kyokotada: 2012年11月アーカイブ

レーベルをやっていると、慢性的に資金不足である。
本来は、資本金というものを外部からも調達するべきなのだが、私は自分の貯金でやっている。
なぜかというと、スポンサーを持つのが嫌いだから。
とくに、CD制作なんかは、私の好きな音を作りたいので、お金を出して頂くわけにはいかない。お金を出すと口も手も出したくなるのが人情だ。まして、ジャズのアルバムはミュージシャンの独りよがり大サーカスでないと意味がない。
現在となれば古典としてもてはやされる名盤も、作った当初は絶対に「勝手にこんなもん作りやがって、売れるわけねーだろ!!」と罵倒されていたかも知れず。
そのくらい、とんがってないと後世のためにはならない。

まあ、これは前ぶりで本当は今回の選挙とメディアの関係について、日本の現在を憂えたのが書く理由。
テレビなどが、どの政党の肩も持たず、ひたすら中立の身振りを繰り返すのは、スポンサーがいるためである。
スポンサーの地雷はどこに隠れているか知れない。
クライアント社長と、とある政党の実力者が同窓だとか同郷だとか飲み友達だとか親戚だとか。
刺激的な番組作ろうとして踏むかも知れない地雷は、すでに身動きとれないほど緻密に埋まってしまっているのだ。
私も、雑誌を作っていた時に、色校正段階とかになってから、「この部分まずいです、広告主さんからクレームです」なんということがしばしばあったな。
宣伝に金出すと、不快なことされると「降りるよ」と脅かしたくなるようなのだ。
人情だろうか。
嫌がらせ、権力振り回し、自意識過剰、などだろうか。

それで、選挙だが、家族では「あそことあそこは大政翼賛的で危ねーな」
とか話しているが、そういう政党が事前調査で人気だったりする。
「いったい誰が支持してんのさ」
と首を傾げるが、多分、ネットもツィッターも関係ないお年寄りだったりするんだろーな、ということになる。
そうなのかな。
ネトウヨというのもいるからな。
いったい誰が大政翼賛、右傾化、ファッショ、独善などを喜ばしいことと感じているのだろうか。探したい。

それって危なくないですか、ということも表明できないメディアって、本来の役割は何なのだろう。危機を感じさせないようにおちゃらけることか。
真剣に考えることを、揚げ足とったり馬鹿にすることか。
良くないよね。
何とかしないと。
普通の人が歴史を振り返って、じっくり現在を考えられるように、恣意的でも、強引でも、分かってる人たちが、もっと前に出ないと、ほんとに危ないよね。
時代区分的な文化に対する命名は大体が後世に行われるもので、ルネサンスにせよバロックにせよ、当時の人たちは自分たちのしていることがそういう分類になるとは知らなかった。

はっきりとした時代背景や経済革命などに支えられた革新的な文化が生まれ育つと、後世ではそれの特徴を名指すことにするのである。歴史を見ると、名付けられるほどの時代的地域的文化は、発想され発展し、爛熟して終わる、ということが見える。
はじめには革新的だったアイディアが、過剰な供給に突っ走り、継続のための工夫とされる差別化に狂奔し、しかし刀折れ矢尽き、陳腐化して廃れるということ。

今朝、テレビのワイドショーをつけながら弁当制作をしていて、今の地上波テレビって陳腐化して廃れる時点だな、と感じた次第。

まず、タレントの声が変。
アニメ吹き替え声というのか、耳が遠い人にも良く聞こえるような喉声。
そして話題が変。
料理の残り物をリメイクとか。
鍋残りをグラタンにする、って。
別におじやで良いんでね。
出演者の服装も変。
奇抜であれば良いとか、斬新であれば良い、というのがテレビ文化ではあるけれど、すでにレパートリーもデザインも出尽くして、組み合わせの妙あたりに落ち着いている。が、その意図や落としどころが、ただ「かわいい」のひとことだけのためであるのはわりと淋しい。

まとめると、変な声のタレントが変な服装で、変な料理を食べながら、どうでも良い楽屋話をするというのが朝の番組企画なのである。

予算としがらみに染め上げられた、企画のための企画。
時間枠とスポンサーのためのルーティン。

ルネサンス文化は、発展が行き詰まった頃からマニエリスムと呼ばれる段階に入る。
装飾過多だったり、極端なデフォルメだったり、それはそれとして見処もある訳だが、やっぱり少しあだ花っぽい。
清新な感じはしない。
人間ってこう行っちゃうよね、むふふ、みたいな自嘲含み。

何かの流れをそのまま継続させようとするだけで、人間の働きや考え方はずんずん陳腐街道を進んでしまうみたいなんだ。
それで自分の首を絞めてたりする。
私も気をつけなくちゃ。

一票の格差

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選挙だ。
それもあれこれ。
今回の選挙は、冗談としか思えないような成り行きなので、私も冗談を言う。

さて、改めて地域の人口差による一票の格差が問題になっている。
たしかに、一人一票で数えるととても不公平なのだ。
しかし、ふと、年齢の格差はどうなんだろうか、と思った。
老人が多くて、若い人が少ないから、若い人に有利な政策を打ち出すより、老人福祉を手厚くする政策が有利になっちゃうのではないか。

未来を担う若者が、今本当に大変なのだから、18歳まで選挙権を引き下げて、35歳くらいまでの人の一票を、二票に数えることにしてみたらどうだろうか。
数で勝てないから、いまさら投票にいったって無駄だよ、という理由で若い人の投票率が低いかも知れないのだ。彼らは「どうせ老人の考え方に寄っちゃうんでしょ」とどこかで感じている。

で、極端は承知だが「若い君たちの票は、二票分」と言ってみる。一人投票すると二票分になる。そうすれば、若者ももっと投票にいく人が増えないだろうか。必然的に若者、つまり働く年代の人々に有利な政策を打ち出す党も増えるのじゃないだろうか。

一票の格差って、こういう、自分が投票したところでどうなるもんでもないでしょ、無駄だよ的な気分を起こさせる年齢格差にも着目しても良いのでは。
自分に子供がいるからか、若い彼らが気の毒でならない。
だって金持ってるのは年寄りばかり。
そしてそのお金も詐欺被害で雲散霧消しちゃったり。
若い人たちは、被害額を聞くたびに「普通のおばあちゃんが、どうやってそんだけのお金を貯金できたんだろう」と感じているに違いない。
そのように、色々な場面で若者は意気消沈しがちなのよ。
そんな思いを少しでも払拭できるように、私たちは考えて行かないとならない気がするよ。

火薬の話

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例えば今もシリアで戦闘があり、そしてイスラエルがガザ地区で空爆をしている。
いずれの場合も、人を殺戮するのは火薬を使った武器だ。
銃にしても、爆薬にしても、人を殺傷するのに使い続けられている。

その火薬は、2世紀頃に中国で発明されたと言われている。
古代中国の四大発明、というのがあり、火薬、紙、印刷、羅針盤がそれに当たる。
夕べ、日本と西欧の文化比較をした本を読んでいたら、中国では発明した火薬を花火にしか使わなかったと、いう記述があって、何か深く感動してしまった。
美しさを愛でるための火薬は、西欧に渡る過程で武器に成り代わる。
その圧倒的な殺傷力は、未だに人類の悲劇に手を貸し続けているのだ。

「発想した時、大方のことは良いことだ」
という考え方がある。
ひらめく、というか、私たちのために役立ち、楽しいはずだとして考え出されたことが、いつのまにか、人を苦しめるものに成り代わっていく。
宗教も、そういう歴史を持つのだろう。
人を救うためのものだったのが、いつの間にか人を縛り、相争わせるものとなる。

アジアには「白黒つけなくても良い」とか、「神様は沢山いていい」とかの考え方がある。
それは、日頃の暮らし方にも色濃く反映されていて、一神教の国々とはものの考え方、論理の建て方などが大いに異なっている。
私たちは日常、それを知らずに応用している。

ある意見では、日本は社会自体のセキュリティが高いので、他国なら武器の販売や警備にかかる経費がGDPに反映されていないのだそうだ。
たしかに、私たちの目の前で火薬が盛大に使われるのは夏の花火大会くらいだ。
そして、この安全性は金額に換算できないが、他国には滅多にないとても大きい財産だという。深く頷ける話。
ある程度ぼんやりと油断していても暮らせる国。
それは人間にとって、とても有り難いことではないだろうか。

中国人は発明した火薬をもっぱら花火に使っていた、という話に出会って、思いがけず、ずいぶん得をした気がする。
人は、はじめに良いことを思いつくのだ。

そんな気がする

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クエスチョンマーだらけだ。
政治とか、経済とか。
どうなっているのだろーか。

生まれてから、経験、体験してきたことでは、現在の事態が良く理解できない。
世界でいったい何が起きているのだろうか。

ひとつには、情報過多ということがある。
あちこちから細かくデータを収集して、それで大きなデータにたどり着いて、見て聴いて読んで、その後に考える。
考えると言うより、分析、解析、理解、予測などしようとする。
その種類なり、量なりが一個人に対しては莫大すぎて、逆に胡乱になる。

だが、それにしても何だか変な感じだ。
掴めない、分からない。
今までの語法も理解力も何となく役に立たない。
だが、分からないようだということが分かるのは安心材料ではある。
勘違い、読み違いしたまま呑気に進むと、いきなり穴に落ちそうな気もする。

現在は、これまでとは違うと思う。
これまでの方法を何とか踏襲しようとか、手当てしながら進もうとかする団体がほとんどだが、そんなことも止めて、ぱっと新しく全く関連性問わずに始めないといけない気がする。

そんな気がする。

それで、いきなり関係ないが大河ドラマの視聴率について。
『平清盛』最低視聴率更新だそうだ。
始まる時、私も見よう思った。
これまで、大河ドラマは見たことがなかったのだが、時代考証の素晴らしさ、歴史観の斬新さに惹かれて、珍しく「これは見よう」と思ったのだ。
だがしかし、見続けるには、何となく体力が要る。
疲れている日には、パスしたくなる。
要するに、あれは娯楽を超えている。
時代考証とか、人物像の掘り下げとかが真剣すぎるのだ。
登場人物は、役者として容赦なく剥き出しだし、毎回追い込まれている。
命が近く感じられてしまう。
かつてなく実りの多いドラマなのだが、お茶の間で見ると背筋が寒い。
娯楽ではない、歴史だ、と自分に言い聞かせるが、やはり気力のない時にはしんどい。
面白くない訳ではないのだ。
作品として完成度が低い訳でもないのだ。
ただ、毎週見続けるには重すぎる。
それを連続ドラマとして創り続ける体力には脱帽だし、賛辞を贈りたい。
ただ、受け取る側が疲労している。
アーカイブとしては、末永く傑作として鑑賞されるかも知れない。
ただ、現在は見る側に気力が足りない。
ビッグバン以来、成長し続けていた宇宙だが、ついに、星の誕生は収束に向かっているという話だ。現在は、新星誕生の数がピーク時の120億年前比で30分の1だそう。

きっと、宇宙って花火みたいなんじゃないか。
バーンと広がって、シューッとしぼんで行く。
納得できる感じがする。
今日、ツィッターを見ていたら通称オリコン、オリジナルコンフィデンスの音楽CD売れ行きチャートの話題が出ていた。
なんと、暫定ではあるけれど今年11月までのランキングでは、20位までのすべてのCDが
AKB系とジャニーズ系なのだそうだ。それぞれに複数のユニットがあるから軽く10ずつ分け合える?
それにしてもこれって...。

高校生の頃、まだレコード時代だから、小樽市内の「玉光堂」でレコードを買って、それを店のロゴ入りのビニールケースに入れて持ち歩くのが何しろ格好良かった。白地に濃紺のロゴだけのケースだったけれど、それは私たちなりの、「音楽を聴いていまっせ、しかもLP盤で」というどこか晴れがましい行為の一つだったのである。

東京に出てからは、ディスクユニオンとかタワーレコードとかのほかに、吉祥寺の芽瑠璃堂、青山のパイドパイパーハウスとか、もっとマニアックな店も加わって、とにかく、輸入盤のLPレコードは宝だった。

それが今は、20位までがもれなくアイドル系というのだ。
寡占とか画一化というより、買うファンにとってそれは音楽ではないのじゃないかね。
音楽ではなくて、ノベルティグッズみたいなもの。
ファンだから形として一応買っておく、という。

私たちが若い頃、LPは文化情報や音楽の感動が目一杯詰まった宝の箱、つまり「音楽=LPレコード」だったけれど、現在はもうそういう存在じゃないんだろうな。

数週間前の別の方のツィートでは、ミュージシャンをはじめ、若いクリエーターが海外の作品を見ない、聴かないで、国内アーティストを手本にして活動を始めるような状況になってから、国内の作品のレベルが下がっている、という意見もあった。半分くらいは頷ける。

善し悪しは別として、私たちはいつも海外のミュージシャンから学んでいた。どうしたって本家だし、言い出しっぺだし、巧いし、存在感もあるし。
勉強を進めて行くと、クラシックをもつ欧州も、ポピュラー音楽をもつ合衆国も、一つの国、人種では成り立っておらず、複数の宗教、言語、音楽性、リズムなど、それぞれの主義・主張が文化の陣取り合戦的闘いによって発展したことが良く分かってきた。

つまり、ほとんど抗争のようにして成熟してきた音楽の果実を、私たちは棚ぼたでいただいている訳で、そんな態度で演奏して説得力を持たせるのは大変なことだ。大変というか、追いつきようもない、と思わされた。
けれど、ここまでしつこく追いかけ続けてみると、一人の人生というものが結構バックグラウンドを形成してくれることに気づく。それを感じているミュージシャンは、やや救われ気味かな。

そのような、音から紡ぎ出されるあれこれを人生の糧としてきた私にとって、CDはすばらしいミュージシャンたちの存在証明、あるいはアーカイブだ、と信じているので、レーベルしていながら売れ行きにはそれほど拘らないのだが。
メジャーとされる業界のチャートがこうなってみると、音楽は既にCDとイコールではないのだ、ということを実感する。

現実的には、音楽は偏在するものだ。
CDの他にも生の演奏で、テレビやラジオから流れてくるもので、ネットの中で。
偏在する形となった音楽の発信者として、ミュージシャンは、そういうことに慣れて行かなくてはならないのだなぁ。
会社を始めてから、税金ばっかり払っている気がする。
事業税みたいなのが、都民税と市民税、源泉税、消費税。
個人でも都民税と市民税、健康保険に年金。
すると、なーんも手元に残らない月がある。
結構働いているのだがねぇ...。

普通の企業では、給与のほかに諸経費と社員の福利厚生、年金系を負担している。
どうやってんだろ、と思ってしまう。
一人の人間が働いて、必死にやってもなかなか余裕なんて出ない。
ということは、やはり富の配分の偏りということが起きているとしか思えないのだ。
大きく資本を持って、大きく借金をして、お金の出入り額が大きいところは回していける。けれど、身の丈商売ではなかなかやって行けないようにできているのかも知れない。

それで思い出すのが、以前、マンションを借りようとした時のこと。
子供が3人いて仕事がフリーランスだと、ぜんぜん借りられる物件がなかった。
仕方がないので、親に大借金をして買うことにした。
親は催促しないまま亡くなってしまったので、そのまま相続した形だが、つまり、地方から出てきて、企業に勤めない職種で働き、しかも子供を沢山持つとどこにも住む場所すらない、ということなのだ。都営や市営の住宅が唯一の救い。

日本の税金は、消費税などをもっと上げないといけないと言われているらしい。
つまり、ヨーロッパ並みにならないと、ということだが、ヨーロッパひどくなってるのだから、その意見を聞いてはいけないんじゃなかろうか。
もっと別の方法を考えた方がいいのではなかろうか。
昔は、自分の土地で商売していれば、その日食べるものを買うくらいの売り上げで暮らせたでしょ。今は、そういう小さい商いができなくなっている。
でも、小さい商いが成立しないと、大きい会社以外に場を求めて暮らす人たちはすぐに行き詰まったり、ひどい時はホームレスになってしまうよ。

かつては、地方から出てきた人たちも、成長経済のおかげで家も持てたし、子供も育てられた。でも、今はもう、ずいぶん状況が変わっている。地方にいることもできないし、都会でやって行くこともできない。そういう人たちが沢山いる気がする。
そういう人たちが暮らせる仕組みを考えて、細かく個々の経済を活性化した方が良くないかな。細かく大勢が活気づく社会って楽しくないか。

一方にユニクロさんみたいな、世界に出てマーケットを広げようとする考えもあっていいけど、個人が身の丈で暮らせる自由も欲しいのだよね。
だって世の中にはいろいろなタイプの人がいるんだものさ。
本来、歌う人なのだが、書き物が混んでくるとしばらく休んだりする。
それが、最近すごく歌うのが楽しくなっている。
色々発見したり、あとは気持ちの問題かな。

歌を教えていると、自分の感情の発散のために歌っている人が多いなぁ、と感じる。
それは全然悪いことじゃないのだが、それをいくら続けても巧くはならない。
言うまでもなく、演奏には感受性とか、自分なりの世界観とかがないと成り立たないのだが、一部のロックを除けば、ほとんどの音楽は技術や抑制で聴かせる部分が多くある。
なので、声出した途端に興奮して、叫んだり、吠えたりすると音楽的には偏る。

いつも思うのは、楽曲を尊重するということ。
自分の発散のために使ってはいけないな、ということ。
キャリアがない時は、すばらしい演奏を聴くと、その音圧にやられてか、適正に受け取ることができなかった。
プレイヤーのあるいは歌手の迫力を感じて、その迫力を再現するにはでかい音でなくてはいけないのじゃないか、とか力を込めていないといけないのじゃないか、と勘違いするのである。それが、自分も相当鍛錬してから聴き直すと、じつは拍子抜けするほど力の抜けた演奏であったりする。
つまり、演奏が未熟な時は耳も育っていないということか。
耳が育つと自分の演奏が良く分かり、工夫し勉強する。そして一定の進歩があると、さらにその先の音が聴こえてくる。そこからさらに訓練し、勉強する。するとその先に...、とまあ道は果てしない。

歌が楽しくなっているのは、レーベルのレコーディングやライブで、凄いミュージシャンの演奏を繰り返し聴くからだ、と思う。耳が育っている。
レコーディングの時のアンサンブルが、レコ初のツアーを続けるうちに変わってくる。
私は、ディレクションのほか、CDのコピーライトや宣伝の制作もする訳だが、それらの文言を彼らが具体的なイメージと受け取って発展してくれているのも見える。
いわば、いろいろな部分での相乗効果。

歌の話に戻れば、かつてのレパートリーをもう一度さらって、丁寧に、歌詞からフレージグまで捉え直そうと思っている。自分で「歌の蔵出し」と呼んでいるが、それはそれは沢山の、置き去りのまま歌い切れていない曲があるのだ。
せっかく一度は覚えた曲を、もう一度、今の私の力で歌ってみたいと思っている。
ここしばらくの間、心の調子が悪かった。
私の場合、自覚的ではなかったけれど、子供の頃から心は色々な意味で普通じゃなかった。
それこそ、今この年齢になって振り返って、しかも心理の専門家と色々話してみて初めて分かったことなので、その人生の中身というものは結構整理しがたい。

そのためなのか、本来は背負わなくていい大変さとか、苦労を引き受けてしまうことがあるようだ。
もっと自分が楽になるように立ち回るべきところを、じっと黙ってしまう。
その根本原因は、検討されてしかるべきなのだけれど、人間とは不思議なもので、その瑕疵を自覚するとその部分がものすごく空虚になってしまい、心全体のバランスが著しく歪む。
しばらく感じていた空虚感は、そのこと由来だったかもしれない。

人は、いろいろなものを抱えている。
存在の中に含んでいるし、背負っている。
自覚されるのは大方良くない方のこと。
そして、それらを瑕疵として感じ、ただ一途に健康で問題のない状態を目指す。
それは人間として正しい方法だ。
誰しも辛いことは嫌いだから。

でも、それをする過程で、荷下ろしをする度、しばらくの間不健康になる、というどうしようもないことに気がつく。
ちょっと泣き笑いしたいくらいだ。

多くの人は、自分のことをどう感じているだろうか。
自分はたいした存在じゃないとか、偉くも立派でもない、と口で言っていても、ずっと心の奥の方では、自分を多いに肯定してはいないだろうか。
なんだかんだ言って、自分の感性を良いものとして感じてはいないだろうか。
それが、自己肯定感、セルフ・エスティームだ。

自分が好きな音楽は良い。
自分が好きな映画も良い。
自分が好きな食べ物は良い。
自分が好きなタレントも良い。

いつも、どこかで自然にそう感じている。
それは、とても素敵なことだ。
それを口にしてみた時に、頷いてくれる人や、分かち合ってくれる人と友達になり、意見が違う同士で議論したり。
こういうはたらきは、一人ずつが独りよがりに好き嫌いを持っていい、と肯定する心から生まれて来る。

そのことを阻害される人生もたくさんある。
自分の意見で「好き」と言ってはいけない文化。
そういう時代に、そういう国に生まれついてしまう運命もある。
そういう家庭に生まれついてしまう不幸もある。

けれど、不思議なことにそれが反作用となって生まれてくる作品や表現もある。
人は本当に不思議なんだ。
本来人にとって良くないことが、何かを創り出したりする。
本当に本当に、不思議なことだ。

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