kyokotada: 2014年3月アーカイブ

オリジナル曲のリハーサルをしてみたところ、まぁ、それほど悪くないのではないか、という感触。
とは言え、とても良いということでもなく、微妙かな。
歌い込むことで変わる要素もありそう。

曲というものは、アレンジをどうするかで全く方向性が変わってしまう。
加藤先生が、「ジャズだとこのコードだな、しかしこれはクラシカルな方が良いからこっちかな、ポップスだとこうだな」と独り言を言いながら色々弾いて下さり、私は「そうだな、方向性を決めないとな」と、いちいち感心しておりました。
商売用ではない場合、オリジナルは「自分なり」のものであるか否かがとても大切なのだと再認識した次第。
自分の来歴とか、感じ方とか、音楽への愛とか、人生とか。

恋の歌などを歌ったり作ったりする時は、若かりし頃の素敵な恋愛経験を記憶の蔵から持ち出してくる。実際にそういうお相手と巡り会えたかどうかが、歌い手にとっては、とても重要な事だと思う。私には、歌に役立っているお相手が一人だけいた。
ドラマみたいな行動をさらりと取ってくれる人だった。
面食らいながらも、なかなか悪くないと思った。
結局長続きはしなかったけれど、その時の素敵な記憶はずっと、私の中で歌の素材になっている。

愛の歌は、愛のように。
若い頃の振幅の大きい感情を、いつまでも忘れないで。

昨日(2014/3/16)のワークショップ報告です。
ボイストレーニングでは、呼吸から脱力、共鳴場の感覚をつかむ、共鳴を広くイメージするなどについて実践してみました。
ワークショップでは、参加者の皆さんひとりずつについて改善を試み、その実践の過程をみんなで共有します。
具体的な身体の使い方を解説する過程で、ひとりひとりの個性を確認します。
歌うことの経験の他、骨格や育った場所による空間認識の違いなども、各々の声の出し方に影響していることが分かります。

ひとりずつ、1音のロングトーンを使って改善していきます。
始めにストレッチ、それから自分の身体の各部についての認知、動かし方、使い方をイメージトレーニングも活用しながら進めて行きます。
息の吸い方、吐息を声にする場合の感覚、出た声が身体のどの部分で、どのような共鳴するのかを見極める方法など、細かくやってみました。

ボイストレーニングは、個人レッスンよりもグループで進めると大きな効果があります。
それは、個体差や経験の差が目に見えるからです。
講義を聞いていた時にはできると思ったことが、実際にやってみると、なかなか思うようにならないなど、身体と知識が別のものであることも体験できます。

全ての人が、持っている身体を、発声に向けて自由にコントロールできるようになれば、好きな楽曲を自分らしく歌えるようになるはずです。
持って生まれた素材としての身体、音感、リズム感、音楽に対する感性などを存分に生かすために、歌手にとって発声の訓練は欠かせません。

ワークショップの後半は、「Tea For Two」でリズムアレンジの方法を試してみました。
原曲のリズムをどのようにジャズ的に変換していくか。
アイディアの基本となる、アウフタクトについての理解や、休符の利用から始め、ビートの背後にある、ダウンビート、アップビート、1拍3連、2拍3連なども練習してみました。
スタンダードの多くは100〜50年も昔の曲で、ミュージカルの曲も多いため、ポピュラー音楽のリズムで楽譜が書かれています。
そこから、ジャズのビートにアレンジして行くには、複雑化されたリズムの訓練が必要なのです。

これら、歌うための練習に関わるヒントを、好きな音源を聴く場合にも利用することが大切です。
自分の歌を上達させるためには、耳を育てることも重要なのです。
音楽の中に何を聴くか。
知識を得ただけでも、思いがけないほど沢山の情報を聴き取ることができるようになるはずです。

時々、「私はどうして私なのか」と思う。
どうしてこういう人なのか。
それには何か理由はあるのか。

何かの本にあった言葉
「思い煩うことはない。人生は無意味だ」

それはそうなのだ。意味なんて無い。
私はどうしてこの私なのか、ということも、私がそうしてきたから、という返事しかない。
歌を教えているとか、本を書いて仕事にできているとか、家庭がある、子供がいる、などなど、よく考えるとなぜそうなっているのかとても不思議だ。
だがそれらは縷々、自分で決めたてきたことでもある。

自分が決めていないことは、両親が誰であるか、名前が鏡子という珍しい字であること、そして生まれ育った場所。
若い頃には、自己決定以外いやだった。
何でこんななのか、と理不尽に対していちいち怒った。
でも、この頃は、自分で決められなかったことの方が、自分の重要な要素なのだ、と感じるようになった。
私は、北海道の余市町とか小樽市の自然のことを、血肉のように大切にしているようだ。
そこの季節感、気配、匂い、景色なんかが、とても大切なのだ。
そして祖父母の来歴、両親や兄弟のことも、決して幸せな思いばかりではないけれど、それも私の血肉になっている。どちらかというと、辛い理不尽な経験の方が、私を良く育てている。不思議だけれど、苦しんだことが栄養になった。その栄養素は、「人生に意味など無い」ということを深く噛みしめることなのだが、意味が無いからこそ、そこに自分なりの絵を描き出していくことや、積み重ねたものを抱きしめることや、表現することが素晴らしいと分かる。

百人百様、ひとりずつに、素敵な瞬間がある。
キラリと閃いたり、感動したり、泣いたりする時間がある。

ひとりでいて、ふと思う。
「私はどうしてこういう人なのだろうか」

何かの必然とか、使命とかを感じたい時期もあったけれど、この頃はただ、「たまたまこういう人なんだろうなぁ」と思う。
たまたまこういう人なのだから、こだわらず色々と変化して、水のようにその時々の器の形になりながら、少しでも良い味を出したいものだ。
いつも気楽に、でも真剣に。
4月16日 水曜日に中野Sweet Rainで、ギターの加藤崇之さんとライブの予定。
その際に、初めて、私のオリジナルを演奏しようと目論んでます。
加藤さんは、成蹊大のジャズ研で1年先輩。
私が初めてジャズのデュオというものをやったのは加藤さんのギターでした。
それから、40年以上の付きあいです。
私が育児休業している間、大変な数のライブとユニットをこなされて、日本のジャズギターでは第一人者。特に、フリー、インプロ界では神様のような方。
その加藤さんに、いつもポップスやスタンダードを弾いて頂いてました。
でもやはり、なんか惜しい。
せっかくお願いするのに、私を出さないでどーするんだ、と近頃は強く思い始め、ついに、長年溜め込んできたオリジナル曲を大放出してみることにしました。

しかし、来る3/18の事前リハを終えてみないことには、何とも言えません。
「こんな曲は人前に出してはいけません」
とダメ出しを食らう可能性もあり、現在は譜面を揃えながら受験生の心境。
まぁ、駄目でも仕方ないけど。
でも、結構リキ入ってるんだ。
頑張るぞ!


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