づかないで。
外に出る際には、覚悟が要った。
生きて帰るぞ、寒さに負けないで学校に着くまで頑張るぞ、というような。
雪道を歩くのには技術が要る。
坂道ではその上に根性が要る。
気づかず、それでいちいち頑張る癖がついたのだろうか。

髪の毛がもじゃもじゃな茂木健一郎さんが言った「クオリア」という概念。
認知したものを体感によって記憶するみたいなことだったかな?
「脳と仮想」にて言葉を尽くして説明しているが、実感できるかというと「むむむ」であった。ところが、最近ぼんやりしている時に、「ぴかっ」と、何かを見るか、感じるかする瞬間があって、それはすぐに行き過ぎて形にはならないものなんだけれど、深い部分で役立っている実感もあり、これがかの「クオリア」かと思ってみている。

表現しようとすれば、発想とか思いつきとかフラッシュバックとか色々に言える。
何かが、確かに起こっている。
忘れていた夢が、気づかぬトリガーによって瞬間、映像になるみたいな。
喜ばしいことだと思う。
受信機が活発だ。

それを使って何をしようとしているかというと、自分のこれまでとこれからを内面で再構築する。
仕事にせよ家庭にせよ。
具体的には、身体と気分が良くなる生活。
そのための働き方と場の整備。
とりあえず、絶妙なバランスを考えること。

うん、ちょっと楽しみ。
何かをキャッチしている感もある。

いつも少数派

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選挙当日、数日前から風邪で寝込んでいた息子は、夜の7時半になってから熱が下がってるからと投票に出かけた。
その後、テレビで結果を見て驚愕している。
彼の手元にあるスマートフォンでは、TweetでもFBでも別の世界観が流れていたらしい。
「自分がマイノリティだということが良く分かった」との感想。

私も若い頃は革命が起きてほしいと願っていた。
長い自民党主権政治を指して「55年体制」と言うが、55年生まれの私にはそれ以外の政権というものがしばらく間無かった。たまにあると、すぐ潰えた。
そして今思い返すと、自民党的体質を嫌悪したのは、政治の中身云々ではなく、もっと皮膚感覚的なもの。たとえば、自分の老いに対する恐怖だとか、延々と続く身もふたもない経済優先の日常とかに対する忌避とかだったのだろう、と推測される。

だいたい、若者は親のしたり顔が嫌いだ。
私のような夢見る人は、いつだって「そんな甘い考えで世の中渡っていけると思うなよ、勉強しろ」と叱られるのが常だった。
ただし、それに従って歯科医師や医者になった兄弟たちは勉強しすぎたせいか破滅してしまったが...。
人には程々ということがある。

子供だった私は、自民党体質と親の現実主義を重ねた。早く言えば「四の五の言わず実をとれ」ということだと思っていた。
目の前にある果実を取らずして、どうやって生きていけるのか、なりふり構わず働いて、人に先んじ得をとれ、実をとれ。
だがなぜか、実を取って子を守る両親の元で育つ坊ちゃん嬢ちゃんにはそういう世界観が我慢ならない。
「いやだわ、脂ぎってて、下品で」とかぬかしていたな。今ではちょっと恥ずかしい。

いずれにしても、選挙のような多くの人の意見が集約される案件に出会うと、息子ではないが自分が少数派だということを思い返す。
その弊害として、滅多に自分の意見を言わない、用心深い人間になっているのにも気づく。

ミュージシャンやクリエイターなどを職業としている人々は、そのことをいつも感じているはずだ。
自分の考え方や感性や生き方は、少数派なのだ、ということ。
だから、つい、同じ感性の人々と閉じた付き合いをしがちである。
そしてそれがあるべき世界だと勘違いする。

だからたまには、選挙で多数派の力というものを目の当たりにして覚醒した方が良い。
「思い出しました、私は少数派なんです」と。
結果、こんな国は嫌だと思うだろうか。
原発あっても良いと考える人が多数派なのか、と嘆くだろうか。
センスがないと、がっかりするだろうか。

けれど、自分は多数派とは別の視点や考え方を持って、我を通したからこその現在の職業なのではないか。彼の国では、リベラル政党はそういった職業の人々の集合体である。外から見ても分かりやすい。つまり、宗教感や帰属政党すら二極分化させて身分や所属を表明する。それは、多分に一神教的なのだが。

八百万の神がいる日本では、少しの考えの差でも袂を分かち、別政党を名乗ってみはするが、多数決の仕組みに破れて無惨に散っていく。
私たちは、では、何に対して操を立てているのか?
そう、まさに操を立ててているのだ。
周囲の既知の人々や、これまでの自分の来歴に対して、それを裏切れない思い。
それは、少数派がひどくナイーブな、周囲の圧力よりは自分の体感を信じる人々だからなのかも知れない。

思春期あたりから、私はいつも少数派の一員だ。
家族の中でも、地域でも、経済活動の中でも。
けれどそれは、いくら考えても、二項対立の一方でも、あるいは相対的なものではない。
あちらがいやだから反対の立場、ということではないのだ。
ただ、自分が人間としてどのような存在なのかを考えた挙げ句に取りたくなる態度が、知らず少数派になってしまうのである。

身体を感じる、とはそういうことだ。
集団になれない、ひとりとして。

書くこと

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子供の頃から漫画雑誌も含め、本を読むのが大好きだった。
新しい本を手に入れると、暖房の側に陣取って、冬ならみかんをたくさん用意し、食べては読み、読んでは食べ。

生まれ育った家の暖房は、ペチカというものだったので、暖まった赤いレンガに背中をくっつけて、廊下に保存しているキンキンに冷えたみかんを食べた。
北海道の、人口2万人の町には、書店が2〜3あったろうか。
昔は、雑誌を「取る」という習慣があり、毎週、毎月、子供たちが読む漫画雑誌、父が読む総合誌、母が読む家庭雑誌などが届いた。
じつに、少年マガジン、少年サンデー、後に少年ジャンプ、週間マーガレット、なかよし、りぼん、文芸春秋、月刊宝石、家庭画報、暮らしの手帳、女性自身など。
私が成長すると、これにティーンルック、ananなども加わる。
今思い返すとすごい。
そして日々、家族全員分の雑誌をなめるように読んだ。

父は教養主義だったのか、家には少年少女世界文学全集と日本文学全集、世界の美術というグラフィックな事典類他、何だか色々な全集ものも揃っていた。
それらをいつも、おやつを食べながら見ていた気がする。

小学校高学年になると、研究授業というものがあり、太宰の「走れメロス」を教材として、いつもとは別の偉い先生が授業をし、感想文を発表する、というイベントがあった。
私は、メロスに話しかける形式で、小学生なのに10枚も書いて、先生に望外に褒められた。あなたはぜひ大学に進み、文科系の勉強をしなさいと励まされた。

家が医者系だったので、親は渋い顔をした。
けれど、高校では合唱と文芸部で活躍し、文科系の先生のおぼえが良く、音大は諦めてやるから、文学部に行かせろと親を説得して、興味津々だった「文化人類学」の学べる大学に入った。するとそこのジャズ研がコンテスト優勝常連のサークルで、しかも、場所が吉祥寺。高田渡さんとも知り合うなど、ミュージシャンの友達がわんさかできた。
ゼミは「思想史」。そこで精神医学に出会い、指導教授に気に入られて研究室で助手をしないかと誘われたが、歌を聴いてもらって諦めて頂いた。
ゼミの提出レポートは「好きなことを書け」と言われて、散文など出したこともある。生意気。けれど、文章を書くことが幾分得意だな、と思わせて頂いた。

歌っているうちに、何となく行き詰まり、結婚して子供を持ってから家でライター仕事を始めた。最初はコテンパン。
編集さんたちから「ギャラを頂ける文章の書き方」を叩き込まれた。そして、フリーランスならではの取りはぐれ、揉め事、不安定を友に、未だ諦めず書き続けている。

今、数年前のものを見返すと、思っていたより下手で、つまり日々、少しずつ上手くなっているのかも知れない。
実際には、それも気のせいで、相対的にはまだまだの水準なのだが、それでも、書くことで自分の人生がだいぶ救われている。

書いていると、自分を開示したときの気分、登場させる人々との距離感や関係性、そして過ぎ行く時間の質の手触りなどが分かる。
長年、小説などのフィクションを書きたいと願っていたのだが、私には少し無理なようだ。フィクションより、現実が凄いから?
良く分からないが、エッセイとか解説の方が楽しい。
それが、私の「書くこと」みたいだ。

どういう方が読んで下さっているのか分からない。
たまに、「読んでいます」と、思いがけない方に言って頂く。
少しばかり恥ずかしく、けれど励みになり。
姿の見えない読者の皆様の存在も、きっと私の助けになっている。




CDの売り上げが落ちているとか、音楽産業が大変だとか言われるけれど、じつは音楽を聴く人も趣味で演奏する人も増えている。音楽産業の中身というか、発想や業態を変えつつ、凌いで行かなくちゃならないだけではないか。

私が歌を始めた頃は、12月に入るとギャラの良い仕事が目白押しだった。いつもの倍以上のギャラで、六本木や赤坂のバー、キャバレーのショー仕事があった。歌手はそれこそドレスを翻して走っていた。つまり店を掛け持ちしていた。

夫はスタジオやツアーで演奏するミュージシャンだったが、バブル時などはコマーシャル、ドラマの劇伴、歌手のレコーディングなどが日々あり、さらにタレントのツアーやイベントにはグリーン車で移動していた。ギャラも現在の3倍くらい。

その後、私は歌手を中断してライターとなったが、同様に雑誌のライティング、ページ単価が現在の3倍だった。ライター仲間には年収1千万を超える人もいた。ちょろい、と勘違いしたのも無理は無い。そしてバブルが去り、以降ギャラはどんどん下がり続けている。

故あってレーベルをしていると、著作権管理とか、著作権使用料とか、ISRCとか、印税とか、バーコードについての知識が必要である。こちらは申請して配分を願い出、あるいは使用料を支払う側な訳である。それぞれに管理団体というものがある。やってみると、これらは、大変に手間暇がかかり、しかも数で手数料を稼ぐという仕事の体制が可能な資本にしかできない特殊な業務であることが分かる。毎日膨大に発表されるすべての録音楽曲に対して、データベースを作り、海外の著作権者も含めて、印税申請の要不要を確認し、振込先を確認し、正しく徴収し、分配する。
大規模な売り上げを出すものばかりではない。
何年もかかって、数百枚というアルバムすらある。
それらの新譜販売、レンタル、放送使用などのいちいちを集約して分配する。
分配して頂くための申請手続きは、結構めんどい。
また、使う立場となったときの申請内容も、結構めんどい。
CDに録音する、書籍に添付するCDに録音する、コンサートやライブで演奏する、放送で流すなど、いちいちの申請時に、一曲ごとの著作権管理団体が何処であるかを確認し、申請する。やってみると、片手間仕事では割にあわない。それこそ日々、膨大な数の楽曲をさばいて手間賃を稼ぐ以外、データベースを維持する方途が無い事が分かる。管理担当する職業の人々は、音楽そのものでは全くない、ただの数字、日々、パソコンの中の数字と向き合い続けるのだ。

音楽は、ごくシンプルに考えると、演奏する人がいて、聴きたい人がいて、演奏に対してそれなりの対価を支払う、というものだ。
録音でなく、しかも町の辻での演奏なんかだと、投げ銭で潤う計算だ。
けれども、今の現実は、演奏会場、会場のスタッフ、演奏家のそれぞれが一度のライブでそれなりの収益を得て立ち行かなくてはならない。
それに対する、聴く人々の負担がいかほどになるか、いつも計算されている。
会場費、チケット代やライブチャージ、飲食代。
人の仕事として見てみると、ブッキングなどのマネージャー、店のスタッフ、音響スタッフ、調理スタッフ、ミュージシャン、そのローディーなどが必要だ。
キャパシティが100人以下だとたいてい赤字だったりもする。

メジャーで、大ホールを借り、大きく仕掛けを施して堪能させるコンサートなら良いかといえば、こちらもほとんど儲からない。経費でトントン。日本でそれができるミュージャンは、だんだん少なくなっている。

つまり、経費が今やどこからも回収できない。
できないというのは、経費が高度成長期やバブル期のように何処からかやってこないから。
スポンサーは細り、売り上げはなかなか集中しない。
だからかつてのように、大きな社屋にスタジオを完備し、たくさんのスタッフや営業マンを抱えても、それらの経費はまったく回収できない状況になった。
メジャーな会社は、売り上げ成績が不良な部門から削るので、ジャズなどはほとんど切られている。それはショップの棚も同様。

さて、このように見ていくと、大手ができる仕事は限られてくるとしか言いようがない。
AKBやジャニーズのように、ギャラがほとんど支払われないタレントを使って、派手派手しくベントを続け、楽しんでもらいながらタレントは使い捨て、母体を残す。

一般の人々には、芸能界というのは、あるいは音楽産業というものはテレビの中に、そのようなものとして見えているらしい。そこに関わっていないと、ミュージシャンではないような受け取り方もされる。だが、じつは本格的なミュージシャンというのは、人知れず数知れずいる。作曲、編曲、演奏、いずれもが、実社会には無名の才能に担当されている。そこが無いとAKBもジャニーズも成立しないのだ。

例えば、ノーベル賞をもらって初めて、そういう学者がいる事が知れるように、そういう研究領域がある事が知れるように、音楽界にも、業界内に知れわたる専門家がたくさんいる。そしてその多くは生活のためにギャラの良い仕事をし、余裕ができれば本来のアーティスティックな仕事をする。この場合、音楽の中で生業と趣味が分かれている事になる。

需要と供給という面でいえば、専門家の追求する音楽を楽しむためには、それなりの知識、教養、理解力が要る。何も考えずに流行ものとして受け取る音楽と、その深さやチャレンジを受け取る音楽とがあるのだ。

さて、そこでやっと最初の、聴くだけの人より、演奏する人々が増えている件。今や、日本も本業である生業と、ひょっとすれば職業にできるほどに熟練した趣味を持つことすら珍しくないという状況に入ってきている。現に私の知っている人々はそうだ。対象は音楽に限らず、芸術系、あるいは競技系や収集系など。

江戸時代に、多くの人が歌舞伎を楽しみながら自らも義太夫や長唄、踊りを楽しみ、役者の批評をしたように。武士階級が必修のように謡や能を学んだように。そこから何らかクリエイティブな細胞を増殖させて、本業にも活かそうという、ごく当然な循環を楽しみながら続ける人々がどんどん増えている。

音楽家は、バッハからシュトラウス、マーラーに至るまで、どんな才能も教師、あるいは指導者の職を兼ねていた。ジャズもまた、個人レッスンやワークショップをたくさん経ないと上達できないジャンルである。

演奏する、録音する、指導する、ともに楽しむという音楽の持つ様々な可能性を、その時代に見合う形で組み合わせながら、自らの音楽体験を充実させることこそ、プロにもアマチュアにも求められる。それこそ、楽しみは自分の手で生み出すもの、なのだ。

私としては、この環境を得たその先で、如何なクリエイティビティを構築して多くのアーカイブを残すか。それが勝負と信じているのだが。




平成中村座で一度見たかったな。
いつでも観られる、と思ってしまった。
歌舞伎座が取り壊しになる前に、玉三郎とやったお芝居を観た。
いつもオーバーアクションで、ずいぶん疲れるんだろうなぁ、と感じた。
一生懸命やる、というノリから、円熟に入る直前だったかも知れない。

だいぶ前には、久世光彦の脚本の現代劇。
柄本明と藤山直美と渡辺えりという豪華キャスト。
この時も、達者だなぁ、と感心した。
落語がそのまま芝居になっているような。

野田秀樹にコクーン歌舞伎を書いてもらった後、芝居について対談したものを読んだ。
2人ともが私と同い年と分かってとても嬉しかったし、ならば自分ももう少し頑張らねばとも思った。

同世代の実績や、がんばり具合は、自分の立ち位置を確認する役に立つ。
自分の生きてきた時代性とか、世代の雰囲気とか、加齢とか。
そろそろ大人しくしようかなとか、いやもっと出しゃばろうとか。
それが、これからという時期に、活躍が突然途切れてしまったのだ。

毎日一生懸命で、本人にとっては納得の人生だったのかも知れない。
けれども、観る側は、これからが円熟味の増す年齢だったはずと惜しい気持ちでいっぱいになる。惜しむ心は勝手なものだ。

生きてそこに居るって、不思議だ。
亡くなって、思い出の中だけに居るってのも不思議だ。
1人の人間なのに、たくさんの人の心の中で、色々な顔をしている。



こころというものがあるとして、それを自覚しているのは脳みそだ。
「脳科学」とかいうと、むつかしい。
脳みそと言うと、少し自分のもののような気がする。

脳みそは、昼間いろいろと働いているが、寝ている間にその昼間の情報を処理しているらしい。それをしないと、こころが異常になってしまう。
夢を見たり、深く眠ったりして、ランダムな情報をその人らしく整理し、落ち着きどころを作って次の日になる。

その人らしく、ということの中身がまた様々で、どれほど様々かという数だけ本が書かれ、音楽が作られ、絵が、彫刻がインスタレーションが、パフォーマンスが...、ということなのだと思う。
研究したり、整理したり、工夫したり、今日より明日がより良くなるように、あるいは今日より明日が悪くならないように、そこそこ頑張っている。

私が人生で一番びっくりしたのは、弟に死なれた後、歌うと吠えるみたいになってしまったり、歌詞を忘れたり、感情が無くなった感じがした時である。
普通に歌おうとするのに、慟哭みたいに吠えるような声が出てくる。
心の中に怒りが渦巻いていると、そのまま、声も叫びになる。
いつもと変わらない気持ちなのに、歌い出すと歌詞が思い出せない。
そして、ほとんど飲めなかったお酒を、ためしに飲んでみても酔わない。
周囲から見ると酔っていたらしいが、私自身は酔った感じがしなかった。
状況を知らない人、あるいは知っていても私の状態とそれが結びつかない人たちは、私が不真面目だと思ったらしい。ちゃんと仕事しろとか叱られたりした。

その時、頭の中で何が起きていて、それが私の心をどのように守っていたのか。
周囲から見て、いい加減で不真面目そうな時、私は傷つきすぎて、普通に仕事も生活もできなかったらしいのだ。
それでも、普段と変わりなく、何かしなくてはと考えていた。
悲しいと泣いても、辛いと叫んでも、何も変わりはしないし、そういう行為で周囲の人に被せるには、事はあまりに悲劇的だったのだ。

あの頃の、冷たくて深い水の底に沈んでいるような、不思議な感じは今はもう無い。
水底にいて生命活動が冷えきっていても、その中で、少しずつでも回復しよう、もとに戻ろうと願い、時が経つのを待っていた気がする。
私の家族がいるし、友達もいるから、少しずつでも元気な方に目を向けようとしていたような気がする。
泣いてかき口説いて恨みつらみを語ると、いつまでも脱出できないような気がした。
言い訳もしない方が良いと思った。

負荷の多い人生では、つい、それを口実に拗ねたりする。
けれど、拗ねていると、結局自分もつまらない。
ほら吹いて、強がって、力を出そうとしていると、少し回る。
本当に、少しだけれど。
でも、それで良いんじゃなかろうか。
負荷を引き算してゼロになるくらいは、プラスを作っておかないと、ね。

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