日記: 2013年1月アーカイブ

料理好き

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昔「聡明な女は料理がうまい」という本がベストセラーになったことがあった。
聡明な女→仕事を持つ女→料理や家事一般が苦手
という、昔にはありがちだった一般論を覆そうとする内容。
私としては、料理は好きだが、聡明ではないな、と感じたり。

大家族だったので、女子の私はいつも料理を手伝いながら育った。
戦後の食べ物のない時代からの引き継ぎで、従業員も家族も全員一緒の昼食。
賄いのおばさんもいて、いつも大量のおかずを作った。
夏休みや冬休みは、毎日その手伝いができる。
夜も、住み込みの人たちと家族合わせて10人以上の食卓。
父は別膳だからその分の料理もあり。

料理は毎日のことだったし、正月や祭用の特別な品々も手伝ううちに覚えた。
最初は、手順を覚えるのが楽しく、そして食品の様々を覚えるのが楽しく、食べたいものというよりは、レパートリーが増えて行くのが楽しかった。
例えば干瓢は塩でもみ、湯で戻してから煮るとか。
そういう、ひと手間かける食品にとくに興味を持った。

高校生くらいの時、父がニューヨークで食べてきたという、アサリ入りのスパゲティを何とか再現したいと頼まれたときは、自分では見たことも食べたこともないのに細部を聞き出し、色々な料理本を調べて作ってみた。
その時、タイムを初めて使った。
今思うとボンゴレだから、ニンニクとバジルくらいで良い、と分かっているが、その時はケチャップ味でない、塩味だけのアサリのスパゲティだと聞かされて、ずいぶんびっくりした覚えがある。パスタなんて言葉すらまだ聞いたことのない時代。

大学生の頃には、ホームステイ先の家庭で刺身からちらし寿司、中落ちを使ったつみれ入り吸い物まで作ってみせた。日本食の食料品店が今のようでない時代だから、50cmほどのマグロは半身皮がついたまま、しかもアメリカ家庭の切れない包丁で料理したのだから、結構素晴らしかったのだ、と今になって感心している。

結婚してからはかなり張り切って料理した。
書店で見つけた「四季の味」という料理本に感嘆し、ここまでこだわる人々が存在することに感動した。この感じ、現在の職人好きに通じている。後に、この本の編集長だった方のご家族、関係者と知り合いになり、この本を読んで知っていたことをずいぶん驚かれた。

今も、休みとなると買い出しをして、丸ごとの魚を買い、刺身、カルパッチョ、煮物、焼き物、揚げ物と様々に料理する。材料を買い込むのも大好きで、気がつくと万札が消えている。田無駅前のアスタビルにはジュピターが入っているし、吉祥寺に行くと三浦屋がある。ちょっと覗こうとして、色々手に持ってしまう。気をつけないとすぐに買いすぎる。

とは言え、食べてばかりかというと、仕事の都合で時間が無く、作っても家族に食べ尽くされて口に入らずじまい、という日も多々ある。それでも、作りたいのだ。色々。

子供が生まれ、音楽を休んでフリーライターを始めた頃は、ほとんど家で書いていたので
日々、書いては合間に料理をしていた。ずいぶん手の込んだ和え物なんかも作っていた。ごまを炒り、すり鉢であたって、甘酢で整える。具は、干し椎茸を甘辛く煮たものと薄い小口にした胡瓜を塩もみしたもの。これは、辻嘉一さんの料理本にあった。同じ本の、酒蒸しした鶏のささみをほぐしたものとジャガイモを針のように細く切り塩揉みしたものをごま酢合混ぜにしたものも美味しかった。

子供たちが中学くらいになってからは、毎朝弁当を作り続けて20年。頑張ったが手早くできる雑駁なものばかり増えた。あの頃は毎日眠かったなぁ。
ケーキやゼリー類なんかも結構作っていたし。

仕事場を外に持つようになってからの10数年間、料理に割く贅沢な時間がなかなか取れなくなっていたけれど、最近また仕事をさぼって料理をしている。見た目はどうでも、美味しければ良いという料理ばかりだけれど、少し心に余裕ができたのかな。この春、息子が就職すれば3人の子育てもやっと完了となる。

音楽好きの友達、もちろんミュージシャンたちも、みんな本当に美味しいものを食べるのが好きだ。集まるとすぐ、最近食べた美味しいものの話になる。あるいは、旅先で出会った特産品や珍しい料理、調味料などの報告。

食べる話の中身に艶のある人は、演奏も美味しい感じがする。食べることへのこだわりと、音楽を聴いたり演奏したりする神経は、どこかでつながっているのかな。
そういえば「美味い、旨い、上手い、巧い」って、全部「うまい」だ。


金曜日の夜中に、テレ東で「まほろ駅前番外地」というドラマをやっている。
三浦しおんさんの小説「まほろ駅前多田便利店」のキャラクターを活かした、監督書き下ろしものだ。
私はこれを見て激しく感動した。
映画的だが、テレビサイズのかろみがあり、体温のある人間がいる。
脚本は、ばかばかしくも極端なドラマ進行なのだが、それが少しも痛くない。
おまけに、最後に流れてきた歌。ゆらゆら帝国のあの声...。

上手いなぁ、才能だなぁと感心して、それからノスタルジックな感慨に浸る。
この感じを私はずっと好きだったなぁ。

この感じが好きなのは、私が中央線に憧れた若者だったからかも知れない。
中央線の吉祥寺、西荻、阿佐ヶ谷、高円寺、そしてちょっと離れた国立辺り。
上京直後の私の東京生活は、ここいらを拠点に展開していた。
ジャズとかフォークとかロックとか、絵を描く人、文章を書く人、店をやる人。
それらの人の姿。
商売なんだが、それより先に形にしたい何かがあり、そのための商売。
形にならないときの悩み、試行錯誤、笑い飛ばし方、距離の取り方。
国が理想とする労働者像から逃走し続けるための思考。

「こんなんでも楽しく生きて行けますよー」と、気張らずに見せたい気取り。
人と違うことを目指す自己顕示欲。
キッチュやデコンストラクションに浸りきりたい官能。

そういうものがごったになって、趣味が異なることを細かく検分しては互いを罵り合ったり。なるべく清潔に見えないように心を砕いたり。まじめであることを気取られないように細心の注意を払ったりしていた。

その頃の空気感が、テレ東の番組の中にある気がする。
要するには、何をするにも細部なんだ。細部に関する知識と経験、そしてその積み上げ。
職人や海外に派遣されたビジネスマンたちは、現場や駐在先でどうやって暮らしを立てているか。

時には、家に眠る家宝が、じつは、三文品だということを宣告してあげる番組。骨董好きの妄想をあるいはオタクの勘違いをみんなで笑って明らかにする番組。その骨董を根拠に持っていた「名家」の自信が、呆気なく崩壊したりする。あるいは価値あるものに込められていた先祖の思い入れを再確認することもある。

それらの番組の目線は、他局と違っている。
NHKが、日本国という共同の意識のために大枚をはたいて「世界初」の映像、「世界最高」の技術を見せてくれる一方で、街はテレ東が描くように在る、と納得する。街にいる人々は仕込みもない素のまま、驚くほどの率直さで映り込む。

その中に、かつて私が中央線沿線で知った、何とも言えないサブカルの匂いがある。
それは、人を同じ目線で見て、ヒェラルキーを消そうとする試みだ。
ひとりずつがいるだけで、上下なんてないのさ。
好きなことを好きなようにやって、周囲に迷惑かけたり世話になったり、逆に世話したり、そういう日々こそが愛おしくないですか。

「テレビ東京」の番組の中で懐かしい匂いを感じた。何だろう、これ、この気持ちは何だろう。そして、はたと膝を打つ気がしたのだ。
テレ東って、もしかして中央線文化なのじゃないのか、と。

人は一人ずつ、色々な顔なはずだ。
それが、最近は皆似ているように見える。
いやいや、似て見えるのは「役者」の人たちだけかも。

役者と呼ばれるジャンルにいる人たちが、同じカテゴリーの外見になっている。
そこから外れる人は、お笑い。
あまりに同じ顔つきの人ばかりなので、たまに「個性派」と呼ばれる役者が脇役として採用される。彼ら、彼女らはお笑い系か、舞台、劇団に所属する人々。

大河ドラマを見ていて、みんな同じようなカテゴリーの顔なのは良くないな、と感じた。
眉目秀麗ってやつ。

昔の映画は、顔や姿だけで、人物像が半分くらい理解できる強者揃いだった。
背丈、体つき、顔の大きさや造形。
そのはっきりとした美醜と表情で、筋など関係なく人を見る楽しみがあったように思う。

今は、もれなくご清潔で、業界人の好きなひとつの価値観の中にまとまっている。もちろん、細かく観察すれば美しさの中にも違いがあるのだろうなぁ、とは思うが、それでも似たような個性ばかりが、ひとつ画面の中で別の人格ですと証明するために台詞を喋っているように見えてならない。

俳優、女優として成立する人材を抱える事務所の価値観が、おおむね似通ってしまった。
あるいは、ごく若い頃から、同じような訓練を受ける中で切磋琢磨し、役者自身が自分をそのように作り変えているのか。個人ではなく、チームでの創作物。

サクセスストーリーというものがあれば、それをなぞる方が安心かも知れない。
指導も学習も、事務所も映画のナントカ組も。
でも、その前に個人はどうなったのだろう。
それらの一連が手段でしかないと、自分のすなることこそが最終目的だと、はっきり決めている、あるいは決めようとしている人材が少ないのだろうか。

現在見て感心する昔の個性的な役者たちというものは、どこからどのように発生したのだろうか。動乱の昭和に生きただけで、あのような面構えになったのか。それとも、監督が大勢の群衆の中から彼らを見出して、説得して引きずり込み、育てたからなのか。

見出す眼力の側が変わったということだろうか。
それとも、役者という立場が、今のような輝かしい職業なんかではなく、どちらかといえば尻込みしたいものが、周囲によって必要だと要請されてついに「あたしにゃこれっくらいしかできるもんがありませんや」と諦念した後に成立した時代だったからなのか。

映画を作る世界は、それなりに狭かったと思われる。
狭くこだわりのきつい、その業界内で小難しい職人たちにだけ支持された技芸というものが必ずあったはずだ。
テレビによる製作の大衆化ということが起きる前の、職人たちによるひとときの幸福な製作環境。そこでしか生まれ得ない美しいもの。

そのような環境世界を、意識的に、維持することはできるのだろうか。



今年は書くぞ

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「今年は書くぞ」って、もう充分書いてるでしょ、と言われそうだが、考えたいことがあり、それを腰を据えて書きたい、と思っている。
書きたいこととは、やはり、音楽のこと。

暮れにうちのレーベルのディストリビューターと現況分析の話をしていた。
私より少しだけ上の世代の、まさに日本のレコード商売の生き字引のようなその方は、パイドパイパーハウスにも、タワーレコードの立ち上げにも関わっている。長年ジャズ・レーベルを持ってユニークな制作を続ける傍ら、ヨン様の韓国ドラマ関連で大当たりした経験もあるそうな。私がミュージシャン出のプロデューサーで商売っけ無しだとすれば、商売優先の考え方もできる方。

けれど、話していて私も彼も、あの時代の熱と気分にノスタルジーが横溢しているのを感じた。あの時代とは、まさに70年代である。
60年代後半のウッドストックやビートルズ文化に端を発したサブカルによる文化革命。

日本にすらヒッピーがいて、小劇場演劇があって、雑誌がオピニオンリーダーであり、サブカル文化人が生まれた。今で言えば、キクチナルヨシ的な人がどのジャンルにも、いっぱいいたと思って頂きたい。
生き字引氏は、その頃を思うような、遠くを見る目で「今はジャズ界に良い評論家がいない」と呟いた。

それはそうなのだ。
オピニオンリーダーがいない。
というか、いてもメディアごとに棲み分けていて、別メディアにしかアクセスしない人には姿も見えない。
つまり、モザイク状の世界。

そのように、現況はかつてと大きく変わっている。
私の知る範囲では、音楽関連でマス・メディアに変わるものはU tubeだし、Twitterだ。
そこで、ミュージシャン自身がどんどん発信している。
自由はあり、闘いは無い。

かつては若者たちはむやみに戦いたがっていた。
学園闘争もそうだが、自分がどこに立っているのかを、懸命に、というか必死に探らなければならなかったのだ。そして、メディアを陣地とした場所取り合戦があった。

敗戦を機に一時廃墟になったも同然の思想、文化の地平のどこに自分は立ちたいのか。
我らの陣地を作るぞ、というような、近代的な闘争意識があった。

その後塵を拝した私たち世代も、彼らの熱気と切実さに打たれていた。
たくさんのミニコミ、そして仲間と思えるアーティスト、書き手、描き手、写真家、デザイナー、思想家、学者、音楽家、演劇人、料理人...。
次々と紹介される稀なる人々は、新しい私たちの先導者だったし、全く新しい、人種的な劣等感すらぬぐい去ってくれるような、確実な何かを創り出せして行けるような輝かしい予感を抱かせた。

そして、今日まで、私もそのごく端っこに連なって、音楽やら出版やらに関わってきた。
時代は変わっている。
そして、分からないことばかりが、まだまだ山積みになっている。
過去の検証はさて置いたとしても、これからの私にとつてミニマムなジャズの世界。
私の好きな、私の生活をかけても続けたい音楽のこと。
それがやや見えない不安に駆られている。

見えない、ということの中身は、将来的な展開の予測が立たない、下の世代の音楽自体が理解できない、音楽産業の成り立ちと変化が予測できない、音楽の存在価値が分かり辛い、などなど。
言葉にできていない、まだこれら以外のこともアナライズすれば出てくるだろうし、生きて関わる限り、自分の中で起きる思いや欲求は再構築の連続になるだろう。

それらのことを、ひとつのトピックごとに、深く考えていこうと思う。
と、大上段に構えるのも、新年だからに他ならないが。
今年は、「書いて考える、書きながら思考する」年にしたいと思い立ったところだ。

次回は「音楽の快楽」について。
皆様、明けましておめでとうございます。
と、まずは新年のご挨拶。

この年末年始も、例年と違わず、年末のライブが終わって、ほっとしたのも束の間、見事に風邪を引いておりました。
だいたい、一年中元気なのですが、年末年始はやられます。
といっても、高熱という訳ではなく、鼻風邪程度でしたが。
これ幸いにぐだぐだしておりました。

名古屋で生活している娘ふたりが帰省、今春から社会人となり会社の寮に入る予定の息子ともども、朝起きて競争でシャワーを浴び、身支度をしてそれぞれの友だちに会いに飛び出していきます。
元中、元高、元部活、ファンの集い、バンド仲間、とそれはそれは多彩な付き合いがあるようで、感心しきり。
私は、「今家に居る人たち」のために飯当番でした。

雑煮、煮物、手巻き寿司、すき焼き、鍋、蕎麦、ステーキとか次々と繰り出して食べさせ、片付けてどっと寝て、また起きてパスタ、カレー、サラダ、納豆ご飯、スンドゥプ、中華とまた繰り出してはどっと寝る毎日。

気がつけば仕事始めとなり、静かな日常が戻っております。
それにしても月日の経つのは早い。
子供たちが帰って来ると、みんなして「以前はこれだけの人数で暮らしていたのだね」と感慨ひとしお。
長年、子育てで髪振り乱していた私が、一番ぼけーっとしている正月でした。

仕事に関しては、年頭の決意とかどうしようかなー、と思い。
あまり勇んで計画するとストレスになるなぁ、と考え。
まあ、成り行きで良いべ、と落ち着く。

無事、このような人生の時期に差し掛かったことに、心より感謝しながらも、今年も盛りだくさんに頑張ることになりそうな予感は満載。
欲張りすぎず、上品に、抑制を利かせながらメリハリのある、楽しい音楽的日々を目指して精進致します。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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