読んだ本: 2011年11月アーカイブ

半年くらい前から、1月に1回、英語翻訳の教室に通っている。何年か前に、数人で精神医学の原書を丸ごと読む会に参加して、その時はかなり英語に親しんだつもりだったけれど、近頃また読み方を忘れている気がしたのだ。
英語を読むときは、その「脳」になってスタンバイしないとならない。その「脳」の状態は、しばしばそうなっていないとどんどん薄れていく。
翻訳教室では、ニュース記事から雑誌記事、エッセイ、小説など様々なものを読む。課題が出て、それを期日までに訳してメールで送り、教室開催の日に添削した物を受け取って講義を聞く。
私に戻される添削は、まったく、目も充てられない、という感じ。
どこが悪かったのかと考えると、まずは基本的なこと、「主語を探す」という最も重大な仕事をおろそかにする。時制を都合良く感じ取ってしまう。
次には、ひとつの単語がいかように利用されるかについての知識が乏しい。
この、単語に関する知識のバックヤードは、正確な翻訳をするという前提に立って蓄積しない限り、絶対に身につかない種類の事柄だ。
ひとつの単語が使用されるとき、どのような頻度の、どのような優先順位の、または例外的な「意味」を持つのか。
それを経験する毎に、自分のバックヤードに溜めて行かなくてはならない。
同じひとつの単語が、精神医学の本の中で使われるときと、古い小説の中で使われるときとでは、含む意味が全く違ったりする。

このことを思った時、私にとっての楽譜の読みが思い起こされた。
ひとつの曲の誕生と来歴、アレンジの変遷、採り上げた歌手たちのそれぞれのアプローチ、各国の多種多様なリズム系。
その曲をどう受け取り、どうアレンジし、どう表現したいか。
そしてその欲望の根拠は何なのか。
たった1枚のリードシートに、それらを説明しなくては演奏が始まらない「自由領域」がある。
しかしこの自由は、根拠や表現を裏付ける知識とリズムによってしか実現されない。
ひとつの単語を見てその意味を推理する時と、ひとつの曲を見て、それをアレンジする力はどこかで似ている。

自分の英語能力の助けになるかと思って、鴻巣友季子の「全身翻訳家」というエッセイ集を買った。
ひとことで、驚愕だった。
多くの小説家のエッセイを読んだが、かつてなく、最も驚いたかも知れない。
「世界文学」そして「日本文学」への深い造詣、そこから自身の仕事である「翻訳」との相関をさり気なく示し、さらにその全体のそこここに他の作家には見られない独特な「間」を創出している。
ひとりの翻訳家が、彼女の中に膨大な世界を構築し、それらを材料として余さず使い切り、さらには独創までしている様を、短いエッセイの中に見事にまとめ上げている。
料理やワインについての細かな描写は、バックヤードに気の遠くなるほど膨大な読書と経験の蓄積があることを伺わせる。
私は、読みながら胸が苦しくなった。
苦痛の苦しさではなく、嬉しいばかりの苦しさ。
こういう人がいたことを、今の今、知ることのできた僥倖。
作家は、私の態勢が整わないときには、来てはくれない。
読書でも、音楽でも、私に準備ができていないときには、相応しい対象には出会えないのだ。

どんな作家に出会っても、少しずつ「私」とは違う。
その差異ばかりを察知して、友だちではあるけれど、同志ではない、と心の底で思っている。
もちろん、理性では、その差異こそが私を豊かにすると知っている。
それがバックヤードの宝へと姿を変えるのだから。
しかし、バックヤード自体の造形とか、柵の形とか、雰囲気という物を同じ「趣味」で構築している人に出会うというのは、またべつの感興を喚び起こす。
安心する。

興味とは、つまり愛情なのだ。
つきまとわずにはいられない。
音楽ならその周囲を、いつもうろうろする。
ワインもしかり。
うろうろして、ためつすがめつする。
それに関する物を片っ端から収集する、読破する。
聴く、味わう、試す。
欲望する、入手する、傍らに置く。
そして、消えていった物や人に関する膨大な記憶。
その全てが、ひとりのバックヤードに埋まっている。
人のバックヤードを、その価値と豊かさ、可能性を知る人は幸福だ。
これこそ、お金なんかでは、決して、決して、買えないものなのだ。





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