子どもの頃から、何でも良く憶えている、と言われていたが、覚えられないことも多かったので、まぁ人並みだろう、と判断していた。
この頃になると、忘れていない、あるいはいざというと出てくることも含めて、私のデータ・ベースはなかなか凄い感じがしてきている。
ジャズのスタンダードやポップスの英語の歌詞など100曲以上は覚えている。
歌のメロディは、テレビの懐かしのメロディなら全曲くらい覚えている。
クラシックの音楽史とかミュージシャンの名前なども沢山知っている。
文学、心理学、人類学系のことも結構知っている。
料理を沢山知っている。
つまり、普段は知っているとか覚えていると意識しない事柄でも、きっかけができるとそのデータ・ベースが起動して次から次から色々な知識が出てくるのだ。
花を見たとき、急にその花の名前が分かって「ん?」と思う。
そういえば昔、花の分冊百科の仕事をしたんだった、と思い出す。
「ラナンキュラス」「デンファレ」なんて、普段絶対に覚えない。
先日は、テレビのクイズ番組でCuという元素記号を見た途端、それが「銅」であると分かり、「ん?」と思った。
こないだは、ミュージシャンと「共感覚」の話しをしていて、「ああ、ストラヴィンスキーみたいのね」と言われ、「いや違う、それはスクリャービンだべ」と考えている。
知っていることは、考えるための材料になる。
どこまで行っても材料。
そこから何かを考え出し作り出す方法は、また別のことなのだ。
そして、漠然とでも目的がある場合、知り方についても、どのように「知ったか」が重要である気がする。
どのような手段で知り、どのように自分の表現や創造性のうちのどこに役立てるか。
じつはこちらを構築することの方が難しい。
知ることで満載になって、ただ知っているだけ、という次元にいると思うと、我ながら淋しくなる。
知っていることをいくら展示しても、仕方がない。
それを使って何を生み出せるか。
いつもそれを考えてはいるのだけれど...。
記憶力がベースとなってそれが発酵したり化学変化を起こさないと、目覚ましいことはできないということなのだ。