読んだ本: 2011年8月アーカイブ

レイモンド・チャンドラーの名前は、もう何十年も前から知っていた。けれども、意地のように読んでいなかった。ハードボイルドというのが嫌だった。ハードボイルド推しのおっさんたちがダメだった。作家の人たちもダメだった。ダメ、というのは受け付けない、という意味ですが。

けれども、村上春樹の訳なら読んでみるか、という気になり、休日2日間で読了。
とても面白かった。
ハードボイルドといってもさほど暴力的でないし、それよりは、スタイリッシュな会話に唸らされる。
アメリカ人が、みんなあんなに気の利いた話し方をしているとは到底思えないけれど、小説の中や映画の中では、台詞、やたらとかっこいいのである。

この美学が、日本にもっとあって良いかな。
この頃は特に、ゆるゆるのふざけた文体ばかりが多いのだ。
もちろん、それが芸になっていることも分かるのだが。
「当方には、アカデミック・コンプレックスとか階級コンプレックスは無い」
というキモチを感じ取っておくれと言わんばかりの軽口にしか見えないときは、結構失望する。

そうそう、ハードボイルドだった。
久しくフェミニズムに寄り添っていたので、男らしい、という定義が嫌だった。
すぐ殴ったり、脅かしたりするのも嫌だった。
けれど、最近は、男はそうするものだ、と幾分思う。
男同士では、そういう、表面的なブン殴り合いというものがある、と分かる。
女同士には、別の意味でのブン殴り合いがある。

話は変わるが、休みの日に、1990年代くらいの娯楽映画を何気なく見ていた。
2作見たら、その物語の構造が同じだったので驚いた。
悪いお母さん→息子犯罪者→ヒロインはそれと気づかず熱心な性的関係を結ぶ→ヒロイン気づく→愛した記憶との葛藤にもめげず犯罪者を成敗。
これがなんなのか。
全く同じ因果関係で、背景だけ変わっている。
主演女優はそれぞれ、シャロン・ストーンとアンジェリーナ・ジョリー。

臨床心理学関係では、プロファイリングと多重人格と隠蔽記憶と模造記憶などなどが一時大流行で、弁護士大活躍であった。
アメリカ人は、暴力性の因果関係づくりに熱心である。
原因全てを外在化したいのか?

そこで「Long Good Bye」の感想。
ここでの犯人は、超美形の女性である。
背景には戦争によって愛する人を失ったというトラウマがある。
ハードボイルドでは、女性は殺される被害者か、犯人か、傷心のまま消えていくやや美女か、である。
男性は、そういう女性たちに翻弄されつつもタフに生き延び、男性同士で互いに暖かく心を通わせているのであった。
下半身は女に翻弄されるが、頭や心はすっかり男性同士のためにある。
やはり、ハードボイルドを読むと、女性としてはバカにされたような気になる。
女性の真実の良さというものは、ほとんど出てこない。
生死に関わる問題を山積させ、疲労困憊のヒーローにさらなる性的サービスをねだるのがここでの「女」というものである。
それも素敵だが...。
そういう女になりたいと望む女はいるのだろうか。
フィリップ・マーロウになりすましている男は五万といそうだがね。

つまり、ハードボイルドは、残念な感じで生きている男たちの問題の外在化と、なりすましロールモデルの宝庫、ということになってしまうのだが...。
それでも私は男の人たちが好きだな。
そういう、単純なところが。
「悪童日記」を読んだのはいつのことだったのだろうか。
その時のショックは、何にも例えることが出来ない。
フラナリー・オコナーを読んだとき、内田百閒を読んだ時にも似たような心持ちになったけれど、ショック度合いという意味では、ダントツだ。

人が家族を失うということ、故国を失うということ、国と故郷と家族と、そういう属性を全て失ったときに、どうやって生きるのか、生きていけるのかを深く考えた。

それは、その頃の自分の立場を考えたり、そこから先に進む方法を考えたりするための役に立った。
大いに。

田舎で、周囲の人々から何らかの認知をされていた自分が、ある日から突然「どこの馬の骨」という目でしか見られない存在になるという体験は、欧州の戦乱や人種差別、宗教差別の生死を分ける状況とは比べようもないとは言え、それなりに文学的だったのだ。

自分は、何をする誰なのか。

リセットされるというのは、苛酷な体験だ。

そして、私は今日まで穴に落ちないよう、怪我をしないよう、慎重にしかし時には博打を打ちながら生き延びてきた。
まさに、生き延びてきた。

人生の中で意義のあることをしたとか、後世に残ることをしたとかいうのは目的ではなく結果だ。
人はただ、一心に生き延びたいだけだ。
そして、気づくと歳を取っている。

その加齢に免じて少しは休ませてもらえると思うだけで、生きてきた甲斐があったと思える。

私の周囲の男性たちはあまりにも早く、病を得たり心朽ちたために若死にした。
その数を、私は指を折って数えることができる。
女はみんな生き延びている。
生き物としての自分の重さを秤る時の女の潔さ。

アゴタ・クリストフは、「人間」と「女」のただそれだけになった時の姿を書いてくれていた。
文名が上がるにつれ、彼女のような苛酷な人生を糧とする人々がこれほど多いということが分かり、それも私の励みになった。
少しは孤独が慰められた。

亡くなったと知ったとき、私の人生が文学に大いに救われていることを、改めて思ったのだ。

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