kyokotada: 2014年5月アーカイブ

今月は、ロングトーンを用いて、共鳴の感じ方を丁寧にやってみました。
ボイストレーニングは、教えれば教えるほど、奥深く、どう導くのが良いのか、理解を超えて不思議な感覚を掻き立てられる分野です。

ひとりひとりが「発声器官」という共通の機能を持ちながら、それぞれ大変に異なった声を持っています。
器官の使い方、感じ方、それらに対して抱く感覚を、視覚的に見て取れないだけに、じっと耳を傾けながら耳で感じ取り、アドバイスしていくしかありません。

基本となるのは呼吸器の認識。
単に息を吸い、溜めて、吐く、という動作の中に、沢山の方法や訓練の仕方が埋まっています。

ロングトーンは、これら呼吸の方法を感じながら発声を確認する良い手段です。
息を吸う時は、身体が柔らかく外側に膨らんで行くよう構えます。
背筋は上に向け、横隔膜を精一杯下げながら、鎖骨を開いていきます。
身体が吸った息の量に沿って「徐々に」開いていくことが大切です。
身体自体と、吸い込んだ息の量とで形成される伸縮性のある器官。
これを徐々に狭めていきます。
ただし、この時に頭骨の内側と鼻腔、鼻孔は開いたままです。

身体を狭める方法として、最近私がよく使う表現が「おへそを上げ下げする」です。
拡がっている時に下向きだったへそが、息が出て行くに従って、上を向いて行きます。
身体の感じ方は、外側へと向かう力と、それをゆっくり、コンスタントに狭める力。
ただし、解放を固定する部分だけは、常に広く保つこと。

この訓練だけでも、時には喉にかかっていた音程が解放され、クリアに響くようになります。
音程には、各自の声帯や骨格によって、チェンジしずらい、出にくいポイントが必ずあります。
地声からミックス、裏へと声質を変えていく変節点では、身体の状態をコントロールする方法でスムーズな移行が叶えられます。

発声のギア・チェンジは、低音域〜中音域〜高音域〜最高音域と3回あります。
チェンジの祭に動かす発声器官、身体の各部分を認識できることが大切です。
主には、胸、腹、背骨、背筋、腹筋、肩、鼻腔、口腔、顔、の状態を知ることです。

曲練習では、「Tea For Two」を最後まで歌ってみました。
曲の構成を理解しながら、それぞれの部分のもつキャラクターを知り、表現に役立てることができます。こうして歌ってみると、1コーラスはあっという間で、もっと沢山のアイディアを使うためには、数コーラスが必要だということが分かってきます。
ネタ切れになってしまう曲では、原曲の部分ごとのキャラクターを掘り下げることでほとんどの問題が解消する、という訳です。
つまり、インプロヴィゼーションやフェイクとは、汲めども尽きぬ表現のアイディアを、次々と繰り出すことなのですね。
ライブの楽屋で、FB上で、ミュージシャンがしばしば、ジャズ・ボーカルの悪口を言う。
軽薄だとか、下手くそが多いとか。
もっと、楽器奏者と同格に、自分の音楽性をしっかり持って、精進して欲しいと言う。
確かに。
私は、どちらかというとその精神でいたいと願い、自分をミュージシャンだ、と考えて来た。
ジャズ・ボーカルについて研究するし、練習するし、ジャズをより理解するために、他ジャンルの歌を練習してみたり、楽器やアレンジに取り組んだりもする。

だが、全てのジャズ・ボーカル好きがそうしたいはずはない、ということも身に滲みている。
スタンダード・ナンバーを、覚えて歌えば良い気分だ。
それが全てという気持ちも分かる。
歌手と同様に、すべての楽器のジャムセッション好きが、プロとして名を成す皆さんと同様の研鑽を重ねられるわけでもないと思う。
だから、プロとしてあるならば、ひっくるめて、取り組みの振れ幅、多様性を認めなくてはならない。
楽器を練習する人々こそ、ライブに良く来て下さるお客様なのだ。

美しいとか、可愛いことでお客様に恵まれるシンガーがいる。
愛嬌が有り、お話が上手だからファンが付くシンガーもいる。
強烈な個性で、芸術するシンガーもいる。
何が良いか、と言うよりは、それぞれが、持ち味を徹底的に活かすしかない世界だ。

自分のことを言えば、日々、生徒さんたちのレッスンと、自分の練習、楽譜制作や曲作り、アレンジをしているだけで日が暮れる。本当に、自分は歌のオタクだと思うことがある。
飲み歩いたり、ライブにお邪魔してシットインしたりする暇すらない。
やることは、楽譜と音源を照らして研究すること、歌うこと、覚えることだ。
それだけをしていて良いのかという疑念があったが、ある時こう思った。
「大竹しのぶが台詞を覚えなくてどうする」
大女優ですら、最初にすることは、本読みであり、台詞覚えである。
歌手は、何を置いても、まず歌を理解して曲と歌詞を覚えなくてはならない。

ただし、ほとんどのジャズボーカリストが、そこで止まっている。
そこから先が、多分お叱りを受けてしまう原因かと思う。
自分なりのアレンジとかフレージングを構築する。
歌いこなすリズム感やピッチを養う。
ボイスを鍛える。
ディクションを美しく改良する。

これらについて、どうにもできていない歌手が多いらしい。
ミュージシャンの話を聞くとそのようだ。
だが、できている人も多くいる。
そして彼ら、彼女らはちゃんとプロである。

若い世代でジャズボーカルが成り立ちにくい原因は、力をつけるハコがなくなったことが大きい。
私の若い頃は、毎日素晴らしい方たちと共演する仕事場があった。
レギュラーのバンドと研鑽できた。
修行のように、毎日追われながら沢山の曲を覚えて歌った。
そのステージ数のこなし方こそ、力をつける最高の場だった。
それが今なくなっている。

現在では、ジャズ歌手を志すと、自分でライブをブッキングし、集客して会場費やバンドのギャラまで保証しなくてはならない。
はじめからそれでは、歌手が育ちようがない。
昼間は他の仕事をしてお金を貯めないと、ライブができない。
そういう条件の中で、何とか音楽を続けようとすれば、自分なりの環境を整える現実的な実力が要る。

最近、何人かにジャズ・ボーカルの在り方に対する苦言を呈されて、色々考えた。
誰も怠けてはいない。
みんなそれなりに頑張っている。
けれど、環境が難しい。
全ての人が才能とチャンスと体力に恵まれている訳ではない限り、好きで続けていくことを尊重することで良いのではないか、私は、その気持ちを助ける立場で良いのではなかろうか、と思い至っている。

ミュージシャンは少なからずイライラするのかも知れない。
お気持ちは分かる。
だから私として、少しでもジャズ・ボーカルの勉強の仕方が分かるように、練習の楽しさが分かるように、レベルアップの場を維持していたいと思うのだ。
それを叶えられた幸運に感謝しつつ。

希望とか夢とか

user-pic
0
「希望」という言葉をむやみに使うべきではない、という意見を見た。
そうだよね、と感じた。

震災以来、絆と同様、やたらと夢や希望が語られる。
もちろん、未来を暗いものとして捉えるよりは、努力が報われるはずだと考える方が頑張りやすい。
けれど、どうも、メディアに登場する希望の相貌は、なけなしの体力や気力を奮い立たせるためのものとは違って見える。

「希望」という商品がある。
それは、一面、パンドラの箱の底で、じっと持ち上げられるのを待っていた危険な思想でもある。
音楽をしていて、もっとも手に負えない「盛り上がる」という状況によく似ている。
希望は、それさえあれば、何もかもが良い方向に進み出すと勘違いさせるためにも使われる。
「まず心の中に希望を絶やさないことです」
えっ、それは人が、意志的にでできることなのか?

音楽では、内容がどうあれ、興奮し盛り上がった感が残れば、それで成功したと勘違いされる。
価値観というもの。
感受性というもの。
審美眼というもの。
それらが鍛えられれば、ひとつの言葉に代表される状況などないと分かってくる。
キャッチフレーズほど残酷で雑なものはない。
それが、垂れ幕のようにみんなの心の中で単純化され、微妙であったり、精妙である事柄を、薄っぺらい、一目で理解した気になってしまうものに変換していく。

希望と夢を歌うべきだろうか。
実際には、喜怒哀楽は、ただ事実の中に感じ取られるものでしかない。
誰もが、その状況を見て知って、自分の体験と照らし、心の底の方でほのかな苦しみとして了解するものではないか。
嬉しいことすら、危険なのだ。
楽しいことは、より儚いのだ。
それに先立つ、沢山の迷いや積み重ねや逡巡を、経て初めて何かが掴める。

夢や希望を語るよりも、それをどう自分の中に位置づけるか。
怠けていないか。
方法を間違っていないか。
自分をさておいて批評ばかりしていないか。
そういうことを、いちいち、くどいほどに繰り返す。
それを「希望」という言葉に変換するのには大変な距離がある。
希望というよりは、丁寧に、目に見えて良くならないにせよとにかく丁寧に、日々を暮らすこと。

ふと思う。
良くならなくて当然なのだと。
そう構えられる覚悟が持てると、自分に対しては希望に似たものが生まれるかも知れない。
「良くならなくて当然なのだ」
そう考えながら、まだ、明日は今よりもう少し物事が進んでいるかも知れないと、うっすら思う。
それは恐らく、希望と言うよりは生きる知恵としての楽観に過ぎないのだけれど。

枠をはずす

user-pic
0
歌を教えていると、自分もどんどん変わっていることが分かる。
一貫して熱心に分かっていることを伝えようとするのだが、こちらの進歩もあるので、数年前と現在とでは中身が変わっていると思う。
練習することと、本番を経験することで、進歩と呼びたい現象が起こってくる。
「進歩」というものには、言葉ではなかなか説明できない不思議な感覚が伴う。
何かをつかんだり、発見した後は、それ以前の自分のことをすっかり忘れてしまうようだ。
まるで、ずっと以前からそのことを知っていて実践していたかのような気になる。
けれど、頭のどこかでは、そして身体の各部分では、変わっていることを感じている。

変わる時に一番大切なのは、前言を気にしない、ということだ。
かつての枠にこだわると、そこに引きずられる。
以前の身体ではこう動いていたが、現在は別の動きをしている、と分かると、以前の説明は捨てざるを得ない。
けれど、その頃の説明は、私のその時の体感では正解だったはずなので、別のアイディア、別枠の動き方を発見して、新たに試している様なことなのかも知れない。
それは、瞬間的な間の使い方だったり、身体の中の反応の仕方であったりする。
そのための構えであったり、身体の動きであったりする。

枠を外すために、最近は数日何もせずに、あるいは音楽と関係ないことだけをしている。
日々、休み無く音楽のことだけを続けていると、どうしても身も心もルーティンになる。
上達するには良いけれど、いかんせんアイディアが狭くなる。
一日二日、何もせずに弛めて、自発的な感覚が出てくるのを待つと、不思議と枠が取れてくる。
あ、これはこうすればいいのではないか、と思いつく。

それとは別に、枠を外してくれる人に出会いたいとも思う。
それがこのところなかなか難しくなっている。
むむ。

このアーカイブについて

このページには、kyokotada2014年5月に書いたブログ記事が含まれています。

前のアーカイブはkyokotada: 2014年4月です。

次のアーカイブはkyokotada: 2014年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。