読んだ本: 2013年2月アーカイブ

町山智浩さんのお名前は、豊崎社長や小田嶋隆さんの書くもので見知っていたが、この度初めて購入。そして感動。

アメリカには日本の3倍近い人口があり、しかもその内容は、世界中から集まる様々な人種で構成されている。
先日知った事によると、アメリカの軍事費とその他の全部の国の軍事費が同等。
つまり、地球上の軍事費の半分はアメリカの予算。
その上、国内には銃が溢れていて、始終人が殺されている。

最近また、ケーブルテレビでしばしばアメリカのテレビドラマを見ていたため、町山さんの筆力になる「アメリカ合衆国」の描写は、想像を遥かに超えてリアルに衝撃的であった。

かつて、週刊現代に連載されていたものと他の雑誌掲載のコラム、書き下ろしも含めての一冊。ブッシュのしたことが「どんだけ」だったかということが逐一分かる。
そして、大統領が「そんなこと」をしてしまえる国の事情というものも逐一分かるようになっている。

すごいなー、ドラマよりすごいなー。
国そのものがディズニーランドみたいだ。
つまり、フィクショナル。
ひとりずつの人間を構成する要素というものが乱雑で濃い。
まず性別があり、人種的な出自があり、階級があり、宗教的心情があり、性的嗜好があり、その他に思想とか理念とかがあり、それらがぐちゃぐちゃに脈絡なくひとりの人の中にある。日本は、均一の中から異質なものを見つけ出す文化だけれど、アメリカって一対一対応しなくてはならないみたいなのだ。

見出すとはまってしまうアメリカのテレビドラマが優れているのは、事件の「原因」を推理するための要素がこれらの全ててあるからで、それはもう私らとは勝負になんかならない。日本人が抽出する微妙な差異なんてものは「見えないし感じない」程度のものではなかろうか。その個人個人の屹立の仕方。自己主張の激しさ。性欲の旺盛さ。

必ず一対一対応しなくてはならない、得体の知れない人々が繰り広げる政治と経済と戦争など。全く、その剥き出し感は、恐らく地球上の他の場所では決して存在し得ない。
感情面だけに絞って見れば、「幼稚」で「身もふたもない」のがデフォルト。そこに知性とか実績とかを糊塗し続けて造形される人格。
有名人になる人々とは、大衆のあられもない欲求に訴える人材でもある。溜飲を下げるとかガス抜きをするためのパフォーマーを求めるパワーも凄くて、日本のワイドショーとかは上品この上ないんだと今更ながらに気づく始末。

なんか、まとまりがないが、私自身が驚きすぎてとっ散らかっている。それほどのインパクトを持つ町山氏のコラム群である。町山氏が凄いのか、描かれるアメリカ合衆国って国そのものの狂乱が凄いのか。興味のある方は読んでみて。





大分前に買って、さらっと読んだ、ダニエル・バレンボイムとサィードの対談をまたゆっくり読み始めている。
バレンボイムはロシア系のユダヤ人で、言うまでもなくピアニストとしても指揮者としても天才。サィードはパレスチナ人でカイロに育ち、世界的に認められた多方面の評論家、ピアノがかなり上手い。

この二人が、音楽について、音楽の歴史や社会との関連について思うところ、行動したことなどを話し合っている。

例えば、ナチズムに協力したとされるワーグナーの音楽をイスラエルで演奏すること。中東の互いに侵攻し合っている国々から若い音楽家を集めて、ワークショップをし、オーケストラとして演奏してみること。

二人は世界中を飛び回る過密なスケジュールの中で、さらにこれらのことを、中東のために発案し実行している。その中で見えてくること、関わった若い人々が体験すること。

話は、純粋に芸術としての音楽についても深まる。その中で、音楽が他のアートと異なるのは、固定できない特質によると語られていた。絵画や彫刻、建築などは何度でも同じものを見ることかできるが、音楽では決して同じ演奏はできない。

この本を読み進むのは大変だ。数行読むたびにわたしの頭の中に数々の連想「association」が沸き出して、読んで理解している文脈の脇に別の色彩鮮やかな発想の波が発光するからだ。時々、こういう効用を表す本に出会う。中身が素晴らしい以上に、その何が私を刺激して引き回すのか、呆然とする。

本を読むという行為からすると、小説は面白いけれど呼んだ後に「だから何」という気が必ずしてしまう。この先がどうなるのか、結末が知りたいと思いつつ読む本は特に、さんざん読んだ後に、空しい感じが残る。
つまり、最近の私には物語は余り必要ないのかも知れない。

物語ではなく、書き手の深い洞察を感じたときは「有り難い」と思う。それは共感かも知れない。その共感の持ち方と、音楽が生成しながら育って行く感じが似ている。書き手を聞いて読み手の私が連想し、そのコラボという点で、演奏と読書が似ているときがある。

最近は、音楽の要素はシンプルなのが良いと思うようになった。シンプルな中で、人の生理に寄り添った生成を生む。初めに進歩とか斬新とか難解を追うのではなくて、シンプルなところから次第に色付けて行く。エスキースから大作を仕上げて行くかのように。

音楽は、止まらない。一時の結果をCDにしたところで、それは演奏家にとっては過去のものでしかない。だから、記念写真的作品はもしかすると必要ないのではなかろうか。ただ、自己確認のためにアウトプットとして客観的に聴いて、また次のことへと歩み出す標にするだけのことで。

人を真ん中に据えてみると、彼らが生み出す作品群よりも、彼らの細胞が入れ替わり、絶え間なく変化し続けていることにだけ意味があるような気がして来る。

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