世間一般のほとんどの人には知られていないが、じつはプロの間では根強い人気あるいは賞賛を浴びているアーティスト、というジャンル(?)がある。
先日、国立のノートランクスというライブハウスで、中堅のプレイヤー達による「パスコアール」だけ演奏するユニットというのを聴いた。
最初は、ピアニスト浅川太平君を聴きに行こうとしたのだ。彼は、スタジオ・トライブのスタインウエイをえらく気に入って、トリオのレコーディングに使ってくれた。札幌出身ということもあり、ライブを聴く機会を探していたのだ。他のメンバーは、と見ると、数回共演したことのある、フルートの太田朱美、ドラムの竹下宗男と、知り合いばかり。これはぜひ、ということになったのだった。
ところで、ブラジルの奇才エルメート・パスコアールは、私が大学のジャズ研にいた頃から触れている、とてもおかしな音楽家。よく、フランク・ザッパとパスコアールを並べて聴き、どっちがヘンか較べてみよう、みたいなことをして遊んだ。
具体的に、どのようにヘンかと言うと、「こう来るだろう」という予想、クリシェを裏切り続けるところだろうか。リズムは大方変拍子。メロディーも、句読点のないだらだらした長文のようだったり、音痴な鳥の囀りのようだったり。
つまり、アバンギャルドなリズムに、現代音楽と民族音楽とジャズのテイストが、脈絡を裏切り続けたいだけかも知れない情熱に饒舌に支えられながら、てんこ盛りに注ぎ込まれている、という...あぁ、くどい...音楽なのである。
そのユニットを率いているギタリストこそが、本日のお題。
大変にオタクな人だ。
ギターのプレイも、体型佇まいも、先に述べたパスコアールのどうしようもない楽曲を完コピして楽譜にし、ちょっと見せてもらったが、南部せんべいの散らばった黒ごまのような、しかし全然色気のない書かれ方をした音符とコードネームの形がまた、ぐっと来る、どうしてこんなことばかりして生きていられるの?...な人なんである。
演奏中は、ソロ取る人に合図を出し、ルバート部分では指揮をし、MCもこなし、そして休憩時間は、ずっと喋っている。
ジャズ界の情報とか、ジャズ界の歴史とか、ジャズ界の逸話とか、ジャズ界のライブ内容についてとか、ジャズ界の...。
その彼、MCで「今日のお客さんでパスコアール好きだという方」と言うので、私、手を挙げてみた。
彼はやや憤然とした様子。居てはならないパスコアール好き。
正しい対応は、「えっ、パスコアールって誰ですか? 知らなかったなぁ、いたんですね、そういう人、すごいなぁ」である。
休憩時間に、「パスコアールってか、フローラが好きなんで、ジスモンチなんかと一緒に良く入っているでしょ」と弁明してみた。
彼は、私と目を合わせない。
ただし、口は、ひっきりなしに動いている。
ジャズ界の動向とか、ジャズ界とブラジル音楽の関係とか、ジャズ界の...。
そして、そわそわとする。
居てはならないパスコアール好きの私は、それでもわざと、話しかける。
「私、最初に見た外タレが、チックと来たエアートでしたから」
彼、更に向こうを向く。
オタクな人は、友好を望む人と目を合わすと死ぬ、と思っているらしい。
そう言えば、彼、なんて名前なんだろうか。
訊くのを忘れた。
突然、朝起きたら肩が軽くなっていた。
フェイズが変わったかも知れない。
パンの買い置きがなかったので、近所のマックで朝食にした。
毎朝、鞄の中に、その日の気分で読みたい本を入れる。
今朝は、オルハン・パムクの「父のトランク」。
サブタイトルに「ノーベル文学賞受賞講演」とある。
家の近所のマックは、広い。
ゆったりとした4人掛けのソファで、本を開いた。
オルハン・パムクが、「なぜ書くのか」という問いに答えている。
答えは次から次へと溢れ出て、彼の人生の全ての場所と時を示す。
読んでいるうちに、私自身が書きたいと感じる衝動が肯定されていく。
私は、ブログにせよ、書く場所を作ったことで救われ、自分を保っていられる。
誰が読んで下さっているのか、あまり分からないが、それでも、ここに書くことで随分救われる。
抱え続けるにはあまりに大変な日々。
小説家、作家を職業とする人々は、人生に関する様々な問題を採り上げ、それを種に物語を紡ぐ。
私にはそれは無理だろう。
渦中にいると、様々な問題が種にはならない。
時々、粗砥で研がれているような人生だと思う。
粗砥でごしごし研がれて、私自身の在り方も言葉も、周囲の人々から浮くのが分かる。
それを自覚するから、用心するし抑制する。
それでも、まだ浮く。
何でもないことを書きながら、涙を流したり、微笑んだりする。
それが、私にとっては安定剤代わりだ。
自分の中にあるものを出し、降ろし、眺める。
どもならん、と呟く。
どもならんことをどうにか変えようとするのか、丸ごと引き受けるのか、どちらにしたいのか考える。
この場合、適度に、というのあり得ない。
徹底的に闘うか、逃げるかの二者択一だ。
私はどうするだろう。
自分にもそれは分からない。
知人が脚本、演出したミュージカルを見に出かけた。
公演後、彼も交えて数人で食事。
エンターティンメントに関わる業界の人々は、興業自体のキャンセルが続くことや、みんなの自粛ムード、停電などによる不測の事態を心配している。
娯楽どころではない、という切迫感が蔓延していることが心配だ。
音楽や芝居、映画などが単なる娯楽と取られるしかないなら、それも仕方がないけれど...。
つまらないことだが、私の個人的経験。
子どもの頃から音楽と文章書きが大好きで、それしかしてこなかった。
結婚出産で、音楽との両立はとても無理だと諦めた。
歌を捨てて、文章書きの賃仕事をしながら、知り合いの一人もいない地域に家庭を持ち、孤独や子育ての苦労と闘った。
ある年、クリスマスイブの夜に、近隣のキリスト教会の合唱団がキャロルを歌いに回ってきた。
マンションのベランダから、寒さに震えながらその歌声を聞いた。
音楽は、自己表現とか仕事とかいう以前に、心に染みいるものだったことを思い出した。
商売になるか否かはさておき、私も自分の音楽をマイペースで続ければいいのだ。
今回の震災で、避難所のお年寄りが、高校生の合唱団を聴いて涙するニュースを見た。
スタジオのアナウンサーもこみあげるものがあったようで、カメラが戻った後もしばらく絶句していた。
音楽を聴くと、直前までは予想もしていなかった心の動きが起こる。
歌を聴くと、身体を感じ、感情の流れを感じる。
音楽を聴くことで、自分が、まだこの状況でも感動できる人間であり、そうであるならもう少し楽観的に世界を眺めてみようという気になる。
つまり、生き物としての自分には、そう希望がないわけではない、と思い直す。
私は、人生のどこかでそれを知ったから、音楽が好きになり、自分を前に進めるためにそれを手放さない努力を続けたのだろう。
自覚もできない、ごく幼い頃に、きっと。
落ち込んでいるわけではないけれど、元気を出せない。
食欲もあるし、人とも話せるし、仕事もこなせるし、本を読んだり書いたりもできる。
しかし、意欲を感じる、という瞬間がない。
ツィッターにも、反省めいた文言を書いてしまう。
元気な人のツィートを見て、更に反省モードに入る。
しかし、この事態はただならない。
震災だけではなく、それ以前から続いている私的な問題もあり、そのインパクトは自分が抱えきれない量になっている模様。
キャパがパンパンだと、ちょっとした違和感にも太っ腹になれない。
もっとゆったり構えなくては、と思うそのことすら強迫観念になる。
ドキドキしないからまだ良しとしようか。
食べられているから大丈夫としようか。
眠れているから有り難いとしようか。
臨床心理学に「喪の作業」と呼ぶセラピーがある。
主には、近親者や友人を亡くしたとき、その喪失感から立ち直るための心の作業だ。
喪われるものは人だけではない。
仕事、家庭、愛情...。
「作業」という用語が馴染まないならば「こころのはたらき」と開いてみてもいい。
傷ついたり、疲弊した心が、少しでも健康を取り戻そうとする方向にはたらくよう、方向指示し、エネルギーを作り出す行為である。
セラピーは、「癒し」とか「元気を与える」ものと誤解されやすい。
心をマッサージしたり、ビタミン剤を与える、という考え方。
だが、私自身は、そのようなカンフル剤的救済まがいは、時に依存を引き起こすことを疑って、本能的に遠ざけていた。
「喪」から立ち直るには、自分に力をつけなくてはならないはずだ、というのが私の仮説だった。
体力、脚力、精神力、何でもいい、自分に力を欲しいと思った。
思春期から一貫して、心が進みたいと思う方向に素直に従ってきた。
音楽や心理学を巡る学び、あるいはその周辺の楽しみ、沢山の友人、そして仕事。
「喪」はたびたび巡ってきたが、日常との比率から見ると少ないかのように感じられた。
打ちひしがれては、また立ち上がり、しばらく活力を湛え、しかし、再び打ちひしがれ...。
それが、この数年は、「喪」が明けないうちに次の「喪」が来るのだ。
新たな「喪」は、それ以前の、まだ明け切っていない「喪」の上に覆い被さって、何もかも一緒くたに混ざり合い、呆然とするほどの大きさに広がっていく。
日常は、「喪」に浸食される。
かつてなら数週間、長いときには数ヶ月は存在したと記憶する日常が、今では一日の中の数時間になっている。
それでも、その数時間が救いだ。
その数時間を作り出すために、「喪」から目を逸らさないようにしなくてはならない。
事実に直面すること。
自分の脆弱さを知った上で、可能な限り現実に直面すること。
そうしながら、自分のキャパシティーを知ること。
一日わずか数分間でも、心が晴れた、ポジティブに考えられた、と思えることに感謝しつつ。
地震の津波の被災地で、瓦礫の山から金庫だけを盗んでいく人々がいるという。
遺体を探しているのでも、壊れた自宅から何かを見つけようとしているのでもない。
被災地とは全く無関係な人が、夜陰に紛れて金庫だけを盗っていくのだそうだ。
まさかそんな、と思うところにも泥棒が出現する。
どさくさに紛れて成される行為の中には、首を傾げたくなるものがさまざまある。
平時なら、するはずのないことを、あっさりと人はしてみせるのだ。
ことわざに「怠け者の節句働き」というものがある。
いつもは大して働き者と思えない輩が、盆や正月となり、人が休むときに限ってせっせと働いて見せる。常は働くことがないのに、アピール効果があがると思えば急に活き活きと動き出す。背景を察知する能力に長けているのだろうか。
人は本当に様々だ。
欲などなさそうに見せている人に限って、火事場では、突然のように強欲に立ち回る。
私のようにぼんやりした人は、常日頃、人並み以上に働くくせに、火事場ではいつも鳶に油揚げを掠われまくるのである。
他人に良く思われたいばかりに、猫撫で声にだまされて鼻面を引き回され、気がついたら一文無し、身ぐるみ剥がれている者もいる。
「善い人」とは何だろう。
「良い人」とは誰のことだろう。
そんな評価を作るから、つけ込まれて元も子もなくし、不幸に沈む人が出てくるのに。
心が、思い出や、思いこみや、憧れや、時には妄想でできていることを、改めて思い出す。
喪いつつ、喪われたものが、まだそこに存在しているかのような錯覚と闘う。
間近にないなら、存在してもしなくても、直接の影響はないのだが、何かを「在る」としている心の癖はなかなか現実の言うことを聞いてくれない。
心はいつも、私の生きる先を照らすように働いて、少しでも強く灯りを点そうとする。
暗中模索の心は、自分が灯した明かりの照らす、その先の、僅かな希望に向かって進む。
11日は、長女の誕生日だった。おめでとうメールをした後、レッスンに入り、途中の1時間休憩時に食事をし、3時からのレッスンに備えていた。受付のスタッフが、「揺れてます」と言う。様子を見ていたが、どんどん揺れがひどくなるので、ふたりで道まで逃げた。スタジオから、高校生バンドの4人も慌てて上がってきて、みんなで、震源はどこだろう、と話した。
じつは、この1時間ほど前、どうしようもないほど不安な気持ちになって、ツィートした。
「一瞬、ものすごく暗い気持ちになった。理由は不明」
日々、心配事はあったが、それにしてもひどい不安が来た。
涙が出るような、底知れない感じ。
こんな気分のことをツィートすることはないのに、書いて、その後すぐ、気を取り直すように
「甘いものでも食べよ」
とツィートしている。
これは、予感だったのだろうか。
今年に入ってから、どんなものであれ、事業に取り組むのが億劫だった。
止めたい、と思う事例もいくつかあり、その原因は、良いイメージが沸かないためだった。
たいていのことは、資金のあるなし、準備のあるなしによらず、実現までの道のりを心の中に思い描くことができる。
それさえできれば、あとはそこに至る現実的な方法をひとつずつこなして行けばよいのだ。
ところが、今年に入ってから、どうにも、楽しい絵が見えなくなっていた。
絵が見えないと、当然、やる気が起きない。
鬱っぽいのか?と自問する。
自分が年を取ったせいだろうか、それともある種のスランプ、体調不良、または心労...?
色々理由を考えつつ、しかし、これまでこんなひどい閉塞感を感じたことがなかったために、困り果てていた。
私、今ひどくネガティブだ、と。
その鬱々した気分の、濃く煮詰まったような感情が、地震の前に来た。
理由は分からないのだ。
良く晴れた初春の午前だ。
具体的に何が起きるのか、までは分からないのだが、家族に異変があるときに全身が硬くなり、重くなる経験がある。
レッスンでピアノを弾きながら、ひどくミスが多く、リズムの悪い日がある。
反射できなくなっている。
そんな時、家族が亡くなったり、事故に遭っていたりする。
その時の気分は、身体ではなく、魂の底の方に重く沈んでいるような感じだ。
心を鉛のように、重くて冷たいものが包んでしまう。
静かで冷たくて暗い。
現実の自分は、それを知っている抜け殻のようだ。
遠い場所で発信される指示を懸命に実現しようとしている。
けれど、時差が生まれる。
指令する心のある場所が遠いのだ。
だから、時差の分、身体が思うように動かせない。
ただの偶然なのかも知れないが、自分の気持ちや身体の様子を、簡単にでも記録しておくのは悪くないかも知れない。
意識すれば、予感が役立つようになるかも知れないから。
いつだったか、友達に
「もう、人生怖いものはないね」とかうそぶいたことがあった。
友達は「怖いものはあるのよ、いつまでも」
と少し困ったように言った。
当時の私は、ほとんど人生の役目を完遂した、と思っていたのだ。
でも、彼女が言ったように、その後もまあ、よくもこんなに、と感心するほど色々なことが起きるのだった。
人生を物語にするのは間違っている、と思っている。
私が窮地にいることを知って
「神様は乗り越えられない試練はお与えにならない」
と言って慰めてくれる人がいた。
しかし、周囲を見ると、何かがお与えになったのかどうかは知らんが、試練によって呆気なく死んでしまう人も少なからずいた。
乗り越えた、とされているのは、ただ瞬間的な状態なのであって、その後、というものもあるのだ。
生きるということは自分を保つこと。
これに尽きる。
死ぬほどの譲歩はすべきでない。
表情が悪くなる場所に長居してはいけない。
達人だと賞賛された伝説的な人々は、ただ、自分を最も活かす在り方を追求し、それがたまたま周囲の人に伝わったということだろう。
周囲の人々が、その突き詰めた在り方の恩恵にあずかることができればなおさら、伝説は説得力を持つ。
そういう達人を参考にしながら、死なないように、適度に生き延びるように暮らす手段を考える。
油断すると、自分を削っていることに気づけなくなる。
「暗い」と評価される話を書いたが、じつは、受ける人にはものすごく受けているのだ。
例えば、ふだん付き合っているミュージシャンとか、デザインスタッフのにこちゃんとかには。
笑いが止まらなくなるような、シャープなフレーズを次々とお見舞いしておる。
つまり、フィットの問題。
私が好きな作家は、大体腹の据わった女性である。
いつも毒づいているような方たち。
そして好きな歌手も、野太い声で、「なんか文句あるわけ?」的な態度で歌う人なのである。
それは、若かりし頃は憧れであったのだが、今や自分の在り方となっている。
周囲の人々で、私に叱られたことのない人はほとんどいない。
ある時、レコーディングのためにスタジオブースに勢揃いした沢山の男子を見ながら、「全員叱った」と淋しく回想したことがある。
誰に対してもそういう態度を取るわけではない。
無駄に威張る必要はないので。
だから、仕事の現場を知らない人は、私の地味なヴィジュアルだけで甘く見るのか、すぐに説教を始めようとする。
ほとんどの男は、自分の奥さんとかを基準に女を測るからね。
私は、大分種類が違うんだと思うよ。
見せないだけで。
しばしば、他人様から「暗い」と評価される。
「音楽やってんのに、表情が暗い」
あるいは、
「表情がない」
さらに
「もっと明るくならないとね」
困ってしまう。
これで、最も無理しない表情である。
長年、自分のことしか考えられなかった様子の夫が、最近の私を見て、しみじみのように
「負荷の多い人生だね」
と評価した。
君もそのいわゆる、「負荷」のひとつではあるが、と思いながら、そのような慰めを言えるようになった夫をありがたくも思う。
音楽をやっている私に対して、皆様は好き放題にイメージを創りあげる。
たいていの方が私について
「独身、酒飲み、家事はしない、パトロンがいる」
と見るらしい。
事実は
「既婚、子ども3人、下戸、家事は人並み、世話の焼ける夫を育てている」
である。
それに加えて、困ったときや事件の時にしか連絡してこない実家というものがあり、これまで55年の実績を見るにつけ、どうも精神的に問題がありそうな家系でもあるらしく、様々な要因で気が休まらない。
その上、小さいながら、一応会社の社長である。
これで夜、薬を用いずに寝られているというだけで、私は自分の精神力に深く感謝するのである。
そういう私に
「もっと愛嬌のある顔をしたほうがいいよ」
とか
「明るくなんなさい」
と説教する方たち。
申し訳ないが、これでも必死なんです。
数日前、鏡を見ると右目の下に、目立つたるみと隈ができていた。
ややぎょっとし、それからガラにもなく鬱っぽかったこの頃のことを思った。
確かに、ショッキングなことは起きた。
しかし、こんなことで隈までできるなんて、私、その程度かよ、と腹が立った。
なにがどうこたえているのか、判然としない。
どこか痛いのだが、場所も程度もよく分からない、痛んでいるのが自分の影ででもあるかのよう。
はっきりとした捉えどころのない、でも明らかにいや〜な感じの、鈍痛みたいな日々。
そこに、くっきりと「隈」、である。
それを発見した途端、妙に悔しくなった。
翻弄されるまい、と歯を食いしばっていたのがばかばかしくなり、もう知らん、と心底思い、私だって怒り狂ったり泣いたりするぞ、と誰に対してなのかさっぱり判然としない宣言を心の中でし、すると理由はよく分からないが、少しずつ元気が出てきた。
クマなんかこしらえてたまるか、ばかばかしい。
その夜は、隈ができている右側を上にして寝た。
鬱血を防ぐためである。
それからマッサージもした。
血行を促進するためである。
顔面を動かして、フェイスリフト運動もした。
目をぐるぐるしてもみた。
とにかく、メンタルではなくて、どうしたって外側から治してやる、という意気込み。
それからよく歩く。
でかい声を出す。
なるべくきれいなものを見る。
友達と喋る。
気のせいか、隈は少しずつ薄まってきている。