kyokotada: 2014年11月アーカイブ

オペラの本を書いていた間、新国立劇場にずいぶんお世話になり、アイーダの稽古まで見せて頂いた。アイーダは、日中の歌手と合唱団が一堂に会した、記念すべき演目だった。

日中の合唱団を指導されたのは、新国立劇場の合唱団をいまや世界的に高い評価を受けるまでに引き上げた、指揮と指導をされている三澤洋史さん。最近では、この方の名をしばしば目にするようになった。
この秋、エッセイ集が出たというので早速購入、楽しい内容に読み終わるのが惜しいような時間を過ごした。
ゲネプロに入れて頂いたブリテンの「ピーター・グライムズ」のことも沢山書かれていて、そうかそうだったのか、と頷くことしばしば。

略歴を見ると、三澤氏は、私と同い年だった。その上、ジャズもお好きらしい。
クラシック音楽というと、リズムやビートがジャズとは異なると考えられがちだけれど、今や、神髄に至れば、全く差など無いのだと言う人の方が多い。
私も両方を聴いていて、プレイヤーのリズム感に、種類の違いはあれど、優劣は無いと思っている。

ちょうど昨日は、石若駿が上野の芸大奏楽堂のモーニングコンサートで、オーケストラをバックに打楽器コンチェルトを演奏した。
聴いていると、ジャズ的、ラテン的あらゆるビートが登場する現代曲で、彼が選んだとしたら、さすがにセンスが良いなぁ、と感心するような曲だった。

その、進化し続けるリズムやビートの世界に、日々、目のくらむ思いでいて、「間」についての話をいくつか目にした。
最初は、その三澤氏のカラヤンについて語られた部分。
フレーズの終わりから次のフレーズに入る、音の無い、まさにその「間」の感じられ方が、カラヤンを置いて他には無いという凄さなのだとか。
何か分かる。
説明はできないが...。

こういう話は、長く音楽を演奏している人にしか通じないかも知れない。
それは、どこまで行っても体感でしか無く、ある時、「あぁ、これかも...」と感じられるものだからである。
私の場合は、長年、それがあるか否かすら気づかず、しかし、素晴らしいビートで歌う人々を見て、自分とどこが違うのかを考え続け、フレーズの終わり方やディクションの語尾にあるかも知れないと感づき、試行錯誤するうちブレスの方法に辿り着き、やっとこの頃、ビートの締め方に至った。
自由さやリラクゼイションは、いずれも、悟られた瞬間としての、これら「間」の中にあり、スピードやアタック、うねりもこれらと共にある。

そしてもうひとりの達人、義太夫の竹本住太夫。
浄瑠璃の情は言葉と言葉の間の「間」にある、と言っていて、更に凄いのは、三味線や人形との関係を、「どれも合わせていないのに、必ずどこかで合っている。いや、その前に、お互いに合わせに行ってはいけない、という暗黙の諒解がある」
という話。

私たちジャズの演奏家も、「受けにいく、合わせにいく」事をしなくなった時に、やっと一人前と評価して頂ける感じがしている。

練達に至るためのさまざまな事柄が、どんな芸のジャンルでも同じ要素として感じ取られていることに深く感動する。
人間がすることだから、突き詰めると同じ場所に出るのだろうか。
しかし、人類はなぜそれを快感、あるいは感動として受け取るのか。
不思議は深まるばかりだ。

そういうことを繋ぎあわせて無邪気に喜んでいる私...、というのも、何となく可笑しいけれど。

和服のこと

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私のおばあさんは、いつも和服を着ていた。
筆字が上手で、三味線を弾き、日舞もできた。
家には、日舞や小唄や華道の先生がたびたびいらして、近所のおばあさんたちが集まって習っていた。
私は、ハイハイする頃から、何度連れ戻してもその稽古の場所に行って熱心に見ていたそうだ。
おばあさんが私を日舞の稽古に連れ出すようになって、何年か習った。
おばあさんが亡くなったのは、私が小学校二年の時だから、踊りの稽古はそこで終わり。
ふたりで、本衣装を着けて、廃館になる町の映画館のさよなら公演で踊ったのが記念になった。
おばあさんは「友奴」、私は「女太夫」。

田舎の町では正装というと和服だった。
親戚や付きあいのある家の結婚式や、何かの集まり、極端には学校のPTAにもお母さんたちは和服を着て行った。
和服を揃えるのはある程度当たり前で、家には時々反物を担いだ呉服屋さんがセールスに来ていた。

そんな時代だったから、母は、私が着ると信じて、振り袖やら小紋やら沢山買い込んだ。
まだしつけ糸がかかっているものすらあるそれらの着物と、祖母が着ていた着物、母の着物が全部私の元にある。
たくさんあって場所ふさぎだが、どうすべきか判断がつかない。
普段着みたいのもあるので、それは捨てても良いのかな、とか...。

着物には、着ても良い年齢というものがあり、赤い系統のものや袖を長めにしてあるものは、娘時代用。すでに私の娘たちも着られない。まさに、適齢期はあっという間に過ぎた。
孫になら、と思うが、娘たちの様子からは、生まれるのか否かも分からない。

和服は高価なもので、捨てるのも売るのもいかがなものかと思い、しかし、和服だけたくさんあっても仕方なく、いざ着ようとすると、やれ半襟だ襦袢だ帯揚げだ草履だと大変である。

もう、私は和服を着ることも無いだろうと思う。
幾人か和服が好きだった友人もいたが、年齢が進むとみんな着なくなってしまう。
準備も体力も大変だから。

和服は目を和ませてくれる。
それはそれは美しい布。
でも、いったいどうすれば良いんだろう。
私も娘たちも、着る間もなく忙しく歳を取ってしまったよねぇ。


昭和30年に北海道は余市郡余市町に生まれました。
余市町黒川町4丁目63番地。いまはもう、跡形もありませんが。
家業は内海歯科医院。祖父から父の代になっていて、戦後のまだ貧しい時代、住み込みの従業員もいました。
私の母校は黒川小学校。あの宇宙飛行士の毛利衛さんが先輩です。
小学校は、当時ニッカウヰスキー工場の隣にあって、時々酒粕の匂いが強烈に漂ってきました。
そして、小学生になった私の親友は、竹鶴みのぶさん。つまり、今の朝ドラのマッサンのお孫さんです。
みのぶさんには孝太郎さんさんというお兄様がいらして、彼は私の兄のお友達。
余市川が氾濫して大洪水になった日、遊びにいらしていて、帰れなくなり泊まっていたのを覚えています。

しばしば、山田町のお屋敷に遊びに行きました。
芝桜でいっぱいの長いエントランスを抜けて玄関を入ると、政孝社長が撃ち殺したヒグマの敷物が二枚。洋館の居間は、台所と小窓でつながり、田舎では見たことのない西洋式の水洗トイレがありました。

クリスマスにお呼ばれして、初めてプディングというものを知りました。
ブランデーをかけて火をつけ、ミルククリームをかけていただきます。
大きなツリーの下には、沢山のプレゼント。薄暗い照明、ろうそくの灯り。
何もかも、見たことのない世界です。

みのぶさんは、小学校4年生になる年に東京に引っ越されました。
それから中学を出るまでの月日は、私にとってはちょっとぼんやりとした、辛い日々となりました。

私の家にも竹鶴家にもピアノがありました。
私はバイオリンも習っていて、田舎の学校では大分いじめられやすい存在でした。
小樽の高校に入るまで、違和感と暗い気分がつきまといました。

思い返すと、竹鶴家との交流は、私にとって素敵な時間だったようです。
あの、重厚な居間の雰囲気や、ピアノを弾くことが日常の暮らし、広い庭でハッカを摘んでままごと遊びをしたり、珍しいお菓子を頂いたり。
あれらの経験がなかったら、私の人生の色合いは幾分違っていたはずです。

朝のドラマはずいぶん脚色されているみたいに感じますが、私が触れた人々が描かれていると思うと感慨深いものがあります。

時々東京から戻られる、本物のマッサンにもお会いしました。
禿頭にカイゼル髭。
大きな声。
良くステレオをかけながら、コンガを叩いていましたな。
いつも和服で、威風堂々。
千枚漬けとべったら漬けがお好きでした。
お会いすると、子どもながらに緊張したものです。

そして私は、ゼシー・リタ夫人が創設した「リタ幼稚園」を卒園しました。
みのぶさんと出会ったのも、その幼稚園でした。
月日は流れ、私の田舎の家も、多分お屋敷も無くなってしまいました。
みんなどうしているのでしょう。
遠い昔の記憶です。



世田谷区経堂にある「クレイジーラブ」というライブハウスに、JASRACから、数百万円の請求書が来た。即金で払えば半額にしてやるといわれたそうだ。つまり、長年そこでやってきたジャズやポップスのライブの曲にかかる著作権使用料を、数百万円とグロスで示し、即金なら半額という、結局絶対に計算していなく、分配もするのかどうか分からない請求をしたようなのだ。
マスターは、抵抗しながらも、結局それを払った。
店を潰さなかった、その心意気に賛同して、昨日、数多くのミュージシャンが高円寺のジロキチに集い、エイドのためのライブをした。

ジャズは、テーマを1コーラスやった後、各プレイヤーのアドリブになる。スゥイングやビーバップなどの時代の曲を、沢山のミュージシャンが知っていて共有し、打ち合わせもなくセッションする。
スタンダードには、いきなり曲を初めても、みんながその曲を題材としてきた歴史を使って演奏できる。それは、素晴らしい利点だ。他のジャンルの音楽ではあり得ない。
おまけに、使うのは初めと最後の2コーラス。
ライブハウスは、演奏を売っているのであって、曲を売ってはいない。
しかし、それに対して莫大な使用料を請求されたということ。

けれど、よく考えると、日本中にあるライブハウスの夜ごと演奏される全ての曲の著作権使用料を申請したとして、JASRAC側にそれらを正確に把握する処理能力はあるのだろうか。
分配までの手数を考えると、それはほとんど不可能に近い。毎日、1件の店で数十曲、それを数千店の店が申請したら、そして使用料を支払うとしたら。
その支払いのために日本中のライブハウスは潰れ、JASRACの社員だけが増えるはずだ。

著作権者から言わせてもらえば、私が作詞した数曲に対する著作権使用料は、毎年1万円に満たないため、と言う理由で延滞され続けてている。支払われていないのだ。そういう楽曲は数百万曲あるに違いない。ついに1万円に満たないまま、私が死んだら、どうなるのだろうか。それらの延滞金の行方はいずこに?

音楽が、著作権に守られているのは知っている。
けれども、それでライブハウスが立ちゆかないとして、仕方なく新手として、著作権がかからない新しいオリジナルばかりやることにしてしまったら。
コード進行だけ頂いて、別のメロディとタイトルをかざした曲、あるいはオリジナルだけを、毎夜、ライブハウスでやるとして。
いつか、ジャズは無くなり、スタンダードから上がる収益は皆無となる日が来るのか?
一体、それで良いのかな?

そのうち、ジャズのスタンダードだけで なく、いわゆる名曲が、全て同様の理由で使い捨てされていくのではなかろうか?

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