kyokotada: 2013年4月アーカイブ

料理の本質

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アメリカの食べ物はどれも似た味がすると思い、たった5日間滞在しただけなのに、帰る頃にはうんざりしていた。
成田の駐車場のすぐ脇にラーメン屋があったが、飛び込む人もいるだろうと思った。
日本の食事は、多分、世界一だと思う。
和食だけに目を向けても、寿司、天ぷら、トンカツ、そば、うどん他、専門店の種類と品数は、他に類を見ない。
のみならず、イタリア、フランスから中華、インド、韓国他、あらゆる国々の珍しい料理屋も開店している。
そして、そこそこ商売になっている。
おまけに、どの店もクォリティが高い。
日本人は、世界一口のおごった国民だ。

日本食は最近、世界的に大人気だが、経営者はたいてい現地の人々で、日本食と謳っていてその内実はへんてこな料理であることが多い。
日本食にすると客単価も上げられるらしいので、現地の人の口に合えば良い商売なんだそうだ。
翻って中華料理は、どの国でも中国人が経営していて安くてまあまあ美味しい。
戦場カメラマンが話していたが、戦場に最初に出店が出ると決まって、中国人の経営する中華屋なんだそうだ。最前線まで出前してくれるとか。

確かに、どの国に行っても中国の人々がいる。
サンフランシスコの日本人町は、店の看板が次第に韓国のハングルに変わってきていて、日系の人々はちょっと淋しそうだった。
つまり、「海外で稼ぐぞ」という気概を持つ日本人は相対的に少ないということなのだ。

美術の先生によると、日本とイギリスは、全ての文明、文化の最後のエッセンスを溜めている国なんだそうだ。
世界地図を見ると、日本国はユーラシア大陸の最後の端で、こぼれ落ちるエッセンスを受け取る形に見える。
その世界地図を天地逆さまにして大英帝国を見ると、ユーラシア大陸の最西端側で、位置が日本と相似であることが分かる。
大英帝国は、世界中の美術品や発掘品、植物なんかを略奪収集していた。そしてそれらを威張って展示している。
日本は、物というよりも、文明文化のエッセンスを頂戴して、自分たちの美意識に合うまでに洗練させ、他の諸国の人々が到達不可能な地点まで深めて遊んで澄ましている。
驚くのは、「これが普通でしょ」と誰もが信じて疑わない点だ。
それ、ものすごく特殊なんですよ。

料理もしかりで、創作とかいう流行に左右されないほど、歴史の中で洗練され尽くした型を持つ。出汁というものがそもそも独特だ。
イタリア料理の素材や、フランス料理のバラエティも素晴らしいが、主食をご飯、パン、麺類と多様に持ち、あらゆる料理の良いとこ取りを日常的に継続している国は他にない。
毎日、素材や調味料や料理法、食器の使い方に至るまでの情報を細かく集め、家庭の主婦ですら日々異なった料理を供する国など、世界中のどこにも存在しないのだ。
その多様さと、質の高さは、異常かも知れない。

日本人は、総じて「オタク」的だと思う。
多くの事柄に関して、知識を集め、取り組み、深め、極めて楽しむ。
料理にもその体質が生きていて、作る側は必死、食べる側もどんどん口がおごるので、相乗的にエスカレートしている。
ただし、エスカレートしすぎて下品の領域に入り込んでしまうと、客のセンサーに触れて失敗する。蘊蓄を傾ける気も、スノップを気取る気もない人々ですら、そこいらの感性は高級なのだ。

海外に出ると、そういう日本の特殊性が改めて確認される。
だから、海外で日本食レストランを出せば、ほとんどの人が成功できるだろうと思う。
失敗するのは、つけ込む悪人にしてやられてしまうからだろう。
そんな苦労をするくらいなら、日本で良い食材で、楽な商売をするのが得策だ。

つまり、世界地図に従って、ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸のお金持ちたちが、うっとり感を味わうために日本に大挙してやって来るという設計図を描くべきなのだ。
美しい日本家屋と庭園とあらゆる料理、そして、願わくばその端っこで、拙いながら音楽も提供させて頂けたらと思うのである。


アメリカの人々

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昨日のブログを見たら、トニー・ベネットがサニー・ベネットになっていました。
よりによってとんでもない所をミスっております。
何度か見返しているのですがねぇ。
すいません、訂正致しました。

さて、帰国してからもどうしても気になるのがやはりホームレス問題。
ホームレスとおもらいさん問題と言っても良い。
若い人でも、「お金を恵んで頂戴」と書いたダンボールを掲げ、カップを持って街角に立つ。
交差点で信号待ちしていると、「お金頂戴」と近づいて来る人もいる。
それは、日本人の目には絶えて久しい姿だ。
昨日も書いたように、その中にアジア系の人々は全くいない。

ヨーロッパでも同様に、アジア系のお乞食さんは珍しいらしい。
物乞いをするという行為について、抵抗感の量が異なるのだろうか。
あるいは、家族や民族内のセイフティネットの質が異なるとか。
落ちこぼさないように、抱え込んだり世話をするアジアの文化。

日本人は、多くの人々がほとんど収入差や生活レベルの差を気にしないで生きている。
私は大分貧乏をしたけれど、子どもを育てられないほどではなかった。
調べると、補助金や奨学金を願い出ることができ、希望の学校に進学させられた。
普通に働けば、子どもを学校に通わせ、毎日食事がとれて、寝る場所もある。
それがマジョリティだから、ネットカフェ難民とか、公園のビニールシートで生活する人々のことを普段は気にかけないでいられる。
たまに、その近くを通りかかって彼らの姿を目にしたり、テレビに取り上げられた時に知らされるくらいだ。
つまり、程度の差はあれ、先進国と呼ばれた国々では、最低限、人並みの暮らしをするために努力する土壌があるはずだ。
もっとも、現在では、ヨーロッパでもそれすら叶わない先進国が増えているようだが...。

アメリカは、世界一の国だから、何らかの決定的な原因に冒されなければ普通に生きられないはずがない。

最大の原因は、蔓延するドラッグだろう。
サンフランシスコの危険なストリートにたむろする人々は、ほとんどがドラッグ中毒だと言う。救命士が呼ばれて安アパートに踏み込むと、彼らはゴミとゴキブリの巣の中に倒れているそうだ。
子どもを養育できないほどに患った親から引き離されても、子どもたちもまた不遇の中で同じ道を辿ることが多い。
ひどいことには、生まれたときから中毒症状を起こしている「クラックベイビー」と呼ばれる赤ん坊もいる。

銃とドラッグが諸悪の根源だと、外からの目線では感じるけれど、そう簡単に根絶できない原因が多々あるのだろう。それのみで経済が循環する階層。それは、歴然とある格差の、底辺に沈む澱のような部分でやり取りされるものだ。
人は、乞食にも物を売る。
生活保護費すら巻き上げる。

聞くところによると、日本にも似たような事態があるそうだ。
金銭のやり取りの実相は、どの国でも階層に従って微妙に質を変える。
それら、まったくやるせない事実の、社会の表面への露出の仕方の違いもまた、文化と呼べるのかも知れないけれど。
サンフランシスコと言えば坂道に並ぶ美しい家々とケイブルカー。
サンフランシスコ湾にかかるゴールデンゲイト・ブリッジ。
そしてトニー・ベネットの名曲。

前回は大学生の頃だから、35年ぶりの訪問になる。
今回は、夫の仕事関係のツアーがあり、本番前後に自由時間がたくさんあるので便乗した。
公演はYosi'sという、日系の夫妻が経営するジャズ・クラブ。お洒落な日本食レストランも併設されている。オーナーのヨシエさんは、オークランドにも店を持ち、子ども向けのジャズワークも主催する行動派。日本のプレイヤーにも興味があるということで、我がレーベルの代表作を渡してきた。

サンフランシスコは、長くのんびりした観光地だったが、現在はスタンフォード大学やシリコンバレーを控えて、ビジネスやベンチャー企業のメッカとなっている。そのため、美しいアパートメントは軒並み家賃が高騰。ベッドルームとキッチンだけの部屋でも、25万円はするそう。よって、家を購入した方が減税措置で得になるよう計算されているとか。けれどそのローンの金利の乱高下の幅が日本とは桁違いで、経済のダイナミズムに対する意識の差に驚かされた。

街には、たくさんのホームレスが溢れていた。人種や階級をストリートによって棲み分けている感じだ。この通りには入らないで欲しいと現地の人に言われた道には、たくさんの黒人が所在なげに群れていた。それ以外の場所でも、交差点ごとにおもらいさんがたむろする。白人の乞食も多い。フィッシャーマンズワーフまで乗った路面電車で向かいに座っていた犬連れの白人女性ふたりは、瞳孔が開いていて、いかにもジャンキーな雰囲気を醸し出していたが、現地についてみるとおもらいさんに変身した。観光地に電車通勤している模様。

通りに寝ている人々やたむろっている人々の中には、明らかに戦争による傷痍を抱える人も多い。車椅子に乗っていたり、杖をつくたくさんの男性たち。
しかし、アジア系のホームレスや乞食がひとりも見当たらない。
人口75万人のうち、中国系や韓国系は20万人ほどいるらしいが、みんな良く働いているのだろうか。私たちの部屋のハウスキーバーは中国系の女性で、ほとんど英語が話せなかったけれど、明るい上機嫌な人だった。

サンフランシスコは気候が良く、教会の食事配布も充実しているのでホームレスにとってとても住みやすい場所なのだそうだ。確かに、暑すぎず寒すぎず、気前の良い観光客も多い。シリコンバレーでは毎日のように億万長者が生まれているし、信心深い人々も多そうだ。そう考えると行き詰まった人々が寄り集まってくるのも理解できる。

感心したのはストリートごとに高さや色合いをそろえた家々の美しい統率感。そして路面電車や観光バスをリサイクルでまかなっていること。路面電車は、イタリアや日本で使われていた古いものをそのまま再利用している。一台ずつ風合いが違っていてとても楽しい。二階がオープンになっている赤いバスはロンドンのバスの再利用らしく、車体にLONDONと書かれていた。
リサイクル、オーガニック、弱者救済と、市として徹底的にリベラル政策を貫いている信念が感じられた。

国家成立の過程で、奴隷や移民を労働者として使い倒した国は、そこから抜きん出て上昇する人々の稼ぎに支えられながら、落ちこぼれる人々を見捨てない努力もする。しかし、個人主義のためか、家族の紐帯や支え合いが弱いためか、努力以前に環境に負けて、その日を生き延びることにすら希望を持てない人々も多くいる。
アメリカ国家の成立過程そのものが性急で人工的だったために、避け難く負の遺産を抱え込んでいるということか。ただし、人々はそれが否定できない前提だとして、徹底したリアリズムを貫いているのだろう。

街を歩くにも警戒し、辛い人々を目の当たりにしながら成功を目指して生きる国。
危険を孕みながら、世界のリーダーであり続けようというリスクを捨てない、誇大妄想な責任感に溢れた国。
数日滞在するだけて疲れてしまう平和な市民のニッポンジンは、彼らから何を感じれば良いのだろうか。
これから何回か、滞在中に感じたことを書いて行きたいと思っている。
運動は得意じゃなかったけれど、一時テニスに熱中していた。
その間は、小学生の時のドッジボール以来くらい、久しぶりにスポーツが好きになった。
北海道にいたときは、スキーも大嫌いだったのが、東京で友達と団体で行ったらものすごく楽しかった。

楽しかったのは、だから、部活とか体育の授業じゃないことのようだ。
音楽も、学校で習う以外のことだと楽しいかもしれない。
せっかく楽しいことなのに、決まった時間に教室に通ったり、先生にため息をつかれたりすると、「お金払って時間を割いて、こんな嫌な思いはしたくないぞ」と感じちゃうはずだ。

それらのことを、できるだけ軽く、音楽に集中できる環境で教えたいと思って来た。
都合のつく時間帯に、無理のない回数で、楽しく習う。
内容も楽しい。
練習したくなる。
色々な音源やライブを聴きたくなる。

そんな人が増えると良いな、と願って続けて来た。
私自身、子どもの頃はヴァイオリンやピアノの練習が嫌いだった。
先生が恐かったし、楽しめなかった。
それが、自分の好きな音楽だと、どれほど時間を使ってもまだやりたいのだ。
やはり、「好き」ということが何より大切。
好きで演奏している、または練習時間が至福の時だ、というのが望ましい。

自宅で細々始めたことが、今はスタジオを使えるようになり、関連の本も色々出せた。
で、またここから広げて行くことを考え始めている。
ちょっと張り切ってます、私。
これからは、老人まで含めて、多くの人がITを利用するようになる。
もう、これは抵抗できない。

あまりに時代の進み方が早くて、アップアツプしてしまう。
でも、ちょっと考えた。
どの世代の人々にも得意なことはある。
その世代だからこそ、うまく考えたりこなしたり発想できることがある。
だから、世代ごとに得意なことを出し合って、それをコーディネイトして行けば良いのではないだろうか。

ということは、重要なのはコーディネイトのセンスかな。

何世代にも渡って、得たものを大切に、蓄積しつつ残しつつ伝える。
それが、段々になったゼリーみたいに美しい形になれば良いな。

ライブやった

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時々、人様の前で歌う機会はあれど、リーダーライブとなるとなかなか大変。
チャレンジするし、色々考える。
今回は、今までに無く頭に身体がついて行かない感じがして、ちょっと焦った。
もっとフィジカルを使っておかなくてはならなかったかな。
そう思う反面、内面が先行している時期とも考えられる。

演奏活動をしていると、イメージが成長するときと、それに技術が追いつく時期とがあり、両者のバランスが絶妙という時期はわりと少ない。
フィジカルの発散が先行してしまうと、自己満足的な独りよがりの演奏になりがちだ。
イメージが先行すると、「もっと良いはずだが」とやや反省を含んだ気分になりやすい。

こういう時期は、歌う機会を増やす方が良いだろうな。
練習とリハーサルかな。

ライブの前は

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今日はこれからライブなのです。
ライブの前の時間は、微妙だ。
夜の8時から始まるので、その直前のリハーサルまで1日ボーッとしている。
ライブの日は、どうしてだか、ことさら、頭がボーッとする。
ある種の緊張かも知れない。
けれど、すっきりさわやかで頭が冴えている時より、だるい感じで億劫みたい日の方が、本番では集中できたりする。
来る労働に備えて、神経が力を溜めているのかも知れない。

ライブの日は、夕方早くにご飯を食べてしまい、それから少しウォームアップする。
今更だけれど、選曲を再考する。
直前になると必ず、急に思い立って歌いたくなる曲があるのだ。
そして、テンポやキーのバランスを検討する。

ライブの前は、いつも何となく不安だ。
凄く楽しみでもあり、どこかしら心配でもあり。

自分の力については、どんなに経験を積んでも心配だけが嵩じる。
いわゆる、不測の事態。ど忘れやテンポ違いなどもあるし。
それで、時々ステージの悪夢を観る。
まずは、仕事に遅れる、衣装がない、楽譜がない、始まったら知らない曲である、訳の分からない要求をされる、など...。
子どもの頃、時々、学校に遅刻する夢や忘れ物をする夢を見た。
仕事に関しては、そこまで怖しくはないけれど、感じは似ている。

ところで、昨日から、爆弾低気圧が日本を覆っていて、ライブができるか心配だった。
できても、お客様の足が心配だった。
けれど、御陰さまで、午後から大分回復。
何とか本日もつつがなく臨めそうです。
今日は、ベタな曲も歌おうかと思っています。

では、行って参ります。
スタジオと事務所があるのは、西武新宿線の田無駅。
一日の乗降客数、75,000人というから、なかなか賑やかな場所である。
駅前には、ありとあらゆるチェーン店があるし、近頃では飲食店も増えて来た。

しかし、いざという時、ゆっくり行きたいお店が無い。
たまには、事務所から場所を変えて、美味しいコーヒー飲みながら読書したり、書き物したりしてみたいが、そういう場所が無い。
趣味の良い音楽がかかる、居心地の良い店が欲しい。
カフェとまではいわないから、すっきりした静かな店、できないかなぁ。

店だけではなく、何となく文化的な場所が少ないのだ。
若者がいないからか。
そりゃ昼間はみんな都内に出ているだろう。
けれど、新宿からわずか20分。
探ってみるとミュージシャンとか作家とか絵描きとか、役者やカメラマンなんという、自由業で家が職場みたいな人々も多く住んでいるのだよ。
そういった人々はしかし、地域的な集まりには絶対と言って良いほど顔を出さない。
なぜか?

理由はちょっと分かる気もするが、できれば近場で楽しく語らう場所欲しいよね。
一応、私はスタジオで再びジャム・セッションを受け持つつもりだけれど、その他にも、事務所を開放して読書会でもやろうかな。他にも音楽史講座とか、音楽理論講座とか。
集って切磋琢磨できる場所、作りたいな。

と、春らしい今日は、久しぶりに新たな何かを始めたい気がしている。
ご賛同下さる方、ご連絡を待つ。


過信厳禁かも!?

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夕べ、のんびりと小説でも読むべぇ、という気分になったので、自宅の本箱を漁り、奥の方に村上春樹著「東京奇譚」を発見して布団に入り、読み始めた。
かつて読んだものだからかなり覚えているだろうし、途中でつまらなくなって眠くなったら寝ちゃお、とか思いながら読み進む。
すると驚いたことに「あれ?これ読んだことあるの?ほんとに?」。
何と、全くと言って良いほど覚えていない。
5編ある短編のうち、かすかにシチュエーションに覚えがあるのが1編のみ。それも、ほとんどが記憶違い。

だんだん、どれほど覚えていないか、という方に興味が移り、我ながら全く初めてのものを読んでいる感じに感心しながら読了してしまった。

驚いた。
若い頃には、一度読んだ後、こんなに忘れているものなど無かった気がする。
だがしかし、こんなに忘れるのであれば、再読でも楽しめて、かなり本代が節約できるな、と無粋なことを考えたりした。

若い頃の記憶力は凄まじく、英語の歌でもするすると覚えたし、昔覚えたものは未だに忘れない。最近覚えた曲は、しばらく歌わないでいると忘れる。
年齢が行ってからの記憶は、定着し難いのだな。

そうか、そうだったのか。
この頃、余り腹が立たないと思っていたら、嫌なことも忘れているのか。
怒りも持続しないのか。
何となく、平板な心理状態に、変だなとは思っていたが、それきっと忘れているんだ。

さて、それら、私に忘れられたものってのは、どこに失せているのだろうか。
頭の中に「ブラックホール」みたいのがあって、そこにどんどこ吸い込まれているのだろうか。反転して出て来たら大変なことになるな。死んでも出ないで欲しいな。

とにかく、「私は記憶力が良くて、色々なことを覚えています」と過信するのは今日から止めよう。覚えていることをひけらかすのも止めよう。だって、その記憶も間違っているかも知れず。

高齢者の仲間入りをするというのは、こういうことなのだろうか。
比較的ショックはなく、逆に微笑ましい感じである。
他人ごとすぎる?

耳が肥え過ぎ?

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レコーディングを仕事にしていると、どんどん耳が良くなってしまう。
少しのピッチの狂いやタイムのずれを察知する。
そしてその事実を、Pro Toolsの画面で視覚的に確認してしまうので、相乗効果でどんどん耳が厳密になってしまう。

それで、You Tubeなどをのぞくと、精度のひどい演奏が目についてぎょっとしてしまうのである。もちろん、CD製品になっている物は、環境の整ったスタジオでの演奏の中から、最も良いテイクを選び、それをまた可能な限り良いバランスにミックスしているし、時には修正もするので、ライブ演奏とは較べるべくもないのだが、それにしても、「私たちのライブでーす、聴いて下さーい」みたいなお誘いに乗って開いてみると、たいていびっくりするのである。

「あ、これでライブ活動しているんだ...」という、ある意味脱力感。
何でもありなのか、しかしそういう物を観て聴いて、「あら、適当で良いんだわ」と安心したりするのも莫迦のようだし...。

知り合いには、私と一緒にライブを聴き歩いているうちに耳が肥えすぎて、何でも気軽に聴けていた昔が懐かしいとのたまう方もいる。最近は、「下手だ」と思うと腹が立ってくるようになったそうだ。
うーむ、確かに。
良く、「米とお茶は良い物を口にすると程度が落とせなくなる」と言うが、音楽もそういうものなのかも知れない。

どうしても耳が良くないと仕事にならない。
だがしかし、耳が良いと変なものを聴くたびに疲れ切ってしまう。
ままならんな。

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