2013年2月アーカイブ

ケーブルテレビの、映画やドラマのチャンネルをつけていると、番組の合間はほとんど、痩せるための物品か健康食品のCMばかり。
テレビショッピングは色々な便利グッズとか日用品なども売る場だと思うのだが、そういうものはほとんどなくて、飲めば痩せるとか、健康を取り戻したという食べ物、飲み物。
他には、一日10分くらいやると確実に痩せるという機械。

痩せた方が良いのだろうか。
確かに、生活習慣病など、体重を落とすだけでリスクが大幅に減るそうなので、健康のためには痩せた方が良いのでしょう。
けれど、50代以上とおぼしき女性が、スリムで背筋もピッと伸びていたりすると、私はちょっと引いてしまう。ジーンズなどを格好良くはいて、丈の短いジャケットで、眉尻がピッと上がり、サングラスを頭の上などに載せ、颯爽と早歩きしているようなタイプが苦手である。

テレビのそれら、若さを保つのに一役買う食品のコマーシャルに出て、年齢によらず、口調の強い、意志の強い、頑張るような女性が苦手である。
男性は、まぁ、100歳でマラソンを走っていようが、「好きにしていいよ」と感じるのだが、女性がきりりとしていると、「友達でなくて良かった」と感じてしまう。

どう言うか、そのようなタイプの方々には、PTAとか地域活動でたっぷりお目にかかり、叱咤され、説教されたことがあるらしいのだ。らしい、といかにも曖昧で無責任な言い方をするのも、それほど「あー、ヤだ」と思っていたからで、その内容を全く覚えていない。同性同士って、どうしても競争心とかが湧くらしいよね。なので、私は、子育て中にも、地域でも色々役を仰せつかった時も、先輩の自信家的女性たちからはたっぷり圧迫された。

男性同士もなかなかすごかった。役人上がりの方と民間上がりの方とで灰皿を投げ合う喧嘩とか見てしまった。私より年下の世代の方はそんな身もふたもないことはなさらないとは思うが、それでも、別の形での圧迫はありそう。

そうそう、痩せないといけないのだろうか、という件。
知人の中には、趣味のようにダイエットを繰り返す方々がいる。
どちらかというと美醜を気にするというよりは、努力の成果を数字とかで見ることや、ストイックに自分を追い詰めるのが好き、という様に見える。
私はそういうのがいちばん苦手だ。
辛いならやんなくていいや。
と、わりと抵抗なく決定してしまう。
辛いほどやっても仕方ないと思う。
楽しくやればいい。
趣味なんかだと、人生長いので、たまに歌ったり、たまに絵を描いたり、たまに文章を書いたりしていても、まだたっぷり余暇がある。
料理などは、デレビのコマーシャルの合間合間にやるし、風呂に入っている間に煮炊きしてたり、掃除機も、コマーシャルの合間だけちゃっちゃとかけるとか、取り組んでる感を減衰させる努力をする。
義務的な仕事は、何となく、いつの間にか終わっていると思うようにしている。
食器洗いなんかも、ストップウォッチ押してやると、じつは5分くらいで終わってるよね。

絵を描くときは、始めると意外に疲れが溜まっていると分かる日もあり、そういう日は軽くスケッチ一枚で止める。

あ、痩せないといけないのかという件。
で、私は他人から、頑張ってキリキリしていると見られるのを好まない。
ぼーっとしていて、適当で、当てにならない感を醸し出すのが希望だ。
だから、適度にぽっちゃりしていて、うふふ、と笑っていて、時々何か企んでいて、嘘ついたりもする人に私はなりたい。
過呼吸になった時に、紙袋なんかに吐き出した自分の息を吸うと治る、という話がある。
デマだ、という説もあるが、先日見たアメリカンドラマで、気分の悪くなったエリートもこれをやっていた。

何の話かというと、私の精神の健康の件です(何となく恐縮)。
週明けの今朝、自分のブログを読み返して元気が出ました。
これって、自分が出した二酸化炭素を吸う感じだな、と思いついた次第。

週末は身体のために家で休むことが多いのだが、なんかすごく鬱っぽくなる。
もう、ほんとに嫌だ。
でも、休まないと身体が保たない感じもする。
去年の体調不良から、少し臆病になっているのかも知れず。

でも、家にいると心には良くない感じだ。
会社で書いたブロクが、躁病だったのではないか、と危惧するくらい暗ぁ〜い気分になっていく。
鬱になる原因ははっきりしているので、それについては別に良いんだが。
週明け会社に出て来て、メールや自分のブログ読んでいると、また元気が出て来る。

何となく自分の出した二酸化炭素を吸うのに似てませんかしら?
とは言え、過呼吸ではなくて、酸欠からの生還という感じもするが...。

負けないぞ!絶対。


こだわるぞ!

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びっくりマークまでつけて、何を気張っているのかと訝る皆様、今日は昨日の続きです。

さて、「遊び暮らすうちに何となく小遣い稼ぎができている」境地を目指す多田です。

私は本来、田舎の成金の娘でした。
¥が対ドル360円でしかなかった中学生の夏休みに、弟と2人「親子で行くヨーロッパ旅行」に紛れ込んで、JALパックを利用しています。
大学入学時は、原宿の東郷女子学生会館に入居。
夏休みはライオンズクラブの交換留学生で西海岸に滞在。
ゼミの旅行でバリ島巡り。
大学途中からの住まいは、親が買ってくれた成城学園駅徒歩5分の建売りでした。
音楽仲間というか不良のたまり場になったのは言うまでもない。時々警察に通報されました、いえ大したことはない、深夜の騒音で...。

それが、結婚した途端ものすごい家庭内不況に見舞われ、働かないと生きて行けない状況になった。で、自分を洗脳した。
日々、頭脳内を巡る単語は、ストラテジーとか鋭い洞察、はたまた稲盛さんの「生きる」とか。見る番組はNHKのプロフェッショナルにテレ東カンブリア宮殿、ガイアの夜明け、とかになった訳だ。

それはそれで楽しかった(かも)。
しかしその間も、試練は実家方面で次々と沸き起こり、憤怒のあまり高血圧症になったほど。人の金での金持ちはアホになって行くことが分かった。

そして、何となく平和な現在。
ついに「好きなことしかしない」宣言の地平に降り立つことができたのである。
若いうちからこれができなかった、不測の(考えが甘い、世間知らずとも言う)事態こそがラッキーだった。
本来は音楽的、アーティスティックな生活を目指しての成金否定だったはずだか、実情は甘くなく、至ったのはただの貧乏だった
しかし、豊かな家庭からの出奔、無理矢理な結婚、臥薪嘗胆、のどかな老後、という素晴らしい連環。まるで朝ドラのような、これが充実した人生の雛形だと思いたい。

ここに至る数々の経験は、私に独自の「こだわり」という、素晴らしい資質を与えてくれた。その中身は、「わたくし」が心地良いか否かによって検分される物事なのだが、この決定行為がなかなかに得難い。こうできるまでに自分を追い詰めたのこそ人生の宝である。

「え? 自分が気持ちいいか悪いかくらい、誰でも分かるでしょ」
と思っている人が大多数なのだが、じつは、これがなかなか、なのである。
細かく説明するのは、今、自分にとって心地よくないことなのでしないが...。

その、「わたくし」が心地よいという物差しに加えて、「わたくし」の価値観に照らして、それが上品か否か、また、美しいか、程よいか、などについて個人的に凄くこだわることにしたい。
人が集まって何かをしようという時には、互いに譲ったり、調整をしたりすることが重要だが、何かを創ろう、という時には調整してはならない。とことんこだわらないとならない。
こだわらないと、私のものにならない。
そして誰のためにもならない。

だから、こだわります。うふふ。
あー、いい気持ちだ。

最近、「仕事」というものにすっかり飽きてしまっている自分に驚く。
「仕事」というのは、私の定義としては「お金を稼ぐこと」である。
同じく労働していても、家事とか育児とか冠婚葬祭雑務などはこれに入らない。
家庭の外から内に金銭を導入できるものが「仕事」である。

で、なぜ「仕事」に飽きてしまったかといえば、お金を稼ぐ、あるいは稼げる前提でやることがいまひとつ面白く感じられないからだ。
子供を育てていた時期には、そこに幾ばくかの現金がないとどうにもならないので、有無を言う暇もなく、ただひたすら「金、金」と我と我が身を洗脳していた。
「仕事」って自分を騙さないとなかなかできないような...。

本来、人は「お金」を得ることそのものよりは、人に喜んでもらったり、認めてもらったり、褒められたりするために働くのではないだろうか。
お客様や、家族に「ありがとう」とか「楽しかった」と言われたいがためにとても頑張るような気がする。
金銭的な価値よりは、心の充実や交流のために頑張る。
お金があると、家や自分の姿をきれいにできるし、見たいもの聴きたいものが手に入るし、美味しいものも食べられる。それを共有した時にみんなで嬉しい顔ができる。その幸福感が好きだから働く。
まあしかし、私の仕事は、全体から見るととても恵まれたもので、生徒さんや音楽仲間からいつも良い波長を頂ける。「あー楽しかった」とか「素敵な時間でした」と言って頂ける。「元気が出ました」とか「わくわくします」とも言って頂ける。本当に望んでもなかなか得られない境遇である。

けれど、最近どうも「仕事」と考えると途端にシラケる。魅力半減、つまらなくなってしまう。
どうも私のしていることは「仕事」じゃないみたいなんだよなぁ。
「仕事」としてやりたい訳じゃないんだよなぁ、たぶん。

理想としては、こちらは真剣に遊んでいるのだが、それが相手にとっては価値であり、それなりの対価を生むという状況。
 甘いかな。
「仕事」は仕事としてクールに取り組まなくてはならないのだろうか。

さて、そして私は現在、この年齢から、打ち込みを覚えようとしている。
どうしてもやってみたい。
ひとりでバンドサウンドを組み立ててみたい。
詞を書いては、レコーダーにフンフンと歌って溜めている。
それを素材に、「私の音楽」を作ってみたいのだ。

フリー時代も、会社を立ち上げてからも、事務仕事とか経理とかブッキングとか、何より「仕事」を作るための企画立案などに時間を割いて来た。けれど、もうそろそろ止めても良いんじゃないかな。つまらないと思った今、辞めても。

これらを行う大義名分は「私ももういい年齢だから」ということ。
モチベーションという単語、嫌いなんだが、仕事に対して、どうやらそういった種類のものが消えてしまったのかも知れない。

こうなったら、遊んでばかりいて、はた迷惑、そして意味不明なばあさんを目指すしかないな。みんなごめんね。大目に見て下さいませ。

町山智浩さんのお名前は、豊崎社長や小田嶋隆さんの書くもので見知っていたが、この度初めて購入。そして感動。

アメリカには日本の3倍近い人口があり、しかもその内容は、世界中から集まる様々な人種で構成されている。
先日知った事によると、アメリカの軍事費とその他の全部の国の軍事費が同等。
つまり、地球上の軍事費の半分はアメリカの予算。
その上、国内には銃が溢れていて、始終人が殺されている。

最近また、ケーブルテレビでしばしばアメリカのテレビドラマを見ていたため、町山さんの筆力になる「アメリカ合衆国」の描写は、想像を遥かに超えてリアルに衝撃的であった。

かつて、週刊現代に連載されていたものと他の雑誌掲載のコラム、書き下ろしも含めての一冊。ブッシュのしたことが「どんだけ」だったかということが逐一分かる。
そして、大統領が「そんなこと」をしてしまえる国の事情というものも逐一分かるようになっている。

すごいなー、ドラマよりすごいなー。
国そのものがディズニーランドみたいだ。
つまり、フィクショナル。
ひとりずつの人間を構成する要素というものが乱雑で濃い。
まず性別があり、人種的な出自があり、階級があり、宗教的心情があり、性的嗜好があり、その他に思想とか理念とかがあり、それらがぐちゃぐちゃに脈絡なくひとりの人の中にある。日本は、均一の中から異質なものを見つけ出す文化だけれど、アメリカって一対一対応しなくてはならないみたいなのだ。

見出すとはまってしまうアメリカのテレビドラマが優れているのは、事件の「原因」を推理するための要素がこれらの全ててあるからで、それはもう私らとは勝負になんかならない。日本人が抽出する微妙な差異なんてものは「見えないし感じない」程度のものではなかろうか。その個人個人の屹立の仕方。自己主張の激しさ。性欲の旺盛さ。

必ず一対一対応しなくてはならない、得体の知れない人々が繰り広げる政治と経済と戦争など。全く、その剥き出し感は、恐らく地球上の他の場所では決して存在し得ない。
感情面だけに絞って見れば、「幼稚」で「身もふたもない」のがデフォルト。そこに知性とか実績とかを糊塗し続けて造形される人格。
有名人になる人々とは、大衆のあられもない欲求に訴える人材でもある。溜飲を下げるとかガス抜きをするためのパフォーマーを求めるパワーも凄くて、日本のワイドショーとかは上品この上ないんだと今更ながらに気づく始末。

なんか、まとまりがないが、私自身が驚きすぎてとっ散らかっている。それほどのインパクトを持つ町山氏のコラム群である。町山氏が凄いのか、描かれるアメリカ合衆国って国そのものの狂乱が凄いのか。興味のある方は読んでみて。





大分前に買って、さらっと読んだ、ダニエル・バレンボイムとサィードの対談をまたゆっくり読み始めている。
バレンボイムはロシア系のユダヤ人で、言うまでもなくピアニストとしても指揮者としても天才。サィードはパレスチナ人でカイロに育ち、世界的に認められた多方面の評論家、ピアノがかなり上手い。

この二人が、音楽について、音楽の歴史や社会との関連について思うところ、行動したことなどを話し合っている。

例えば、ナチズムに協力したとされるワーグナーの音楽をイスラエルで演奏すること。中東の互いに侵攻し合っている国々から若い音楽家を集めて、ワークショップをし、オーケストラとして演奏してみること。

二人は世界中を飛び回る過密なスケジュールの中で、さらにこれらのことを、中東のために発案し実行している。その中で見えてくること、関わった若い人々が体験すること。

話は、純粋に芸術としての音楽についても深まる。その中で、音楽が他のアートと異なるのは、固定できない特質によると語られていた。絵画や彫刻、建築などは何度でも同じものを見ることかできるが、音楽では決して同じ演奏はできない。

この本を読み進むのは大変だ。数行読むたびにわたしの頭の中に数々の連想「association」が沸き出して、読んで理解している文脈の脇に別の色彩鮮やかな発想の波が発光するからだ。時々、こういう効用を表す本に出会う。中身が素晴らしい以上に、その何が私を刺激して引き回すのか、呆然とする。

本を読むという行為からすると、小説は面白いけれど呼んだ後に「だから何」という気が必ずしてしまう。この先がどうなるのか、結末が知りたいと思いつつ読む本は特に、さんざん読んだ後に、空しい感じが残る。
つまり、最近の私には物語は余り必要ないのかも知れない。

物語ではなく、書き手の深い洞察を感じたときは「有り難い」と思う。それは共感かも知れない。その共感の持ち方と、音楽が生成しながら育って行く感じが似ている。書き手を聞いて読み手の私が連想し、そのコラボという点で、演奏と読書が似ているときがある。

最近は、音楽の要素はシンプルなのが良いと思うようになった。シンプルな中で、人の生理に寄り添った生成を生む。初めに進歩とか斬新とか難解を追うのではなくて、シンプルなところから次第に色付けて行く。エスキースから大作を仕上げて行くかのように。

音楽は、止まらない。一時の結果をCDにしたところで、それは演奏家にとっては過去のものでしかない。だから、記念写真的作品はもしかすると必要ないのではなかろうか。ただ、自己確認のためにアウトプットとして客観的に聴いて、また次のことへと歩み出す標にするだけのことで。

人を真ん中に据えてみると、彼らが生み出す作品群よりも、彼らの細胞が入れ替わり、絶え間なく変化し続けていることにだけ意味があるような気がして来る。

詞を診て下さい

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最近蒲団内作詞が盛り上がっており、昨日プリントして五線紙とともにファイルに挟み込み、作曲の準備をした。

たとえば、
「そんなとこにしゃがんで恨めしそうに見るなよ」
で始まる『女々しい』という詞。

または、
「とにかく最初に過激をかますと、後が楽」
で始まる『後が楽』という詞。

中身はご妄想にお任せするとして、良さそうでしょ。
これらの身もふたもない歌詞群を美しいメロディーに乗せてみたいと思っています。

他には、ロマンチックな恋の歌?もあり。

「古い酒は捨てて旅に出ようよ
 好きだと信じていたのはただの習慣
 三度続くと永遠に、四度となると未来まで」
 
 言葉の内容と曲が乖離した果てに見えるものを求めて、わたしの休日的日常は続いて行くようです。

昨日、帰宅すると近所の知り合いから留守電にメッセージ。
久しく連絡を取っていなかった方なので電話してみると、「あなた草津で歌うの?」というお言葉。

確かに、草津には行く予定があった。夫とその友達のピアニスト北さんが仕事で行くのだが、私も温泉につかりに来ていいよ、ということだったのでついて行くことに決まっていた。前乗りで温泉に入って次の日のライブを聴いて帰る。ひょっとするとお礼に数曲歌うかも、という感じだったのだ。それも、プライベイトな演奏会みたいな話だった。

知り合いにこちらの見解を述べると、「でもうちに来たご案内チラシにあなたの名前があるわよ」というではないか。何でも、その方は何とかリゾートという旅行会の会員で、安く泊まれるので一年に何度か通っているその宿の企画ご案内に『ジャズピアノの夕べ』というものが載っており、それに私の名前がある、と言う。「多田鏡子 ボーカルって書いてあるわよ」だそう。

どうなっているのか。
歌うのはやぶさかではないが、知り合いの電話が無かったら、私は普段着のまま温泉を楽しみに出かけるところだった。くたびれたジーンズにほとんど風呂上がりのノーメイクでいたかも知れない。

この件は、訝るとか怒る類いではなく、どちらかといえば笑えるネタである。
きっと、話の中でベース弾きの奥さんはジャズ歌手で一緒行くからねーというのを聞いた宿の方が、歌手も来るのかとひとりで決めてしまったのだろう。そして、名前を載せてしまった。
仕事を受ける側から考えるとあり得ないことではあるけれど、草津にはそういう受け取り方をする素朴な人がいるのかも知れない、とも考えられる。

それにしても、近所の人から自分が草津温泉でライブをすることになっていることを聞くというのは、なんかすごくおかしい。
おかしいよね。
長い間、休むということを知らなかった。
学生時代は言うまでもない。高校はSL機関車通学だったので、北国の朝は早く、帰りも部活とサークル3つくらい掛け持ちしていたために大分遅く、土日は学力テストや友達と遊ぶために相当出かけていた。いつも寝不足。
そして、大学時代もジャズ研からすぐに歌の仕事が始まり、卒業してから結婚するまで朝昼夜とリハだの教室だのライブだのでスケジュールがびっしりだったが、結婚したら家事育児で寝る間もなく、そのうち仕事もはじめ、休みは無給休暇になってしまうために生活のために休まず、ひたすら忙しく、風呂もゆっくり入れない日々だった。

そして最近、やっと土日休むというのに馴れてきた。この土曜は、会社に掃除をしにきたりついでに、恒例の食品買いをし、日曜は朝から家族の要望でポテトサラダを作った。
息子がそのサラダを見て「ボールに一杯のポテトサラダが食べたい!」と叫ぶ。
それは、ザゼンボーイズの歌だそうで、すぐにi-Phone経由で聴かせてくれた。
7拍子のご機嫌なビート。すごく歌いたくなった。
今年のバースディ・ライブは9月13日の金曜日に決めてある。
その時に歌う曲をずーっと探して行く一年なのだが、こういう変な感じの曲がとてもに気に入ってしまう。年を取って頭が緩くなって来ると、ふざけたくなるらしい。

そう思っていたら、新譜のショップ用注文票に、私とほとんど同じ頃にジャズを歌い始めていたみやまかよこさんの新しいアルバムの紹介が載っていて、彼女が先駆けてすっかりその路線である。
緩いなぁ 、と感心すると同時に、シューミーとか、さがゆきとか、近しく感じるシンガーがなべてちょっと変わっていることに気づく。その中にあって私はとてもオーソドックスな、お叱りを恐れずに言えば「二枚目」路線の歌手であって、一体この路線は続けるべきか否か、好きにやっちゃおうかな、とか考え出している。

じつは、最近は演歌も上手くなっている。下手すると物まね歌手になりそうなので、たまにしかやらないけれど、演歌を歌う「コツ」みたいな範囲が掴めてきた。だからといって、ジャズを歌う時には全然役立たない。
澄まして「歌は何でも同じでしょ」とかクールにのたまう方には、「野球とサッカーとバスケくらい違う」と返して差し上げたいくらいだ。

コーラスでは、高校時代からソプラノパートで、今もかなり高い声まで使っている。
で、ひと通り色々な歌をやってみたのだから、次やりたいのは「好きな曲なら何でも歌う」ということかも知れない。

こういうことをずるーっとしながら考える隠居じみた土日。
天気が良かったので、散歩もし、妄想の湧くままに楽しんだのでした。
「まともがわからな〜い」
という魅力的な曲もあるんだよ。


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