日記: 2012年8月アーカイブ

仕事の中には、段取りの良いものと段取りの悪いものとがある。
これまで、色々な相棒と仕事をしてきたが、唸るような素晴らしい仕事人もいれば、どーなのと言いたい方もおり、仕事のやり方、内容は様々。
イベントなどでも同様に、段取りして粛々と仕事を進める方と、脇に居てわーわーと不平不満を述べているだけの方とがいる。
もちろん、段取りがクリアに見えて、問題なく仕事を進めていただくのが楽ではあるが、段取りが悪いことによって、右往左往した挙げ句、段取りが良いときには出会わなかっただろうと思われる人に出会ったりもする。
つまり、バグみたいなものがあるお陰で、計算外の出会いや思いつきが生まれるのだ。

仕事であるからには、締め切りや納期が存在するのだから、ハラハラ感は仕方がないが、紆余曲折の間に拾うあれこれは有り難い。

段取りとは、「一応このスケジュールで行きましょう、については、これとこの要素を使って」という発想なので、既知のものしかない。
既知のものしかないということは、手持ちカードで終わり、ということ。
それでは追っつかないときに初めて、未知の領域や人脈に手を伸ばすことになる。
それが怪我の功名みたいに、思いがけず面白くなったりする。

電話したりメールしたり、「初めまして突然...」と口火を切るときにはたいてい緊張していて、ケンホロを覚悟してみたりするのだが、意外にみんな親切で、時には、予想以上に乗ってきてくださって「おおっ、ドライブかかってきたなぁ」と感動することすらある。

私のレーベルは、当初プライベートなものを趣味的に作る予定だった。それが、色々な友だちがアクセスしてくれ、私には思いつかないたくさんのアイディアを出してくれ、さらに様々なスタッフを連れてきてくれて、今のように充実したラインナップになっている。

私は半分ボーッとしている。
ある程度までしか関知しない。
そして、でき上がるのを楽しみにし、売れ行きを楽しみにしている。
本音、全然儲からないが、損はしていない。
これ、程良いバランスではないだろうか。
最近、東京のエグゼクティブ階層と地方の進学校から受験してきた大学生との間で、大いなるカルチャーギャップが生じており、地方の学生がショックで鬱になったりするという記事を見た。
たとえば、東京にいる帰国子女とかエグゼクティブ家庭の子弟は、幼少の頃から、高級な文化に触れまくっているし、バイリンガルだったりもっと他の外国語が話せたりするのに比して、地方の進学校出身は、教科書や参考書勉強しかしていないので、内包する文化がまるで違うということらしい。
「何を話しているのか理解できなくて、大変なショックを受けました」
という地方出身の東大新入生女子のコメントなんかが紹介されている。
で、私は思う。
それは当たり前だし、昔からあったことだ、と。
それで落ち込む学生に言って上げたい。
私の頃は、地方格差は今よりもっとすごかった。
中学になるまで、信号のない田舎町に育った私。
学校にSLで通っていた私。
今、カルチャーショックという在って無きがごとき事態にぶち当たった学生たちに言いってあげたい。
「人生は長くて、今からが始まりだよ」と。
私の田舎には、信号もなかった上に、会社なんて無かった。
サラリーマンなんていなかった。
ほとんどが、農家か漁師か商店で、勤め人といえば役場か学校の先生くらい。
あと、水産試験場と農林試験場とか。
金持ちは医者ばっかりで、あとは何も無し。

それでも都会の文化は、それぞれが勝手に、テレビやラジオや雑誌から吸収していた。
ニッポン放送や文化放送はほとんど聞こえないので、トランジスタラジオを持って家の中を徘徊し、電波の良い場所を探したものだ。
そんな環境からいきなり東京の大学に来て、先生に「こんなことも知らないんですか」と驚かれて、逆に私が驚いた。
大学なんて、大学の先生なんて、日本全体からみたら希少な特殊な職種だべ。
それなのに、田舎の学生がものを知らないと驚くお前たちは、一体何を基準にモノをいってんだか。
と。まあ、今から思えばだが。
無学を驚かれたので、大学に来たからには勉強すべきかも知れないと一応は思いながら、音楽ばっかりしていたが。
その後、自分をちゃんとして上げたいと感じて、ずっと勉強している。
本は山のように読むし、臨床心理学の研究所にも行っているし、忘れそうになると翻訳のクラスも取るし、書くし、練習するし。
そして、気がついたら随分ちゃんと色々出来るようになっていた。

はじめの、モノ知らずな私という定義は、なかなか良いものだったとは思う。
しかし、現在、地方出身の若者が、都会の子女たちの話が理解できないからといって、落ち込むのはいかがなものかと思う。
コンテンポラリーダンスを観たことが無くたって、コンセプチュアルアートが何か解らなくたって、そんなものは、少し観て歩けば好きか嫌いかはっきりする。
そんなものより、生まれてから都会に出るまで見続けていた、身体で感じていた、田舎の自然や風景や人たちの方が、何倍も素晴らしいものなのだ。
文化の芽は、身体の中にある。
だから、出来上がったものを見て、良かったの悪かったの言うよりも、自分の身体の中に何があるのか、そしてその価値づけをしっかりできた方が上等なのだ。

私は、大学に入ってずっとポカーンとしていた。
何だかさっぱり解らなかったのだ。
でも、その解らなさってのは、自分が常連じゃない店に入ったら、みんなが内輪の話で盛り上がっていて、その内容がさっぱり解らないに近い解らなさなのであって、引きで見てみれば、学問の世界なんてそんなものだ。
専門分野を全世界だと仮定している専門化が、掘り進めている穴なんだから。

カルチャーショックとは、常識が異なる所に入って感じる疎外感でしかない。
そしてその疎外感は、中にいる人々が浸かっているぬるま湯に入りたいか否かという試金石なんだね。
そんな湯はまっぴらごめんだ、と感じると、ショックは受けたにしても、せっかくでしたが結構でございますと、お断りするためのひとつの機会だったことになる。
つまり、劣等コンプレックスとは別物だと、はっきり区別しなくてはならない案件だ。

学者の人たちは、自分の世界での優劣を何よりも大切にしなくてはならないのだが、外部の人たちにとっては、別にそれはそれだから。
学者的価値判断によれば、ハイ・カルチャーは必要なもので、ハイ・カルチャー大切連盟みたいなものもあるらしいと理解できるが、やっぱりそこも、それはそれだ。

誰にとっても目線を変えるのは面倒なのかも知れない。
手元をしっかり観ていないと、周囲と話は合わなくなるのだが、そこばかり観ていると、次には外側が理解できなくなる。
遠近両用で行かないと、それもマメに。

それをやり続けるには、ただ、体力、気力が要るのみなのだ。
とにかく、体力が大事。

腰痛

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3日続けてレッスンやったら腰痛になった。
スタジオが地下にあるため、クーラーを28度にしていても底冷えする。
生徒は歌いながら汗かいている程度。
けれども、ピアノ椅子に座って、4時間くらいぶっ続けで弾きながらレッスンすると、知らないうちに色々な部分がひえひえに。
昨日の夕方から、左の臀部上部ウエスト部分と右足の膝が痛い。
右足ペダルで、左に負担がかかったと考えれば分かりやすいが、以前ならレッスン6時間続けて休憩してさらに2時間とかやっていた日々もあり、振り返るとよくそんな無茶ができていたものだと感心する。

しかし、4時間が今の私にはヘヴィだとすると、どうしようか。
3時間限定かな。
そして、休日を減らして均すか。
しかしそもそも減らせるほどに休日と呼べる日もない。

2時間・休憩・2時間のペースかな。
年を取ると色々算段が必要になる。
汗を一杯かいて、夏向きの身体に、と頑張った去年、年末に血圧が最高潮になった。
何が良いのやら分からない。
正解は多分、自分の身体に訊け、だと思う。
怠いときは寝る。
元気なときは動く。
調子の良いときは、知らないうちに活動しているようだし。

腰痛にも感謝せねば。
頭だけいつもキンキンな私。
ちゃんと休まないとね。

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