kyokotada: 2013年9月アーカイブ

おかまな需要

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テレビを見ていると、出演者として男性タレント、女性タレントとおかまさんが居る。
必ず居る。
もう慣れっこになってしまって、特に気にしていなかったが、ふと、この人たちが必要な今の日本、ということなのかな、と気づいた。
男でも、女でもない、別の人格。
日本の人たちは、それをとても必要としている。

おかまな方たちを見ていると皆さん、女性もしないような、過剰に装飾的な服装と化粧をしている。
過剰にしないと男に見えちゃうからだろうか。
しゃべり方は、今までも、これからも、女性でもしないと思われる、独特な粘っい「お姐ことば」。
そして、その言葉遣いで、男や女が口にすると差し障りがありそうなことを語る。

つまり、ジェンダーによる社会性を逸脱した場所からの発言。
それだけ、ジェンダーが邪魔になる世の中。
男なら、学歴とか家柄で確実に差がつく収入や地位。
女なら、既婚か子供がいるかによって確実に異なる世界観。
それらをあからさまに口にすれば、口にした本人が責任を知らなくてはならないのだが、その不自由さを外野から救うのがお姐さんたちなのである。

大昔には、トリックスターとか、幇間とかがいて、あからさまな言葉でガス抜き役を果たしていたらしいが、それをお姐さんたちが受け持っている。

男の甲斐性とか、女らしさとかの外にある、人間としてのあからさまな存在価値について、あけすけに語る資格があるのは、いまやおかまのお姉さんたちだけなのかも知れない。
今の社会は、人格個別の様々な個性や違いを相対化しなくてはいけないような風潮になっている。

でも、私は、離婚しなかったことや子供たちを育て上げたことや良い仕事を確立したことを、ちょっと自慢したい気持ちもある。
すっごく頑張ったんだよ、と。

歌手には種類があるらしい。
流行歌手とか、フォーク歌手、ジャズ歌手みたいに。
それは歌う曲のスタイルとかジャンルのこと。
加えて、その周囲に漂う世界観というものがある。
流行歌手は、レコードを売る、ヒット曲を出す、というのが大切。
だからいつも「よろしくお願いします」と頭を下げている。

かつて、ヒット曲を出すと、そのまま歌手として認知される時代があった。
しかしながら現在、歌手という存在はもっと複雑なことになっている。
だいいち、メジャーデビューとかいう、登竜門的なことが無意味になってきている。
昔ながらのスタイルのレコード歌手が存在できるのは、カラオケ文化の中だけで、シングル盤、カラオケスナック、カラオケ大会、NHKなどの歌番組あたり、ということになる。

私も一応歌い手だが、それらとは全く無縁で、経歴を見ても、活躍の場といえるのはライブハウスとスタジオくらいだ。
今は、音楽活動自体がバンドの時代で、個別の歌手、プレイヤーというより、バンドユニットで継続的な活動ができないとどうにもならない。
若者たちは、自分の好みに合ったバンドだけを聴きに出かけ、彼らから手売りのCDを買ったり、ダウンロードして楽しんでいる。
そういう、マスではなくファンに支えられているバンドが星の数ほどあり、奇特な人は海外からまで、そのようなインディーズバンドを招いて、インストアライブを企画したりもする。

私は、ジャズから始めてフュージョンに行き、そこでブルースやファンク、おまけにブラジルものにも興味を持ったので、いきおい、何でも歌う系の人になっている。
カラオケも歌う。
というか歌える。
さる偉いアレンジャーの先生に、歌謡曲を歌う練習を勧められたからだ。
歌唱力ってものは、そうやってつけるもんだ、と言われた。
確かに、簡単に歌えるものではなく、個別に歌い方やリズムの取り方を考え工夫してクリアしたことが多々ある。

あれこれ歌うと、一時的に自分に関して不明なことが出てくる。
私は何をやりたいのだろうか、というような疑問。
しかし、それにもめげず何にでもこだわりなく挑戦していると、やがて、自分の歌い方というものを自分が理解するようになってくる。
それは、ジャンルのもつそれらしさから脱却する、演奏上の自立みたいなことだ。
曲は自分の外側にあり、私が歌ったとき自分のものとなる。
その歌い方に関しては、バックにいるバンドのメンバー次第だ。

今年のバースデイライブは、フリージャズ、フュージョン、ファンク、シャンソン、タンゴと、各ジャンルからの強者が集まって、しかもあまり打ち合わせもせず、好きにやるという成り行きだったので、なおさら、自分でもどういう風に歌うのか、見当がつかなかった。
リハでは、みんな曲を探り探り、互いを探り探りで、かなりな不自由感に満ちていたのだが、本番となった途端、凄い音を出してくれて、びっくりしながら、ゴンゴン歌えた。
あれって何?
互いにびっくりしていたかも。
我ながら、これ、何の集まりだよ、と笑いたくなる集団で、凄くて、嬉しかった。
コンセプトとしては「ロマ楽団」だったのだが、そのままいけてた気もする。

歌うことで、自分を確立していくというのは、素晴らしい経験だ。
私は何でも、自分らしく歌う。

肯定の成り立ち

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人にはそれぞれ出自があり、育った環境がある。
どんな仕事をしていても、あるいは家族になってみても、一人ずつ、じつに精妙微細な違いをはらみながら生きていることに気づく。
生まれた年代、場所、家庭環境、家族の性格。
それらが、経験を作り、一人ずつの個性を作る。
加えて生まれながらの資質というものもあるから、ひとりとして同じ人はいない。
似ていても違う部分の方がうんと多い。

20世紀の半ばに生まれた身として、あの世紀のすごさを思う。
2度の世界大戦、レコードや映画、通信機器の発明と爆発的発展、ITの登場、人類は宇宙にまで進出。

その中で生まれた作品群は、今振り返っても宝の山だ。
細胞が生まれ、増殖し、いつか停滞して減衰していくのと同じように、発明も発見も増大ししばらくの維持の後、減衰する。決して消え果てることはなく、希少な存在として生き続ける。
その爆発的増殖の時期に音楽を聴いて、虜になっている。
映画や小説もしかり。
そして今、古い映画や、昔の書物を読むと、ため息が出る。
そうだった、この迫力に打たれたのだった。
その感動を人生の糧として、何らか意味のあることに力を注がなくては、と感じてきた。
だから、現在の自分を見ながら、いつも必ず「本当にこれで良いのだろうか」と考えさせられる。

「成り行き次第」というのは、素晴らしい考え方で、現在只今が必然の成り行きの果てなのであれば、それを肯定し、その流れを尊重すべきだ。
けれど、流れはどこかで蛇行し、堰き止められて淀んだり、行き場を失ったりもする。

時々、私は誰に向かって発信しているのか、と確認する。
何をするにしても、私が確信したものを出してみて、他者がそれを受け入れてくれないと成立しない。
その他者を私はどのように選んでいるのか。

幼い子供は、必ず親を喜ばせようとする。
長じては、親の代わりに喜ばせたいモデルを想定する。
愛する人、尊敬する人。
それは、人として生きる上では、必ず必要となる滋養だし、自分が喜ばせたいと想定した人々の外側に、思いがけず肯定してくれる人々の層ができたりもする。

誰に向かって、何を表出するのか。
それに対する反応は、自分にどう返ってくるのか。
この運動のダイナミズムをどれほどのスケールで認識できるかで、心の安定がうんと変わる。

沢山のミュージシャンと触れ合っていると、彼らの背後に、肯定的な人々の量みたいなものが透けて見える。数の多寡もあるが、その質というか、個性は、ミュージシャン各自が知らず選んでいるもののようだ。

人は彼らの外側に居る人々をも含んで成り立つ。
その関係性から生じる息吹までもが、彼らの色彩の一部なのだ。


クラシックのコンサートに行くと、演奏者が拍手に応えて、最後に何度もステージに登場する。
結局、アンコールをやらされるわけだ。
本番演奏に対する賛辞なのか、アフターアワーズの催促なのかよく分からないが、とにかく、アンコールをやる。
多くの場合、バッハだったりする。
何故バッハかと言えば、完成された短い曲で、ソロでもできるから、かも知れない。

ホロヴィッツが晩年にコンチェルトを弾き、ショパンを弾いてから、アンコールに「トロイメライ」を弾くヴィデオがあった。
さんざん超絶技巧を見せておいて、後に、子供が練習するような曲を弾いて見せる。
最高峰の演奏家としての完成度を、粋な方法で見せたのだ。
こんなの、しのぎを削る演奏家の競争の中に於いては、なかなかできないことだ。

誰でも演奏できる曲ほど、真実の巧拙が分かる。
ジャズもそうかも知れない。
たとえばブルースほど、奏者の解放度合いを見るのに適した曲はない。

セッションに行くと、ボーカルの人たちが、最後にみんなで「All of Me」でもやりますか、と言いつつ、各自照れるような雰囲気が漂ったりする。
最も初心者が歌う曲をやるのは、今更だわ、と感じるのだろう。
けれど、私は「All Of Me」って難しい曲だと感じる。
上手く歌えることが少ない。
それでも、超初心者向けということになっているらしいので、みんな歌うのを恥ずかしがったりする。
不思議だ。

簡単に見えて覚えやすい曲には、じつのところとても難しい曲がたくさんある。
シンプルなので、歌いようでしか説得できない。
しかも、素晴らしい歌手の前例がたくさんあるのだ。
ますます歌い難い。
誰のコピーにもならず、自分のオリジナルで、しかもとても良い感じに歌うのは、とても大変。

クラシックのアンコールで弾かれることの多いバッハは、それとは少し違っていて、かなりの巧者でないと弾きこなせない。
でも、「トロイメライ」は、少し弾ければ結構良い音楽になる。
楽曲がそのようにできあがっている。
そのまま弾いて、素敵な曲。

そのまま弾いても素敵な曲は、少し練習すると弾けるようになり、弾いていて楽しい。
譜面のまま音楽になる。
発表会向きの曲集にはそういう曲が沢山載っている。

スタンダードにも、そのような曲がたくさんある。
そして、そういった曲は誰が歌っても一定の完成度を感じさせる。

私はそういう曲が割と苦手だ。
どうしても、私の編曲よりはオリジナルの方が良く感じる。
手の入れようがない。
挑戦を拒まれる。
どちらかと言えば私は、かなり歌いこなさないと、良い曲に聞こえないような曲が好きだ。
そのままではどうにもならない曲を、やりくりし、歌い様を考えてこなす。
その楽しさゆえに、スタンダードが大好きなのだ。

演奏する人によって違う曲のように様々な命を吹き込まれる。
そういう、不細工なスタンダードが大好きなのだ。

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