エッセイ: 2007年6月アーカイブ

元気なのは...。

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 先週、詰めて仕事をしたら、数人から「体は大丈夫か」とか「顔色がすごいよ」と言われてしまった。
 本人としては、予想したより遙かに元気に、健やかに、あれこれをこなしていたつもりだが、疲れは顔には出ていたらしい。
 私にとっての疲れは、持病の偏頭痛の兆候として感じられる。右側の目の奥から頭の後ろにかけたラインに異常感が来たら、そこが限界。さっさと仕事を中断して整体へと出かけてゆく。整体の先生は、「まあ、良く太っちゃって。歌手で良かったねぇ。そうじゃなかったら、ただの太ったおばさんだよ」などと、ひどいことを言いながら、あちこちひっぱったりねじったりする。翌日は、滞っていた疲れがどっと外に出て、だるくて眠くてたまらん。けれども、2日目からは、また爽快に働けるのだ。
 スケジュールを見ると、確かにものすごいことになっている。だがそれとて、芸能界の皆さんから見たらぜんぜんゆるい。なぜなら、最近、ほとんどノープレッシャーだから。
 このところ、色々な事の道理がよく分かってきたらしく、不必要な神経を使わなくなった。その分、外の方たちには遠慮無く小言を言うので申し訳ないとは思う。でも、しなくても良い我慢や、処理を背負うのは若いうちだけで良いでしょ。ずいぶん長い間、無理難題をどうにかしようと頑張ってきた。先輩には控えめに、後輩には寛大に。でも、もう良いでしょ。少し羽を伸ばして、いきいきと楽しんでみたってね。
 同年代の友人たちも、この頃なんだかみんないつも上機嫌である。じつは、困ったちゃんが多いんだが、多分、周囲からそれも許していただける年齢になった。やっと、なったのだ。
 みんな、年相応にくたびれた顔はしているけれど、芯のところはなんだか嬉しそうだ。だから、一緒にいると楽しい。頑張ったね、お互いに。後はのびのび生きてゆこうね。言わずもがなに、でも言葉にしないところで、優しくねぎらい合う。
 枯れてはいないと思う。クリエイティブでパワフルで。まだまだ何かをしでかしそうだ。
 きっと、凄く良い時代を生きてきたという確信が生まれてきているんだね。

エッセイの種

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 毎朝、ご飯やお弁当を作っているとき、とても良いエッセイの種を思いつく。
 料理しながら洗濯機を回し、ベランダに干しながら、ちょっとテレビの時刻などを確かめたりするとき、本当にとても良い種を見つけるのだ。
 その種を書く暇は、日中なかなか取れない。今も、本当は雑談を書くよりは、明日締め切りの別の仕事をしなくてはならないのだが。
 そうこうしているうちに、その素敵なエッセイの種を忘れてしまう。いったいどこに消えてしまうのだろうか。
 種は、私の考えや心の中に「ぽいっ」という感じで転がっているものなので、「あら、そこにいたの。そうよねぇ、ずっといるわよねぇ」と頷いてやらなくてはならないような、ごく当然の存在なのだが、いざ、一日の仕事が始まって、あーだ、こーだバタバタしているうちに、必ず思いついたことを忘れてしまう。
 がっかりしなくて良いのは、明日になれば、あるいは明後日になれば、また思い出すと分かっているからなのだが、その、朝の私と夜の私とではセンスがとても違ってしまうのは不思議でならない。
 曲を書こうとして、じーっと耳を澄ましていると、胸の奥からふわりと旋律や響きが湧いてくる。それも、バタバタしていると出てきてくれない。
 では、じっと暇にしていれば、湧き上がりまくるのかというと、そうでもなく、忙しい中で、椅子に座ってじっとしたり、無理にでもピアノの前に座り、適当にポロポロ引き始めると何となく出てくる。
 日常のサイクルは、それはそれとして大切で、その隙間のクレバスのような陥穽に、まだ見ぬ私の作品らしきものは潜んでいるようだ。
 その後ろ姿の、着物の端をぐいっと掴むと、幸せがどっと、音を立てて迫って来る。

プレッシャー

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 会社を立ち上げてから長いこと、心の真ん中にぽっかりと空洞があった。

 私は、7年前、たった一人で小さな部屋を借り、子供を三人抱えて生き延びるために、覚悟を決めて仕事を広げた。
 そこは、旧いビルの、決してきれいとはいえない狭い部屋だったけれど、来る人が皆「居心地良いね」と言ってくれる場所になった。
 歌の生徒も沢山来てくれるようになり、そこで何冊かの本も書いた。自転車操業の大変な毎日だったけれど、やがて私の城となり、私らしい場所になった。
 そんな時に、共同で会社を立ち上げようという話が持ち上がった。
 私の個人事務所は、そこそこ活気があったし、愛着も生まれていたから離れることに不安があった。自分の仕事の動線は、一日にして成らずということも身に滲みていた。
 けれども、たったひとりで切り盛りする大変さに少々疲れてもいた。
 一緒に働く人がいる、というのは良いことかも知れない。

 そして、数ヶ月。
 夢にも思わなかったような立派なスタジオと書斎が私の職場になった。
 訪れる人みんなが驚き、戸惑うような。
 素晴らしいことであると同時に、それは大変なことでもある。
 そこを維持するプレッシャーは、並大抵ではない。
 建設したり、設備したりする間、業者さんが入り乱れ、その活気と喧噪の中で瞬く間に日が過ぎる。そして、非日常の高揚した日々は、祭りのようにいつか終わる。
 完成すると、次にはあらゆる知り合いに宣伝営業し、システムを整えるために日々考え抜いた。うちの会社が引き受けられる仕事のクォリティやキャパシティはどれほどか。自分に何ができるのか。
 いつしか、事務所滞在時間は、日によって14時間にもなっていた。

 その間中、心の空洞は、いつも空しく口を開けていた。
「ここは、本当に私の城なんだろうか」
 私は、なかなかそこを自分の居場所にできなかった。
 以前より煩雑になったセッティングに慣れない。
 事務所に座って、前と同じパソコンに向かっていても、何となく落ち着かない。
 そればかりか、元気そのものが出ない。何だか楽しくないのだ。
 多分、引っ越し鬱病みたいなものだったのだろう。
 プレッシャーばっかり感じられて、自分が無能なバカになった気がした。

心が変。大丈夫だろうか。
とりあえず、できるだけ沢山歌を歌うことにした。
大好きなミュージシャンにお願いして、レコーディングしてみたり、ヘトヘトなのにライブを打ってみたり、一人でピアノを弾きながら歌ってみたり...。
少しずつ、歌うと自分が戻って来るような気がし始めた。
だんだん、歌った後、すっきりした、楽しい気持ちが蘇るようになった。
録音を聴き返して、なかなか良いな、と安心したり、もっと練習したいと意欲を感じたり...。
時には、高校生の頃歌ったフォークソングを、ハモって歌って、懐かしさや面白さにご機嫌になったりもする。
やっと、心の真ん中の空洞がふさがってきた。
私の体と心が、日常の重みを感じられるようになってきた。
そして、歌うことが、以前よりまたさらに大切なことになってきた。
丁寧に、丁寧に、1曲ずつ、慈しんで歌いたくなってきた。
歌えるようになったら次は、やっと、文章が書けるようになってきた。
まだまだ先は長く、大変な日々か続くに違いないけれど、こうして歌えて書けるうちは、どうにかなりそうな気もする。

少しずつ、少しずつ、欲張らず、丁寧に...決して諦めず。


 病気をしたことがなかった。
 入院したのは、お産の時くらい。
 子供を産んでからは、気が張っていたためか風邪を引いて寝込むということもなかった。インフルエンザにも罹ったことがなく、「風邪を引かない馬鹿」と思うのも癪で「はははは、私は不死身だ!」と空威張りしていたほど。
 どちらかと言えばしんどい人生だから、疲労困憊した時には「熱でも出ないかなぁ、休みたいなぁ」などと罰当たりなことを考えたりもした。

 ところが、一昨年、昨年と弟、義妹を亡くし、自分も片頭痛で寝込んでみると、人が健康に暮らしていられるのは恩寵とも言える、実に希で有り難いことなのだということが身に沁みた。
 それから、自分のことを少し、労るようになった。
 疲れすぎないように、疲れたら休むように、疲れざるを得ないときは何らかの解消法を探すように。
 具合が悪い時は、心も薄暗くなる。
 ネガティブな考えばかりが押し寄せ、どうやってもそこから浮き上がれないような辛い気持ちになる。
 けれども、よく寝られて、美味しいものを食べられて、家族や友人と楽しく語り合えば、たいていのことは大丈夫じゃなかろうか、という気持ちになる。
 ふと「すこやか」という言葉が浮かび、「健康」よりイイ感じだなと思った。

 正常とされる検査値や平均値に当てはまらなくても、健やかに生きることはできる。
 体力が充実していなくても、強靱でなくても「気分良く」暮らすことはできる。
 私にとっては、誰かに対して辛く当たらなくて済む状態が「すこやか」だ。
 体力や気力に余裕があると、相手との間尺が程良く取れる。
 自分のイライラや疲れを誰かに対して、乱暴に投げ出さなくて済む。
 周囲の人に少しは、配慮したり思いやりを持てる状態が「すこやか」だ。
 そういうコンディションを持続する努力をしなくては、と思う。
 「私は大変で疲れてるんだ」
 と甘えかかる人にはなりたくない。

 優しい人や親切な人に会うと、すごく嬉しいから、誰かにもそういうホッとした気持ちをプレゼントできるようになりたいと思う。

 「たまには怒った方が良いよ」と私の無理を心配してくれる人もいるが、怒るとその後、いっぱい償いをしたくなってしまい、本末が転倒してしまうことが多い。
 私は、我慢して怒らないわけではなく、怒るのが嫌いなのだ。
 心の中では怒っているけれど、それをそのまま相手にぶつけるのは芸がない。
 怒りたいときも、それを攻撃に変えないやり方を工夫する方が楽だし、気分がいい。
 あるいは、全く別の方法でそれを解消する。
 もしかするとそれは、人と人との関係性に於いては間違った方法なのかも知れない。
 でも、私の場合、そうやってでも不安の少ない日常を維持する方が大切だ。
 良くない考えかも知れないが、攻撃的な人を見ると、彼や彼女はきっと何かに守られている人なのだろう、と感じてしまう。
 攻撃して顰蹙を買う、あるいは逆襲されて被るダメージは、ギリギリ感を持つ人にとっては致命的だ。

 生活に困っていない、安定した基盤のある人は、平気で誰かを攻撃したり非難したりできるのかも知れない。けれど、その安定を約束する立場の人は、いつも周囲に万全の配慮をしていなくてはならない。そういう立場に寄り添うと、本当に必要な優しさとはどういうものなのか、理解できるようになる。

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