kyokotada: 2013年5月アーカイブ

ライブを聴いて感動するのは、一瞬で持ってかれるような演奏。
あ、こんなテンション、アイディアがこの世にあったのだ、と再認識する、思い出す時。
そのような演奏は、たくさんのライブをこなし、切羽詰まった日々の中で養われる。
技術ももちろんだけれど、一瞬でテンションを上げる体質になる。

プレイヤーは、だから夜なかなか眠れない。
ライブが終わってから、家に帰り風呂につかっても音が頭の中を渦巻く。
興奮状態のまま眠れるまでじっとしている。
少し眠るけれど、浅い。

眠れない間、絵を描く人もいる。
文章を書く人もいる。
料理をする人もいる。

歌手は、歌詞を諳んじているので集中が半端ない。
さらになかなか緩まない。
頭がキンキンする。
大きいステージを日々こなす大歌手が薬物に走るのが良く分かる。
今日眠らないと、明日、声が出ないかも知れない。
その恐怖。

毎回、一瞬でワンステージ分のドーパミンがどばっと出て、それが消費され尽くさない間にライブが終わり、余った脳内物質はなかなか消えない。
疲れているけれど、休まらない。
脳内麻薬の量は、程よく調整されはしない。
引き換えに、ステージは素晴らしいものになる。
そして、だんだん身体が参る。

そのために身体を壊す仲間を見ている。
脳内麻薬の出方は、自分ではどうにもならないので、じっと我慢するしかない。
天才って呼ばれる人たちは、それと毎日闘っている。

セッションにて

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スタジオを立ち上げてから、しばらくの間やっていた地元向けセッション。
諸事情により3年ほど担当を外れていた。
セッションを主催するのはなかなか大変。
ブッキング、告知、ミュージシャンの選定、集客、司会。
参加頂く皆様に均等に楽しんで頂かないと、という配慮が一番心を砕く点。

終わり頃にはヘトヘトになる。
昨日再会した久々のセッションは、参加した皆さん素晴らしい演奏でほっと一安心。
でも、その後がいけない。
自分の歌が最悪。
夜中に自己嫌悪で泣いた(ちょっと嘘)。

司会進行をしていると、どうやらエネルギーが溜まるらしい。
うまく行っても、ハラハラしても、親心みたいな気持ちが心の中に一杯堆積して、自分の歌になった時に吹き出してしまう。
プロの演奏を聴いているときは人ごとなのだが、アマチュアの皆さんの演奏には凄く応援する気持ちがわく。うまく行ってくれー、と願う。
それが積もり積もって莫大な「愛の心」に育ってしまうようだ。
歌い出すと一挙に放出。
テンションバカ上がり。

次のセッションは冷静なうちに歌わしてもらおう。
最後の方だと、また叫んでしまいそうだ。
困ったものだ。

心は察知する

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幼い頃から親に急かされていて、それが習い症になっていた。
常に何かを一生懸命していないと、あるいは合理的に進めていなくてはいけないと思い込んでしまった。だから、普通の心持ちというのが、つい最近まで理解できなかった。
リラックスという言葉の意味が分からなかったの。

現在はおそらく、普通の心持ちだと思う。
今日やるべきことをこなせば、それで良しとする。
過去には、およそできそうにない量の行動や考えをしようとしていた。

心は本当に不思議なものだ。
心のエネルギーというものを想定して、経済論的に捉える方法もある。
怒りや淋しさが心に溜まりすぎると、何らかの方法で発散される。
それが犯罪やトンデモ行動となったりする、というような。

そういう考え方を採れば、私の場合は、何かを察知すると、それが別の回路を通って出てきたりするような気がしている。
一昨年、大好きだったベーシストの是安君が急逝した。
その前の、共演最後のライブの時、なぜだか新曲がいっぱいやりたくなって、初めて歌うような馴れない曲ばかりやってしまった。
ライブ全体の内容は、メンバーに助けられたと思うが、私は一体何をこんなに「焦って」いるのか、と我ながら反省した。
その時には気づかなかったが、今思うと私は、是安君に対して焦っていたのかも知れない。

それは秋のことで、同じ年の春の震災の日は、午前11時に突然わーっと泣いた。
何の理由も無く、突然奈落に落ちたように辛くなって、どっと泣いた。
泣いてから不審な気分になった。
何が起こったのか?

その数日前から柄にも無くツィツターを始めていた。
お陰で、都内に取り残された家族と連絡が取れた。
予感の有無とかは、偶然に近い、後付けの思い込みだとも思うのだが、理屈に合わない変な行動をとることは割とある。

それで、私は今、自分の心持ちを不思議な気分で眺めている。
レッスンやワークショップ、ライブなど、いざ始まればドライブがかかってどんどんグルーブする。楽しいし、やりがいもある。
でも、他の時間はひたすらぼんやりしている。
全然切迫しない。
少しの欲もない。
できればこのまま田舎に引っ越して、ぼーっと暮らしても良いくらいの長閑さ。

一体、私に何が起こっているのか。
心は何を察知しているのか。
ひょっとして、引退するのか?

人の数

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生まれた町は人口が2万人だった。
隣町の高校に進学するとそこは人口が20万人で、小さいデパートが3件と映画館もあった。
大学は東京に来て、そこは1千万人以上。
神奈川、埼玉、千葉の首都近県を合わせると3千万人いるそうだ。
2万人と3千万って、どうしても較べられない。
イメージが全然沸かない。

ビッグサイトの展示会などに行くと、ごく限られた業態の人々だけで黒山の人だかり。
人はいるんだなぁ。
それもかなりたくさん。

ライブハウスがどこも経営難だ。
なかなかお客さんが入らない。
毎日、とてもいい演奏をしていても、ちょっと淋しい。

私が若い頃、ジャズ喫茶はどこも満員だった。
少なくとも、私が歌っていた場所にはいつもたくさんのお客さんがいた。

ライブのお店が増えすぎたのかな。
そして、銀座や六本木から社用族が消えてしまった。
でも、それ以外にも色々な要因が積み重なっていると思う。

音楽で生きて行くことが、以前に較べてとても大変になっているらしい。
若い人たちは、才能があっても生活のために音楽を断念するのが普通だとか。
私たちの世代は、固定ギャラの営業仕事を頂けた時期があり、そのお陰でいくらかの余裕が生まれ、そして裕福だった親の世代にも支えてもらうことができた。
つまり、稀なことに、音楽をやろうとして、何とかなった世代なのだ。
それが今は、足場が危ういとか。

街にはとてもたくさんの人がいて、その中にはライブの音楽を聴いても良い、聴きたいと思っている人々もいるはずだ。
ぎゅうぎゅう詰めの電車の、車両に1人ずついたなら、それだけでもう少しお客さんは増えるのではないか。

人の数はあると思う。
日本の人々は、正しく音楽を好んでいると思う。
けれど、私たちミュージシャンは、彼らを思うように音楽の場に誘えない。
何とかしたいな、少しでも。

率直な物言い

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人は度々、「率直な人」を好きになる。
自分の心の中にある、言いたくても言えない本音を、さらっと口にされると、とても気分が良くなるからだ。
そしてこう思う。
「自分のごとく、周囲を気にして言いたいことも言えない臆病者には、こういうリーダーが望ましいのだ」と。
やがて、一定の人気やら支持を集めて「率直」な人は首長になったりするのだ。
しかし、率直であるということと、思想的に肯定できることとは、全く別のことだ。
率直な人は、彼の人格全体を受け入れて頂いたと思うあまりに、何でも思った通りに発言してしまう。そして「馬脚を現した」と評され、バッシングを受けることとなる。

この数十年で、世界中でもっとも激変したのは「個人」についての考え方だ。
長い歴史の中では、人と動物の区別がない時代もあり、自分のテリトリーの外の人々を家畜のように奴隷化した時代もあった。
そして女性は、長いこと多くの場所で、出産だけをする存在に据え置くために、教育を受けることも自己主張することも許されないで生きてきた。

人種や性別で差別されてきた歴史は、差別される側の人々には良く理解できている問題だ。足を踏まれたら痛いから。
しかし、踏んでいる側の人は、注意されないと分からないらしい。
差別意識というものは、1人の中で、様々なジャンルに及ぶので、よっぽど注意しないと気づくことができない。
その意識がどこで培われるかと言えば、家庭であったり学校であったりと、ごく身近な大人からもたらされる情報に依る。それを自覚していればこそ人は自分を正すために読書したり、外側の世界の様々な知見の人に遭ったりするよう心がけるのではないか。

政治家になって、多くの人の支持を受けると、人格全体を支持されたと思ってしまうのだろうか。「考え方」についての詳細な検分が為されないまま、ぺらぺらと浅はかな判断を述べてしまう。それは、世間に出現した当初に人気を博した「率直な物言い」という方法に違いない。それは個人的には気分の良くなる行動である。言いたいことを言い募って喝采を博す。

失言というのは、公的な場でそのような洗練を欠いた「個人」が出てしまうことだ。個人に戻った時、人は様々な趣味思考、時には嗜癖とでも呼びたいような性向を持つものだ。それは、非難されるべきものではない。完璧に清潔で政治的に正しい人格などこの世に存在しないから。けれど、点検は必要だ。

率直な物言いをする人を見て溜飲が下がる人は、気づかないでいるかもしれないが、周囲と共同できるよう、自己点検怠りない面を持つ。それは、良識とか常識と言われるものだ。ただし、維持するのは自分にとってなかなかの負荷でもあり、誰かが代わりに本音を叫んでくれれば、一時的なカタルシスになる。テレビには、そのためのタレントがたくさんいる。毒舌タレントは、綱渡りのように、バッシングすれすれの線を渡る。

タレントは良いよ、と思う。お笑いの人々は本来のトリックスターだ。
けれど、政治家についてはどうなんだろう。
どれほど日本人の民意が高く、お手本になる事柄の多い国であったとしても、首を傾げたくなるような知性、理性の政治家を支持し続けている。
これ。海外からはどう見えているのかな。
イタリアやフランスなど、ラテン系の人々は、女好きを首長にする傾向があるけど...。

日本人は、「困った政治家でもしょうがないや」と思いながら「自分たちだけはちゃんとやろう」と決意しているようだという分析を読んだことがある。それはとても腑に落ちた。
なぜなら昔から、どうしようもない父ちゃんを「まあ、良いところあるから」とお目こぼしして、しっかり家庭を維持し子どもを教育したお母さんたちが、日本を作ってきたような気もするから。
5月19日、日曜日に、田無スタジオ・トライブで「Jazz Vo. Cafe」というイベントをやります。
なんと、16回目。
これは、スタンダードを題材に、ジャズ・ボーカルの方法を伝授するもの。
そもそものジャズの歴史から、ボーカルの変遷、楽曲の由来やジャンル。
演奏に適した楽譜の書き方、コードの意味。
ボイトレのための身体論、音声学。
リズム、ビート。
楽曲分析や旋律の解釈、コードチェンジ。
歌詞の捉え方、英語や日本語のディクション。
ステージング、選曲、アレンジ。

ちょっと思いついただけでも、バンドを後ろに控えて歌うためにはこれほどのことを考慮しなくてはならない。

そのための実践的な方法論をやっている。
そして実践で確認するために、次の週5/26に、レクチャー付きのセッションを開催する。

グループでワークショップ的にやると、自分の個性を良く掴むことができる。
人が10人いれば、それぞれ、得意不得意の範囲が異なる。
上に上げた事柄のいちいちで、それぞれそが得意分野と不得意分野を抱えている。
そのことが分かっただけで、どういう訳か納得が行く。
そして、進歩が著しい。

それが教える側も楽しくて、ずっと続いております。
歌に興味のある方はぜひおいで下さい。
ミュージャンの皆様が、八代亜紀さんのニューヨークジャズライブについて色々言っている。
ヘレン・メリルをゲストに迎えての様子が、テレビで放映されたらしい。
私は見ていないが、見た人の感想は「恥ずかしかった」である。
ひとつには、歌がジャズになっていないこと。
別のことでは、MCや佇まいが世界基準でないこと、らしい。
日本にいる時と同様に、「てへペロ」をやってしまったようだ。
ある世代の人々は、女性の価値基準ということを「可愛げ、どちらかと言えば無知、意味なく愛嬌が良い、偉ぶらない」などに置いている。
そういう国内向け「受け人格」を丸出しにしたらしい。
見ていないから想像でしかないが。

そして、ジャズ、である。
ミュージシャンならジャズは一朝一夕には歌えないでしょ、と分かっている。
リズムも英語も発声も、なぞる程度でジャズと言われてもねぇ、である。
ジャズは「楽曲のジャンルのこと」ではないから。
しばしば取り上げられる楽曲は「スタンダード」と呼ばれているだけで、米国ではポピュラーに於ける「クラシック」と呼んでいる。
当然、日々新しいものはいくらでも生まれており、いつもジャズという観念のクリエィションが試みられている。

しかし、ジャズ歌うのが流行っているのかもしれない。
とりあえずスタンタードで、自由にアレンジしたりフェイクしたりするのは楽しい。
カラオケじゃつまらない、と思う人たちにはとても良い。
だからと言って、プロの別ジャンルの歌手が軽くやっちゃいけないと思う。
数ヶ月の練習ではジャズはできない。
私はたまにしかライブをやらないけれど、それでも結構命懸けという気がしている。
時間がかかる、たくさん練習する、ピアノや理論のことも勉強する、英語も勉強する。
本当に歌うとなると、クラシックくらい大変なのだ。

専門的なことなので、一般にその内実をアピールできないのが辛い。
曲を覚えて歌うところから、楽曲として消化する過程、そして内面化するまで、その違いをアピールするのはなかなか大変。
そのアピールをやる人がいなかったから、お手軽に「ジャズ歌います」という人が注目されてしまったりするのだろう。
どうやったら伝えることができるのかな。
ジャズ音楽の自己アピール。
やらないとまずいな。
タイトルも緩くしてみました。
というのは、先日量販店に行ったらば、レジの眼鏡青年があまりにロボットみたいで、悲しくなった件。
「そんなに過剰適応しちゃって大丈夫?」
と思ったのだ。
日本の経営者は、社員研修とかが好きみたいだ。
お客様に不快感を与えないように、言葉遣いやお辞儀の仕方を教え込んだりする。
けれど、それにフィットしすぎて気持ち悪い店員が出現している。
本来は、仕事したかったらそんなことは自分で身につけてこい、と言うべき事柄だし、気持ちの良い接客とは、ロボットみたいであるよりも、フレンドリーな佇まいではないか。

日本人の仕事観は、人格とイコールすぎる。
たまたま、役割としてそこで必要なはたらきをしているだけである、という意識になれない。でも、移民の多い国などは、母国の政争で逃れた人なども居て、弁護士資格を持っているコンビニ店員なんていうのも一時的に仕方が無かったりする。動乱の地続きが本来であれば、または移民や亡命が当たり前であれば、その人の出自と今ここでやっている仕事はイコールでない場合もある。

サンフランシスコで食事に行ったレストランでは、店の中央にコンシェルジュ的な女性が居て、店内を見回しつつ電話で予約を受けたりしていた。見回しても彼女以外目につかないので注文しようとして呼ぶと、「自分はその係でない、あいつに言え」とどこからともなく現れた金髪長身の若者を指差す。注文して料理を待つ間、彼女は次々とやってくる店の厨房要員たちとハグしっぱなし。そんな暇があるなら客に親切にすれば良いのに。

やがて食事を終え、トイレに行くことにした。
そのレストランはホテルのダイニングだったので、通路を通ってホテル側に行き、フロントで場所を訊いた。するとホテルの男は、「お前はレストランの客か、ならレストランで訊いてこい」と言うではないか。「えーーーっ、不親切!」と度肝を抜かれつつ、レストランに戻って訊いた。

その後、会計。例の彼女を呼んでお金を渡そうとすると、またしても「自分はその係でない、あいつに渡せ」とくだんの金髪青年を呼び寄せた。

この徹底した、「自分の仕事以外は絶対に受けない」態度は、役割文化について勝手の違う日本国民にはチンプンカンプンだが、何らかの意味があるようにも思う。

さて、怖い社員研修のお陰ですっかり家畜化している日本のバイト系草食男子たち。君たちは、独立した男子である。もっと、自分を出しなさい。言われた通り、粛々と働くのも良いが、プラスして人柄を出しなさい。笑顔がデフォルトになっているファストフードの女子たちも、できるだけ自分らしい笑顔にしなさい。ヤンキーと思われても良いじゃないか。それでも誰も迷惑なんてしないのよ。

日本は、たかがアルバイトにしても、表情、言葉遣いなど、人格に関わる部分をいじりすぎませんか。
もっとハードルを低く考えて、事故が起きなければ良い、くらいのホスピタリティーにできない物でしょうか。店員は全てが笑顔で親切な人だけじゃない、となっても国は滅びない気がするぞ。そして、無愛想な人材でも働ける程度のサービスで良しとすれば、もっとニートが減るかも知れんぞ。上手くニコニコできないだけで世間を怖がって就業を諦めてる人、いるかも知れないでしょ?

ユーチューブがあると、何でも見放題だ。
私は音楽専門だけれど、曲名を入れると、たくさんのバージョンを見物できる。
色々な時代のアレンジ、歌い方、使われ方、何でも良く分かる。
しかし、良く分かるのは時代とかジャンルとかをある程度分かっているからだという気もする。もし、現在何の予備知識も無くいきなりユーチューブで見始めたら、色々誤解しそうな感じもする。
誰が有名なのか、誰が古い人なのかなども分からない。
下手すると、かけ離れた物を並列に見てしまったりするかも知れないな。

未来的には大量の音源サンプルが上がるのだろうから、選ぶのも大変だ。ものすごい大御所もアマチュアも、いつの時代のどこの人か、その違いがよく分からなくなって行くかも知れない。大丈夫なんだろうか。

でも、オープンソースというのはいいな。
色々な物を取っ替え引っ替え見られて、つまらなかったら中途で止めたり。
その時間の使い方は、昔ならできなかったことだ。

ただし、見る物がありすぎて、見てばっかりになってしまう。
うっかりすると、すぐに2時間くらい経ってしまう。
他に、本も読まなくてはならないし、テレビも見るし、ライブにも行くし、面白がっているうちに、自分のことをやっている暇がなくなる。

そう言えば、忙しそうなミュージシャンは、音楽物ではなくて、気晴らしのお笑い物を良く見ているようだ。これ以上音楽いらない、ということだろうか。

人の演奏ばかり見ていないで、自分のことをしよう。
毎日、計画的に勉強したり練習したり。
今のところ、まあまあいい感じではあるが、ややインプットオーヴアーかも。

時々、パソコンもテレビも無い場所で1週間くらい暮らさないとな、と思う。
海外に行っちゃうという手もあるが、山の中とかにこもって、他のことに目を開かせないと、なんか日々の刺激がひどくルーティンだ。

そこで、間に合わせにユーチューブで「森の中の雨の音」なんてのを流してみたりする。
すると「ここに居続けるだけではけない」と、心の中で何かが囁くのだ。

という訳で、5/12日曜日、いきなりライブやります。
田無のスタジオトライブ。
石井彰さんのピアノと金澤英明さんのベースです。
20:30から夜の更けるまで...。
う〜ん、楽しみ。
生きていて、今自分が何をやっているか良く分からない、という状態がベストだ。
最近は、戦略とかノウハウみたいなデタラメを信奉する傾向があるけれど、成功譚なんぞという物は全部後付けだからね。後からお話を組み立ててみてるだけだ。
何か面白い物が出て来る時って、当事者達は渦中に居すぎて「なんか分からんが面白い、興奮する」だけだ。

先日、創立時の吉祥寺サムタイムの出演者やスタッフを集めた同窓会企画が流れてきた。
みんなで声掛け合って集まるべ、ということだ。
ピアノの佐山雅弘が還暦なのでその祝いを兼ねているという。
そこで出た名前は、素晴らしく錚々たるメンバー。
名前の表記を間違えるとめんどくさいのでいちいち書かないが、結構凄い。

思い返すと懐かしい。
今となると大御所揃いだけれど、当時は何が何だか分からなくて、みんなただ懸命にライブ仕事をこなしていた。サムタイムは45分4ステージもあったのだよ。7時始まりの11時半終わり。
みんな学生か、卒業間もない頃だから、どんな演奏だったか心配。
終わると焼き肉食べに行ったり、話し込んだり、仲良しだった。
私は数年後から活動休止していたので分からないが、その後は音楽性の違いやら性格の違いやら色々あって散り散りばらばら。
中には敵対関係もあるかも。
だから集まるのは良いけど、険悪になったりしないのだろうかとちょい心配になった。
誰かが「もう、ちゃんぢいだからそんな元気無いよ」とも言うのだが、そこまで枯れてない気もする。
若い頃は流血の殴り合い事件もあったな。

それで私はカメラを持って行こうと思っている。
現場を押さえるのだ。
あの頃のごちゃごちゃ感が、みんな一家を成した後再会するとどうなるのか。
角が取れているのか。
それとも、偉くなりすぎてて最悪か。
気になる。

いずれにしても、若かったあの頃は、自分たちのしていることがその後どうなるのかなんて見通しも立たず、ただ気の合いそうな仲間とつるんで面白そうなことをしていただけだった。明日のことは全然分からないが、頑張る気だけはある、みたいな。
それは願っても無い時代だったと思える。そしてその後に、やっぱりみんな凄かったんだ、と再認識できるのは素晴らしい。

今再び、私の周囲は結構ごちゃごちゃしている。
でも、もっと混乱しても良いのかも知れない。
だから、進んでごちゃごちゃさせるね。


ステージフライトとは、舞台恐怖症、つまり「あがる」こと。
よく、生徒の皆さんから「人前で歌う時に上がらない方法を教えて下さい」と頼まれる。
これは、とても奥深いテーマだ。
クラシックの名だたる演奏者でも、あがりまくって、ステージの袖でマネージャーや奥さんにどやされないと、ステージに出られない人もいるらしいし。

今朝、連休明けの気持ちのいい午前を歩いていて、突然「疾病利得とあがり症」というフレーズが浮かんだ。
疾病利得というのは、「その症状のために患者が得する」ことを指す。
精神科や臨床心理の現場では、その症状を介して、患者さんがどんな得を手に入れているかを探る方法がある。
もちろん、得をしすぎて命が危ない場合もあるので、狡いとか、要領がいいといった解釈は通用しない。
どちらを取るにしても命がけ、という臨界地点での選択なので、それこそが病理であり、治療を要することなのである。
最も良く知られているのは、軽い物だと急性下痢。会社や学校に行こうとしても、お腹が下ってままならない。言うまでもなく出社拒否、登校拒否の正当化になる。
あるいは、拒食症。痩せた姿を美しいと思って自己評価を上げることができるが、健康を害する。

ステージフライトも、これらに似た原因を持つような気がする。
「あがっちゃって上手く歌えませんでした」
というのは、「下手です」と言うよりはプライドが傷つかない。
「風邪引いてました」
「寝不足でした」
「仕事が忙しくて、練習時間が無く...」
といくらでもエクスキューズはあるけれど、つまり、その後にまだ余白を作っておきたいという点では、「まだ、これが実力なんかじゃないわよ」という、自身を励ます手だてにはなる。

自分の経験を言えば、あがらなくなった時には、あがらない方が余程良い演奏ができて、しかも疲れない、ということを納得した感がある。
自然体からそれほど離れない身体の状態で、適度に集中する。
ライブをやるために多くの時間や労力を費やすのだから、自分の最良の力を出せるコンディションを作らないと、それこそ「損だ」と納得するのである。
それ以前は、実力以上のパフォーマンスをしたがっていたり、奇跡が起きるかも、と変な期待をしていたりした。
だから良く言う「自分に期待しない」態度は大切だ。

最近、アメリカンアイドルという番組を見た。
現在は、最終4人にまで絞られていて、全員が女性だが、それぞれに素晴らしい力量。
審査員のコメントと私自身の感想とが共通していると、嬉しくなる。
審査される4人は、少しでもあがったり、慌てたり、集中力を欠くと、すぐさま指摘が飛んで来る。選ぶ楽曲にまで注文がつく。
曰く「意味不明な歌詞の、へんてこりんな曲を選ぶな」とまで言われる。
つまり、ヒット曲なのに、専門家の間で評価の低い曲を選んだだけで音楽的なセンスを問われるのだ。
「へんてこりんな曲」を書いた人も番組を見ているかも知れないよな、などと変な心配をしてしまった。
けれど、そこまで厳しくて、圧倒的に強靭でないと成功できないよ、というメッセージは凄い。アメリカの歌手がみんな上手いのは、プロは上手くなくてはならない、という前提があるからなのだろう。
日本は...なぜこうなの?
その風潮に合わせることは容易いけれど、それじゃ残念だよなぁ。

下手な歌手を野放しにする日本のエンターティンメント界の疾病利得は何だろう?


我社は、日本のジャズのアルバムを製造販売している。
小さいレコード会社という訳。
しかし、レコード会社? という気もする。
ジャズ・レーベルと言う方がフィットする感じ。

「CDができるまで」にはこれだけの仕事がある。

ミュージシャンから、「こんなメンバーでこんなコンセプトで制作したい」
というお話が来る。
知っているユニットなら、時期だけ考える。
聴いたことの無いユニットは、ライブに数回出かけてどんな音楽かを聴く。
良いと思ったら、リリースに至る日程を出す。
メンバーのスケジュール合わせ。
流通会社に企画書や日程を出す。
レコーディングする。
ミックス、マスタリングをエンジニアと相談しながら、ミュージシャン立ち会いのもと完成させる。
配信手配。
JASRACなど著作権関係の手続き。
広告やフライヤーのテキスト、コピーを書く。
当社のデザイナーがジャケット案を作る。
ショップ営業用の白盤と当レーベルの新譜紹介ニュース制作、納品。
ジャケット印刷入稿とプレス出し。
完成品の送付先振り分け。倉庫やミュージシャンへ。
広告取材、メディア向けの資料送付。
レコ発ツアー用フライヤー制作。

で、一通り。

私の仕事は、企画と資金調達、そして音に関すること、テキスト関係。
他は、デザイナーがまとめて引き受けている。
普通のレコード会社だと、担当が細かく分かれていたり、外注したりすることをほとんど内部の2人でこなす。
あまりになんでもやっちゃうので、たいてい驚かれる。
でも、こうでないと果てしなくお金がかかるのよ。

さて、今年後半は、私たちの素晴らしいスキルを使って、よりミュージシャンの役に立つ仕事をしようと思っている。

CDを制作すると、かなりの経費がかかり、その経費分CDを売り切らなくてはならない。
これがなかなか大変。
ベテランミュージシャンで、全国にファンのいる人たちなら可能だが、若手には無理だ。
けれど、若いうちの音も録っておきたい。
そこで、CD1枚分の曲数とか、1曲の時間などを気にせずに録音して配信してみる。
録音作品を1曲ずつ蓄積しておいて、必要な時が来たらCD化する。
配信のみで良ければそのまま。

CDというひとつの商品の形を前提とすると、残しておきたくても録りきれない音楽がある。
大変前衛的な物や、未完成の物、野心的な組み合わせなど。
配信なら、これまで実現できなかった面白い録音を世に問うことができる。
それ、ぜひやってみたいのだ。




子どもの頃から歌が上手いと言われていて、本人その気になって隙あらば弾き語っていた。
まだ、カラオケなんて無かったので、自己流のギターや下手なピアノで。

高校では兄のお友達に拉致されて混声合唱団に。
お陰で、出なかった高い声も獲得。
高校のクラスの後ろの席にいたピアノのうまい男子が、ジャズのアルバムを持参してきて、一緒にやりたいというので、文化祭で丸コピーして歌った。
それでずいぶん誉められたので、大学でジャズ研に入り、そこで多数の才能に出会い、すぐにジャズクラブで歌い出し、色々なバンドを掛け持ちして忙しく、図々しくも先生までやった。忙しすぎた20代前半。
けれど、何となく「これで良い」と確信できなかった。
それは、音楽に対する気持ちというよりも、私の人生に関することで、私にはどうしても、全く警戒無く心を通わせ合える家族が必要なようだった。
それで歌を止めて子どもを育てた。
大変だったけれど、自分にとっては正しい選択だったと思う。

20年、音楽を休んでからまた歌い始めた。
本も書き、先生もやって、今ではレーベルも運営している。
やっぱり私には音楽だったのかな。

ジャズボーカルというジャンルがあり、そのためのお店がたくさんある。
けれど、私の足は、なかなかそちらには向かない。
何より、お店に出るために、集客するのが億劫だ。
歌を始めた頃は、どこで歌おうが、お店に付いているお客さんがたくさんいて、歌手やバンドが集客するなんて考えたこともなかった。
今は、出演者が責任を持って集客しなくてはならない。

そこまでして人前で歌いたいかというと、そうでもないみたいなのだ。
その辺は、自分でも決定できない感じはするが。
大ステージで、歓声に包まれて「イェーイ」とかは、全くもって願ってもいない。
だって、そんな体力気力の要るステージをこなすには、ブランクなんて作っちゃいけなかったのだし。

音楽の性質上、数人のお客さんの時でも、とても充実できる。
本当に好きで、聴き入ってくれる人たちだと、こちらも集中してとても良い演奏になる。
付き合いで仕方なく来て、演奏中に話し込んだりされると、ちょっと困る。
だから、本当に聴きたいと思って来てくれる人が増えていれると良いな、と虫のいいことを考える。

毎日、たくさんの知り合いに、告知やお誘いのメールを出したり、電話をしたり。
知り合いを増やすために付き合いを広げたり。
それは私にはできないな。
その時間があるのなら、私はずっと音楽を勉強したり、本を読んだり、ピアノを弾いたりしていたいのだ。
1人でいくらでも遊んでいられる。
つまり、相当なオタクなんだよね。

そんな風にしていても、いつの間にやら歌はいい感じに育って来ている。
だから、腰を上げて、一ヶ月に一度はライブをするようにと考えている。
それくらいが私の性質には、ちょうどいいみたい。
歌が好きと、ライブをするのとは、私の中ではあんまりイコールじゃないみたい。
無理せずとも歌は、逃げて行かないのだよ。
日本の料理について、昨日もっと深く考察しようとして時間切れ。
今日はその続き。

料理や音楽や絵画は、多分1人の天才を持つか否かでその後の命運が決まる、と思ってみた。
長く、音楽の解説を書いていて、多くの歴史的資料を読むにつけ、その劇的な進展は「たった1人の天才に負う」という仮説が立ち上がって来る。

クラシック音楽で言えば、オペラはモンテヴェルディだ。その後にワーグナー。
オペラ以外ではバッハとモーツァルト。私にとっては、ベートーヴェンよりモーツァルトだ。
ジャズは、マイルスとデューク・エリントン、ビリー・ホリディ。

選択の基準は、パラダイムを変えその後の伸び代を造り出した人、ということになる。
その後に際限なく続くアレンジは、その人1人がいたからこそ、ということになる。

現在、国や地域によって料理の美味い不味いがあるが、それを成し遂げたのも名も知れぬ天才達だったに違いない。
例えば、鰹節を完成させた人。
昆布を発見した人。
千利休は食器の概念を変えたかも知れない。

「見立て」という考え方は、三次元の中に時間の感覚も含む。
あるいは、見えない部分、着物の裏地などにストーリー仕立ての模様を隠し持つなど、多分に心理的な遊び。
建前(表地)と本音(裏地)は、テクスト(言葉)とコンテクスト(文脈)とが平行して存在することを暗喩する。

そういうことを思いつくのは、おそらく1人の天才なのだ。
その国に、その地域に、1人の天才がたまたまのように出現すると、その地には豊かな発想の連鎖が恵まれる。

イギリスには、長い間これと言ったクラシック音楽の作曲家が存在しなかった。
同様に、料理の天才も出現しなかったのだろう。
それはどこまで行ってもたまたまで、その時代にその場所で、生まれ出た天才が何を為そうとしたかによる。

総じて、イギリス起源の国は料理が不味い。
例えばアメリカ。まずい料理と引き換えに、彼らが何を為したかと言えば、ITだろう。
IBMを生み、ジョブスやビル・ゲイツに至って、当初は軍事目的だったであろうが、とにかく彼らが成功させたシステムは、世界の情報流通を変えたのだ。人類の有り様が変わるほどに。
とりわけ、ジョブスの考えた持ち運びできる大容量のデバイスは、すんごい、と思う。

国や民族の色合いは、自然環境に左右される差異に次いで、たまたま生まれた天才がどの分野で何をやらかしたのか、によって決められて行くように思える。

それらたまたまの積み重ねの上で楽しいとこ取りをしつつ、ぼーっと生きる私。
ありがとう、みんな。


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