kyokotada: 2014年2月アーカイブ

今日の新聞に、就職活動中の大学生たちへ、結婚したら共働きが良いか、奥さんが専業主婦になるのがいいのか、というアンケートをした結果が載っていた。
男子学生は、半数以上が専業主婦希望、女子学生は7割が共働き希望。
これについてのコメントとして、「男子学生は保守的である」と書かれていた。
保守的って、その意見、違わないか?
男子学生、単に親世代を見て、世話してくれる奥さんがいてくれる方が楽そう、って思っただけじやないのか。
それは、希望的観測だ。現実には、すでに専業主婦は無理かもしれない。
例外的に、大変な高給取りであるか、三世代同居で住居費が浮くとか、何らかアドバンテージがないと、専業主婦は無理だ
けれど、若い頃には誰しも、自分がこれから立ち向かう現実について、そのシビアさを見据えられる人は少ないかも知れない。
経験は年齢ごとに変わり、責任も年齢ごとに変わる。
自分の足を踏み入れてみてやっと、世界の複雑さや困難が身に滲みる、というものだ。

それは、音楽をやっている若い人々にも当てはまる。
「メジャー・デビュー」という華やかな出来事が、行く先のどこかに存在していると考えたりする。
成功した話は、メディアに溢れているから、自分がその仲間になれないはずなど無い、と感じる。
けれど、世界は茫洋として捉えどころもなく、行けども行けども何かが起きる気配はない。

現実の世界では、何かが起きるのを待つのではなく、届くまで自分が積み上げるしかない。
それはとても地味な日々だ。

まだ20代の頃、専門学校でボーカル講師をしていた時のこと、帰国子女で高学歴の生徒が、「3年歌って芽が出なかったら止めるつもりです」と言った。
私はその時、自分は成功するために歌っていないなぁ、と改めて感じた。
人生の中で、なるべく多く音楽する時間が持てるように、その工夫なり、努力なりを続けていこうと、それしか考えていなかった。好きな音楽は、決して売れそうなジャンルではなかったし、華やかな世界で音楽を続けたいとも思わなかった。タレント性とかカリスマは皆無なので、ただ地味に、自分が良いと思う音楽を続けていけるよう、生活を保つ。
それしか思っていなかった。

この時の実感が、私の人生を貫いている。
私の身の丈で、精一杯、良いと思う音楽を続ける。
それは、若い頃には希望的観測の範囲だったけれど、今はついに現実になっている。
若い頃は、一本筋の通った生き方、なんてものに憧れた。
一貫した自我を持とうとか、自己実現するぞ、とか威勢が良かった。
その現実はどうだったかというと、単に右往左往していた。
すっかり迷走し尽くした今日この頃、じつは、何の拘りも執念もない「私」というものが居る。
無私と表現しても良いくらい。
歌手の中には、「歌わないと死んでしまう」という様な方も居るが、私は黙ってろと言われれば何日でもじっと黙っていられる。
仕事が休みだと、家で本を読んだり、テレビ見たり、たまに絵を描いたり、いろいろな家事をたくさんして日が暮れる。
それで充実している。
たまには散歩にも行くし、ベランダでプランターに何か植えたりもする。
けれど、どんなこともそんなに熱を込めていない。

いつも、状況に応じてきた。
子供が生まれれば育児をして、家計が苦しければ働いて、誰かが困っていたら助けたし、請われれば色々な役を引き受けた。
会社まで作って、レーベルもやった。
でも、いつ無くなっても良いのだ。
存在する間は、懸命にやるけれど、存続できなければ諦める。

しみじみ、ああ、時間とともに私の環境は変わるんだなぁ、と感じ入る。
朝早く目が覚めてしまうので、午前中にやることを考えている。
いつも心のどこかで、何か書くべきかな、と考えている。
けれど、まだ機は熟さない。

明日はまた、何かが変わっているかも知れない。
新聞で読んだ記事に、「テレビ電話がなかった時代、いずれは電話機に画面が付くと考えられていた。けれど、最終的に実現したのは、パソコンでのスカイプだった」
というのがある。
変わるって、そういうことなのよね。
これが変わると予測したものじゃなく、別の角度から予測に似た形が生まれてくる。
高校二年生の時に札幌オリンピックがあった。
真駒内のアリーナにアイスホッケーを見に行った。
アイシングというルールが不思議だったり、速すぎて何が起きているのか分からなかったり。
小樽の友達の家で、スキージャンプの金・銀・銅メダル独占を一緒に見た。
笠谷と藤沢は私の生まれた町、余市町の出身。
選手たちは、我が家にまで、遠征費の寄付をお願いに来ていた。
小さい町を丁寧に回って、後の金メダリストが頭を下げて寄付を貰っていたのだ。
中学生くらいだった私は、何だか気の毒な気がして、胸が疼いた。

高校の校庭にはジャンプ台があった。
校庭を臨む崖の上に大きい滑り台があるように見える。
夏には、あんなところから飛ぶのはアホだ、と思えたが、雪が積もると、スキー部のアホたちが叫び声を上げながら飛んでいた。それなりに遠くに飛ぶのだった。

一面深い雪の校庭で、冬季の球技大会なども行われた。
膝まである雪をこいでサッカーをするのだ。あれ、何だったんだろう。

小学校の校庭にはスケートリンクがあった。
雪が降ると、竹箒で氷を掃除していた。その竹箒につかまり、引っ張って貰っていた時、なぜだか手を離してしまい、尾てい骨をしたたか打った。
しばらくしゃがむこともできなかったのは、ひびが入っていたからかも。

中学のスキー授業は学校の裏山だったから、足でえっちらおっちら上り、ボーゲンなんかを練習した。
授業2コマ通しでやり、戻って休み時間に着替えて、また通常の授業をしていた。
みんな、ストーブの周囲に手袋を干した。その頃の手袋は毛糸。
スキー遠足というと、遠くの山までスキーを担いで歩いて行った。思い返すと、全員スキーを持っていたな。山奥の農家の子は、スキーで町の近くまで来て、そこから歩いて通学していた。

冬は、家の前を毎日雪掻きし、それでも凍って固まった雪を春にはツルハシで割る。
屋根からは、人の身体ほどもあるつららが下がる。
寒さが緩むと、落ちて頭を直撃するので、ある程度まで大きくなれば、金槌で割って落としていた。

子供の頃には、石炭を運ぶ馬そりが来た。
家に横付けして、石炭庫に粉炭を入れるのだ。粉炭は火力が強い。
馬の吐く息は、勢いよくて真っ白だった。

思い返すと、冬の印象ばかりが強い。
夜を徹してしんしんと降る雪は、自然の大きさを感じさせてくれた。
そんなにも沢山の雪が空から降るのは、人の都合の外にある、自然の摂理なのだから。

昨日(2014/2/16)のEテレ21時からは、ウィーン楽友協会オーケストラによるベートーヴェンの8番と9番だった。指揮はティーレマン。
これまでベートーヴェンのシンフォニーはあまり好きじゃないなぁ、と思っていた。
何となく粗暴な感じで。
ちょっとうるさいなぁ、とか。
カルテットやピアノ・ソナタはすごく好きなものもあるけれど...。

ところが、昨日は聴き始めてからずっと、感動していた。
静かなのだ。
激情がほとばしる9番の最後になってまで、静かなのだ。
閑か、という漢字の方が合うかも。

ここの部分は、他のオケならこういう風に鳴らないな、と思う箇所が随所に。
それは、ウィーンならではの音楽だ。
ウィーンフィルというと、ニューイヤーコンサートばかりで見てしまうので、モーツァルトやベートーヴェンが暮らし、骨を埋めた地として思い出すのを忘れる。

彼らが生きていた時の、テンポ感とか、鳴り方とかが残されている。
きっと、本来のベートーヴェンは、このような音楽だったはずだという、そういう8番と9番、シンフォニーだった。
深く感動。


豪雪のため、地方からの参加の方全滅でしたが、少人数ながら充実したワークショップができました。
今回は、各自のボイストレーニングの問題点を洗う、という視点でした。
しかし、かなり達者に歌う方でも、自分の発声のどこが問題か、ということはなかなか言葉にできないもの。だからこそ、多人数で行うワークショップがとても効果的な気がします。
私が声を聞かせて頂いて、身体の使い方についてサジェストすると、明らかに響きや声質が変わります。
しかし、自分の声がどう変わっているのか、あまり実感できないのが現実。
そこで、他の参加者に感想を言ってもらいます。
どのように変わったか、印象はどうか、など。
すると、私にも気づかない表現で、様々な意見を頂くことができます。

発声法は、基本的にフィジカルを整える方向で行います。
呼吸法から始まり、姿勢、発声器官や体幹、脊椎などの自覚、マッピング、脱力などなど。
フィジカルに機能的な方法を学ぶことで、模倣や情緒的な勘違いから解放されることを狙っています。

模倣について解説しましょう。
素晴らしい歌手の歌を聴くと、感動を伴うために、実際の声より、力強く迫力のある声に聞こえるものです。あるいは、ハスキーだったり、かすれている声に魅力を感じる場合もあるでしょう。
多くの場合、無意識に自分の声を、それらの声に近づけようとしてしまいます。
けれど、もし、それが声帯にフィットしていない場合、負荷がかかってトラブルを招くことすらあります。
そこまでならないにしても、せっかく持っている個性や資質を、使わないまま眠らせてしまう可能性すらあるでしょう。

だれもが、正しい方法で発声すれば、持久力やパワーを増すことができます。
自然で、身体の理にかなったフォーム、共鳴、そして呼吸法を身につければ、コントロールの自由度も飛躍的に増します。
1人にひとつずつ備わっている大切な声を伸ばし、歌い方の可能性を拡大することで、憧れの表現に近づくことができます。
真似をしたり、なぞったりするだけでない、自分に適した確実な発声が素晴らしい表現につながるのです。上達するには、「急がば回れ」。
正しい基本練習を継続するのが上達の早道なのです。

選挙のたびに、自分のFBやTwitterライン上のコメントから想像するものとかけ離れた得票結果が出て、戸惑う。
そしてその都度、自分のタイムラインには、似通った意見の人が集まっていたということを、再認識するのだが...。
つまり、世間は、私が「良い」と思うことに賛同する人の集まりでもないし、姿でもない、ということ。

分かってはいる。
分かっていながら、何度も失望し、戸惑う。

政治に関心を寄せる行為、あるいは姿勢と、実際に誰かに投票するという行為との間には乖離がある。
政治理念とか、政策とは関係のない、例えば人間関係のしがらみとか、帰属意識などの方が「投票」行為に結びつきやすいのだ。
ひとりがどんなに真剣に政策を読み込み、理念や歴史までさかのぼって熟考したとしても、単なる1票に過ぎない。
けれど、政策などはどうでも構わず、単に自分の所属している団体や地域の気分、または慣習に従い、連れ立って投票に行く人たちの票はまとまった数となる。
多数決は、それで結果が決まる。
「衆愚政治」とは思いたくないし、カリスマ政治家も要らないとは思うが、どうにかしないと危なくないか?
日本、大丈夫か?


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