読んだ本の最近のブログ記事

来日が1974年というから、私が上京した1年後。
同じ頃に、日本での音楽シーンにどっぷり触れていたことになる。
だから、何となく、いつも読んだり見たり、聴いたりする場所にいた。

これは、来日してからこれまでのDJ人生を語った本。
そう言えば、バラカンさんがナビをしていた深夜のCBSドキュメントも見ていたなぁ、と思い出す。

ラジオ番組の成立の仕方。
スポンサーと番組の命運。
他の仕事への取り組み。
いつもお手本にしていた、尊敬するイギリスのDJの存在。
そして、埋もれているけれど、読者に勧めたい珠玉の曲の数々。

音楽は、メディアから流れ出しながら、とても個人的なものでもある。
セレクトする人の嗜好や趣味、必要性がまちまちだから。
バラカンさんの音楽へのこだわりは、私自身や周囲のミュージシャンたちと重なる。

ある時には、リクエストにお応えして不本意ながらオン・エアを始めてはみたけれど、どうにも我慢できなくて、途中でフェイド・アウトしてしまった曲の話など。
私自身、聞きたくない音を消すタイプなので、とても理解できる。
聴く時は全身全霊を傾けて集中している。
大好きなはずの音楽でも、その日の体調や気分によって、セレクトしないものもたくさんあり、あーーー、今何を聴きたいかなぁ、といつも自分に問いかけている。

先週は、グルダのモーツァルトばかり聴いていた。
今週は、何も聴かない。

若い頃は、かっちりとアレンジされ、たくさんの楽器を使ったコンセプチュアルな音楽が好きだったけれど、今はアクースティックが好きだ。この「アクースティック」という書き方は、バラカンさんの方法。英語をカタカナにする時に、発音に近い表記をしている。例えば、ダニー・ハサウェイは、「ドニー・ハサウェイ」。

この本を読みながら、思いついたこと。
こだわらざるを得ない耳や感性を持った人と、そうでもない人がいる、という事実。
こだわる人たちは、互いに知り合い、認め合い、教え合い、助け合っている。
そうでもしないと、楽しみすら成立しない。
つまり、こだわる人の絶対数が少なすぎて、経営的に難しい。
バラカンさんの番組も、マニアックなファンに支えられてきた。
だから、終了すると継続願いの署名活動が起きたりする。

こだわらざるを得ない人々は、それに見合う番組やリーダーがいないと困る。途方に暮れるのだ。食べ物でいえば、ジャンクフードや実用的な食堂しか無い世界になってしまう。
もう少し、繊細で感性に沿うものを提供してくれる、あるいは、そういう受容者がいることを分かっている送り手がいないと、途方に暮れる。
だから、自分の感性のこまやかさに気づいた人々は、それを満たしてくれるものを懸命に求める。

その数は、全体から見ると少ないようだ。
その証拠に、彼ら向けの番組や雑誌はすぐに中止、廃刊になる。

それに反して、そこにあるもので、満足できる人々もいる。
より良いものを見たり聴いたり食べたりすると、その良さは分かるけれど、さほど良くないものでも、それなりに楽しむこともできる。
じつは、そちらの方が普通で、彼らこそがヒットを作り出す「マス」なのだ。
鈍くはないが、程よい感度の受容アンテナ。

私は、自分が音楽を聴いていて、イライラしないことを望む。
専心して聴きすぎるせいだとは思うけれど。
おまけに、いつも食べる朝食の材料が無くて、その辺にあったレトルト食品を食べたら、二〜三日、お腹の調子が悪かった。
そのように、何でも食べることすらできない。
嫌いな話を我慢して聞くと、血圧が上がって吐いたりする。
これは、わがままとかではない、と思う。
そのような感性の人もいるということ。

バラカンさんも、きっとそのタイプではなかろうか。
自分が好きな物の価値を、時々は自信を失いながらも、また思い直して、「これが良いです、良いと思います」と発信し続ける。
それしかできない。
自分の感性や音楽全体に対する律儀さ、生真面目さを大切にする、そういう人なのだろうと強く感じた。
バラカンさんのラジオ番組のお陰で、日本のリスナーは多いに助けられてきた。
私も遅ればせながら、この本に紹介されている未知の曲を探し始めようと思う。

以前、広告批評という雑誌を好きで良く読んでいた。
橋本治のコラムが連載されていたからだ。
日本の国について、その政治や文化について、私など到底思いつかない視点で批評していた。知性とは、こういうものかと思った。
平行して、中沢新一を読み、この数年は内田樹も。
この3人は、似たような時期に東大生だった。掛け値無く、東大に行くような地頭の良さが感じられる。驚くほど思考する体力がある。

橋本治は、編み物やイラストもものすごく上手。
そして、現在から古典に至る、時間の幅の手玉に取り方が凄い。
そして、その真ん中には、「にんげん」がある。

『巡礼』という長編小説は、ゴミ屋敷の主を真ん中に据えて描いてみせる戦後史だ。
男女のこと、家族のこと、時代の変遷とそれに伴う経済の波。ただ為す術も無く洗われ、押し流されて生きる市井の人々の姿。
文明とか文化に振り回されて我を忘れ、というか、初めから我など無く、ただ明日を生きるために為すことによって次第に擦り切れ、理由も分からず呆然とする様が、様々な人の有り様を通して活写される。

働く、異性を欲する、家庭内の立場を守る、無為に他者を攻撃する、行き詰まって呆然とする、打開を目指して何かをする、しかしそれは、とてつもなくおかしな行為だったりする。

私たちも、そういう人間たちのひとりだ。
橋本治は、そのことを糾弾するでも無く、批判するでも無く、ただ淡々と、愛情を込めて描く。誰にも他意は無い。ただ、自分が何とか生きなくてはと思うだけだ。けれど、その手段は、別の視点で見るとはなはだ理解に苦しむものとなる。

家族や同僚を持てば、誰もがそれを知る。
家族であろうが、他者は私ではない。
そして、私ではない人々の切実を、どこまで理解できるのか。
私自身も生き延びなくてはならない。
その余力を、どこに、どうやって残しておけば良いのだろうか。

目の前の難題だけでなく、行方の知れないこれからに向かって、人は呆然としたり、小賢しく知恵を巡らせたり、よかれと思って頓珍漢なことをする。
誰も、自分だけはそうではない、と断言などできない。
その、本来の人の姿を、曖昧に行き暮れ、しかし、必ずどこかに救いを残す人の姿を、残酷にも暖かく描いた素晴らしい小説だ。

私にとっては、己を知る良い導きになった。

町山智浩さんのお名前は、豊崎社長や小田嶋隆さんの書くもので見知っていたが、この度初めて購入。そして感動。

アメリカには日本の3倍近い人口があり、しかもその内容は、世界中から集まる様々な人種で構成されている。
先日知った事によると、アメリカの軍事費とその他の全部の国の軍事費が同等。
つまり、地球上の軍事費の半分はアメリカの予算。
その上、国内には銃が溢れていて、始終人が殺されている。

最近また、ケーブルテレビでしばしばアメリカのテレビドラマを見ていたため、町山さんの筆力になる「アメリカ合衆国」の描写は、想像を遥かに超えてリアルに衝撃的であった。

かつて、週刊現代に連載されていたものと他の雑誌掲載のコラム、書き下ろしも含めての一冊。ブッシュのしたことが「どんだけ」だったかということが逐一分かる。
そして、大統領が「そんなこと」をしてしまえる国の事情というものも逐一分かるようになっている。

すごいなー、ドラマよりすごいなー。
国そのものがディズニーランドみたいだ。
つまり、フィクショナル。
ひとりずつの人間を構成する要素というものが乱雑で濃い。
まず性別があり、人種的な出自があり、階級があり、宗教的心情があり、性的嗜好があり、その他に思想とか理念とかがあり、それらがぐちゃぐちゃに脈絡なくひとりの人の中にある。日本は、均一の中から異質なものを見つけ出す文化だけれど、アメリカって一対一対応しなくてはならないみたいなのだ。

見出すとはまってしまうアメリカのテレビドラマが優れているのは、事件の「原因」を推理するための要素がこれらの全ててあるからで、それはもう私らとは勝負になんかならない。日本人が抽出する微妙な差異なんてものは「見えないし感じない」程度のものではなかろうか。その個人個人の屹立の仕方。自己主張の激しさ。性欲の旺盛さ。

必ず一対一対応しなくてはならない、得体の知れない人々が繰り広げる政治と経済と戦争など。全く、その剥き出し感は、恐らく地球上の他の場所では決して存在し得ない。
感情面だけに絞って見れば、「幼稚」で「身もふたもない」のがデフォルト。そこに知性とか実績とかを糊塗し続けて造形される人格。
有名人になる人々とは、大衆のあられもない欲求に訴える人材でもある。溜飲を下げるとかガス抜きをするためのパフォーマーを求めるパワーも凄くて、日本のワイドショーとかは上品この上ないんだと今更ながらに気づく始末。

なんか、まとまりがないが、私自身が驚きすぎてとっ散らかっている。それほどのインパクトを持つ町山氏のコラム群である。町山氏が凄いのか、描かれるアメリカ合衆国って国そのものの狂乱が凄いのか。興味のある方は読んでみて。





大分前に買って、さらっと読んだ、ダニエル・バレンボイムとサィードの対談をまたゆっくり読み始めている。
バレンボイムはロシア系のユダヤ人で、言うまでもなくピアニストとしても指揮者としても天才。サィードはパレスチナ人でカイロに育ち、世界的に認められた多方面の評論家、ピアノがかなり上手い。

この二人が、音楽について、音楽の歴史や社会との関連について思うところ、行動したことなどを話し合っている。

例えば、ナチズムに協力したとされるワーグナーの音楽をイスラエルで演奏すること。中東の互いに侵攻し合っている国々から若い音楽家を集めて、ワークショップをし、オーケストラとして演奏してみること。

二人は世界中を飛び回る過密なスケジュールの中で、さらにこれらのことを、中東のために発案し実行している。その中で見えてくること、関わった若い人々が体験すること。

話は、純粋に芸術としての音楽についても深まる。その中で、音楽が他のアートと異なるのは、固定できない特質によると語られていた。絵画や彫刻、建築などは何度でも同じものを見ることかできるが、音楽では決して同じ演奏はできない。

この本を読み進むのは大変だ。数行読むたびにわたしの頭の中に数々の連想「association」が沸き出して、読んで理解している文脈の脇に別の色彩鮮やかな発想の波が発光するからだ。時々、こういう効用を表す本に出会う。中身が素晴らしい以上に、その何が私を刺激して引き回すのか、呆然とする。

本を読むという行為からすると、小説は面白いけれど呼んだ後に「だから何」という気が必ずしてしまう。この先がどうなるのか、結末が知りたいと思いつつ読む本は特に、さんざん読んだ後に、空しい感じが残る。
つまり、最近の私には物語は余り必要ないのかも知れない。

物語ではなく、書き手の深い洞察を感じたときは「有り難い」と思う。それは共感かも知れない。その共感の持ち方と、音楽が生成しながら育って行く感じが似ている。書き手を聞いて読み手の私が連想し、そのコラボという点で、演奏と読書が似ているときがある。

最近は、音楽の要素はシンプルなのが良いと思うようになった。シンプルな中で、人の生理に寄り添った生成を生む。初めに進歩とか斬新とか難解を追うのではなくて、シンプルなところから次第に色付けて行く。エスキースから大作を仕上げて行くかのように。

音楽は、止まらない。一時の結果をCDにしたところで、それは演奏家にとっては過去のものでしかない。だから、記念写真的作品はもしかすると必要ないのではなかろうか。ただ、自己確認のためにアウトプットとして客観的に聴いて、また次のことへと歩み出す標にするだけのことで。

人を真ん中に据えてみると、彼らが生み出す作品群よりも、彼らの細胞が入れ替わり、絶え間なく変化し続けていることにだけ意味があるような気がして来る。
半年くらい前から、1月に1回、英語翻訳の教室に通っている。何年か前に、数人で精神医学の原書を丸ごと読む会に参加して、その時はかなり英語に親しんだつもりだったけれど、近頃また読み方を忘れている気がしたのだ。
英語を読むときは、その「脳」になってスタンバイしないとならない。その「脳」の状態は、しばしばそうなっていないとどんどん薄れていく。
翻訳教室では、ニュース記事から雑誌記事、エッセイ、小説など様々なものを読む。課題が出て、それを期日までに訳してメールで送り、教室開催の日に添削した物を受け取って講義を聞く。
私に戻される添削は、まったく、目も充てられない、という感じ。
どこが悪かったのかと考えると、まずは基本的なこと、「主語を探す」という最も重大な仕事をおろそかにする。時制を都合良く感じ取ってしまう。
次には、ひとつの単語がいかように利用されるかについての知識が乏しい。
この、単語に関する知識のバックヤードは、正確な翻訳をするという前提に立って蓄積しない限り、絶対に身につかない種類の事柄だ。
ひとつの単語が使用されるとき、どのような頻度の、どのような優先順位の、または例外的な「意味」を持つのか。
それを経験する毎に、自分のバックヤードに溜めて行かなくてはならない。
同じひとつの単語が、精神医学の本の中で使われるときと、古い小説の中で使われるときとでは、含む意味が全く違ったりする。

このことを思った時、私にとっての楽譜の読みが思い起こされた。
ひとつの曲の誕生と来歴、アレンジの変遷、採り上げた歌手たちのそれぞれのアプローチ、各国の多種多様なリズム系。
その曲をどう受け取り、どうアレンジし、どう表現したいか。
そしてその欲望の根拠は何なのか。
たった1枚のリードシートに、それらを説明しなくては演奏が始まらない「自由領域」がある。
しかしこの自由は、根拠や表現を裏付ける知識とリズムによってしか実現されない。
ひとつの単語を見てその意味を推理する時と、ひとつの曲を見て、それをアレンジする力はどこかで似ている。

自分の英語能力の助けになるかと思って、鴻巣友季子の「全身翻訳家」というエッセイ集を買った。
ひとことで、驚愕だった。
多くの小説家のエッセイを読んだが、かつてなく、最も驚いたかも知れない。
「世界文学」そして「日本文学」への深い造詣、そこから自身の仕事である「翻訳」との相関をさり気なく示し、さらにその全体のそこここに他の作家には見られない独特な「間」を創出している。
ひとりの翻訳家が、彼女の中に膨大な世界を構築し、それらを材料として余さず使い切り、さらには独創までしている様を、短いエッセイの中に見事にまとめ上げている。
料理やワインについての細かな描写は、バックヤードに気の遠くなるほど膨大な読書と経験の蓄積があることを伺わせる。
私は、読みながら胸が苦しくなった。
苦痛の苦しさではなく、嬉しいばかりの苦しさ。
こういう人がいたことを、今の今、知ることのできた僥倖。
作家は、私の態勢が整わないときには、来てはくれない。
読書でも、音楽でも、私に準備ができていないときには、相応しい対象には出会えないのだ。

どんな作家に出会っても、少しずつ「私」とは違う。
その差異ばかりを察知して、友だちではあるけれど、同志ではない、と心の底で思っている。
もちろん、理性では、その差異こそが私を豊かにすると知っている。
それがバックヤードの宝へと姿を変えるのだから。
しかし、バックヤード自体の造形とか、柵の形とか、雰囲気という物を同じ「趣味」で構築している人に出会うというのは、またべつの感興を喚び起こす。
安心する。

興味とは、つまり愛情なのだ。
つきまとわずにはいられない。
音楽ならその周囲を、いつもうろうろする。
ワインもしかり。
うろうろして、ためつすがめつする。
それに関する物を片っ端から収集する、読破する。
聴く、味わう、試す。
欲望する、入手する、傍らに置く。
そして、消えていった物や人に関する膨大な記憶。
その全てが、ひとりのバックヤードに埋まっている。
人のバックヤードを、その価値と豊かさ、可能性を知る人は幸福だ。
これこそ、お金なんかでは、決して、決して、買えないものなのだ。





レイモンド・チャンドラーの名前は、もう何十年も前から知っていた。けれども、意地のように読んでいなかった。ハードボイルドというのが嫌だった。ハードボイルド推しのおっさんたちがダメだった。作家の人たちもダメだった。ダメ、というのは受け付けない、という意味ですが。

けれども、村上春樹の訳なら読んでみるか、という気になり、休日2日間で読了。
とても面白かった。
ハードボイルドといってもさほど暴力的でないし、それよりは、スタイリッシュな会話に唸らされる。
アメリカ人が、みんなあんなに気の利いた話し方をしているとは到底思えないけれど、小説の中や映画の中では、台詞、やたらとかっこいいのである。

この美学が、日本にもっとあって良いかな。
この頃は特に、ゆるゆるのふざけた文体ばかりが多いのだ。
もちろん、それが芸になっていることも分かるのだが。
「当方には、アカデミック・コンプレックスとか階級コンプレックスは無い」
というキモチを感じ取っておくれと言わんばかりの軽口にしか見えないときは、結構失望する。

そうそう、ハードボイルドだった。
久しくフェミニズムに寄り添っていたので、男らしい、という定義が嫌だった。
すぐ殴ったり、脅かしたりするのも嫌だった。
けれど、最近は、男はそうするものだ、と幾分思う。
男同士では、そういう、表面的なブン殴り合いというものがある、と分かる。
女同士には、別の意味でのブン殴り合いがある。

話は変わるが、休みの日に、1990年代くらいの娯楽映画を何気なく見ていた。
2作見たら、その物語の構造が同じだったので驚いた。
悪いお母さん→息子犯罪者→ヒロインはそれと気づかず熱心な性的関係を結ぶ→ヒロイン気づく→愛した記憶との葛藤にもめげず犯罪者を成敗。
これがなんなのか。
全く同じ因果関係で、背景だけ変わっている。
主演女優はそれぞれ、シャロン・ストーンとアンジェリーナ・ジョリー。

臨床心理学関係では、プロファイリングと多重人格と隠蔽記憶と模造記憶などなどが一時大流行で、弁護士大活躍であった。
アメリカ人は、暴力性の因果関係づくりに熱心である。
原因全てを外在化したいのか?

そこで「Long Good Bye」の感想。
ここでの犯人は、超美形の女性である。
背景には戦争によって愛する人を失ったというトラウマがある。
ハードボイルドでは、女性は殺される被害者か、犯人か、傷心のまま消えていくやや美女か、である。
男性は、そういう女性たちに翻弄されつつもタフに生き延び、男性同士で互いに暖かく心を通わせているのであった。
下半身は女に翻弄されるが、頭や心はすっかり男性同士のためにある。
やはり、ハードボイルドを読むと、女性としてはバカにされたような気になる。
女性の真実の良さというものは、ほとんど出てこない。
生死に関わる問題を山積させ、疲労困憊のヒーローにさらなる性的サービスをねだるのがここでの「女」というものである。
それも素敵だが...。
そういう女になりたいと望む女はいるのだろうか。
フィリップ・マーロウになりすましている男は五万といそうだがね。

つまり、ハードボイルドは、残念な感じで生きている男たちの問題の外在化と、なりすましロールモデルの宝庫、ということになってしまうのだが...。
それでも私は男の人たちが好きだな。
そういう、単純なところが。
「悪童日記」を読んだのはいつのことだったのだろうか。
その時のショックは、何にも例えることが出来ない。
フラナリー・オコナーを読んだとき、内田百閒を読んだ時にも似たような心持ちになったけれど、ショック度合いという意味では、ダントツだ。

人が家族を失うということ、故国を失うということ、国と故郷と家族と、そういう属性を全て失ったときに、どうやって生きるのか、生きていけるのかを深く考えた。

それは、その頃の自分の立場を考えたり、そこから先に進む方法を考えたりするための役に立った。
大いに。

田舎で、周囲の人々から何らかの認知をされていた自分が、ある日から突然「どこの馬の骨」という目でしか見られない存在になるという体験は、欧州の戦乱や人種差別、宗教差別の生死を分ける状況とは比べようもないとは言え、それなりに文学的だったのだ。

自分は、何をする誰なのか。

リセットされるというのは、苛酷な体験だ。

そして、私は今日まで穴に落ちないよう、怪我をしないよう、慎重にしかし時には博打を打ちながら生き延びてきた。
まさに、生き延びてきた。

人生の中で意義のあることをしたとか、後世に残ることをしたとかいうのは目的ではなく結果だ。
人はただ、一心に生き延びたいだけだ。
そして、気づくと歳を取っている。

その加齢に免じて少しは休ませてもらえると思うだけで、生きてきた甲斐があったと思える。

私の周囲の男性たちはあまりにも早く、病を得たり心朽ちたために若死にした。
その数を、私は指を折って数えることができる。
女はみんな生き延びている。
生き物としての自分の重さを秤る時の女の潔さ。

アゴタ・クリストフは、「人間」と「女」のただそれだけになった時の姿を書いてくれていた。
文名が上がるにつれ、彼女のような苛酷な人生を糧とする人々がこれほど多いということが分かり、それも私の励みになった。
少しは孤独が慰められた。

亡くなったと知ったとき、私の人生が文学に大いに救われていることを、改めて思ったのだ。

読書好き

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本ばかり読んでいる。
一時、近視乱視に加えて、老眼が現れ、活字を読むのが辛い時期があった。
それで、映画や舞台を見るための近視用、活字を読むための遠視用とふたつの眼鏡を作り、何とかインプットの質を保とうとしたのだ。
それが、また、裸眼でも結構読めるようになっている。
多分、近視が更に進んだため、視力の遠近が、危ういながらバランス状態にあるからと思われる。

村上春樹という作家がいる。
デビュー作から、ずっと読んでいる。
小説は大体全部、そして翻訳も結構読んだ。
ひとつの国で、このようにジャンル丸ごとに対する影響力というか、革新性をもつ人が現れるのは大変なことだ。
インタヴュー集を読み、内田樹の批評本というか愛好論も読んだ。

昔、国分寺のピーターキャットに何度か行って顔を見ている。
髪の短い人だな、アイビーが好きなのだな、と感じた覚えがある。
ピアニスト北政則氏は、この店でアルバイトをしていたそうだ。
その頃、私の夫は北さんを頼って岩手から上京し、上野から国分寺に来て、この店で待ち合わせた。
そこから東京生活が始まったそうだ。

私は、そんなことを知らないまま、書店で印象深い表紙に惹かれて「風の歌を聴け」を買い求め、大変驚いて喜び、その後ずっと読者である。

一時期、精神的にひどく参ったとき、彼の本が読めなくなって、全部友人の息子にあげてしまった。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のピンクの箱入り初版本もあげてしまった。
ちょっと惜しい気もする。

その後、自分の息子が成長して彼の小説を読み始めるなどと、その時は予想できなかった。
つまり、それほどしんどかったということ。

イギリスにビートルズがいたように、アメリカにマイケル・ジャクソンがいたように、今の日本には村上春樹がいるのである。
日本に生まれたけれど、そして日本語の小説を書いているけれど、世界に影響力がある存在。

枕元に青山ブックセンターで買いだめした様々な本を積み上げて、夜な夜な読んでいる。
北山修、佐藤亜紀、中沢新一、川田順三、若桑みどり...。

パトリシア・コーンウェルの新刊は、3日で読了。ケイ・スカーペッタのしんどいことは相変わらず。切羽詰まる人の話を読んで、共感するのは何故なのか?

するする読める人と読めない人がいる。
文体がダメとか、リズムがダメとか、内容が嫌いとか。

本ばかり読んでいる、と我ながら思う。
音楽ばかり聴いているときもあるので、まあ、時によるけれど。

つまり、一人遊びが多い。
こういう人は、外的世界より、内的世界が好きなのだそうだ。
自分が好きと言うことではない。
自分が好きな人は、自分を周囲に認めてもらう方が先なのだ。
一人遊びが好き、というのは、自分の心の中にしか興味がない、ということである。




 

  ごく幼い頃、家庭用のポータブルテープレコーダーで遊んだ。父は、新しい物好きで、家には昭和29年には既にテレビがあり、続いてステレオセット、8mmカメラと映写機、そしてオープンリールのテープレコーダー等が加わった。

 そのテープレコーダーに、母が「暮らしの手帖」に連載されていた童話(挿絵は藤城清治さん)を朗読し吹き込んで、3人の子どもたちは、夜それを聴きながら眠りにつくという、素晴らしい情操教育が企画された。

 この慣例はどのくらい続いたのだったろう。半年くらいだろうか。このようなアイディアの大方は、予測したよりずっと早く飽きられ、中止になるものだ。その後、テープレコーダーは私達兄弟の格好の玩具となったわけだが...。

 テープレコーダーが面白いと感じられるのは、自分たちの声が変わって聞こえるからだった。何より、普通に話して吹き込んだ声を早回ししてみるのが、最も興奮する遊び方だった。

 そして、その頃大流行したのが、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」。私達は何度も、テープにこの曲を歌って録音しては、速回しして聞いた。みんなで笑い転げた。

 

 のっぽ2人とちび1人のフォーク・クルセダーズ。のっぽのひとりは京都府立医大に在籍していた。ふざけた歌を歌う人が秀才であることは、ふざけるだけが関の山という、私たちみんなの自尊心をくすぐった。

 その秀才が北山修である。

 彼は、精神科医となり、ただ臨床に明け暮れるだけではなく、学会発表をし、論文を書く学際的臨床医となった。

 

反復強迫

 私は、大学以来、心理学と精神医学の勉強を細々続けてきた。しかし、系統立てて学ぶ方法を軽く撫でさすった程度で、心からその世界にのめり込んだことはない。ただ、興味が消えないので止めずに続けている、といったところ。

 それでも、書架に並ぶ心理学関係の本はかなりの量になる。量に比して、私はよい読者でも学習者でもない。理解の程には、ひどく自信がないのである。

 ところが、北山修という、一時期にせよ、プロとして音楽をやっていたことのある精神科医、しかも、年齢が近い学者の本を手にしてみて、ひとつの大きな発見をした。

 

 それは、あたかも小説を読むように、あるいはエッセイを読むように専門書を読むことが可能かも知れない、という目覚めだった。

 反復強迫という伝で言えば、私は、人間の生きる現実の外に、学問の世界があると思っていたらしい。らしいというのは、それが明確には意識されていなかったからで、今回、本書を読みながら初めて、自覚できないほど自然に、そう思っていたことに気づかされたのだ。

 どうやら私の劣等コンプレックスは、形而上学というものの存在を、純粋で究極的な思考の果てにある夾雑物のない結晶のようなもの、とばかりに祭り上げていたようだ。その上、私ごときに理解されるものは、それまでのことでしかないとばかりに、理解したことは端から格下げしてしまうという、まるで子どもの恋愛のような本読みであったのだ。

 

 若い頃、学問との付き合い方に難儀したのは、そういう、強烈なまでの超自我を掴んで見ていたせいであった。

 私が師事した教授たちはいずれも秀才の誉れ高く、田舎の学生が、どのような文化環境から上京しているのかを、ほとんど理解できない様子だった。劣等生が困っているのは、意欲のある無しのみならず、生まれ育った環境の、文化度の低さであることに気づく想像力を持てなかったかも知れない。

 

 北山修は、私が理解していた「反復強迫」の概念を、それとは全く様相を異にする物語を差し出しながら説明していた。その一説を読んだとき、目の奥で何かが光った。煌めいた、と言っても良い。瞬間私は、これまでの人生の間ずっと、理論や概念を理解するとやっかいなことになると戦きながら、どこかで自分を停止させてきた「何か」を見た気がしたのだ。

 それに気づかされた時、私は、自分が理論や概念の理解に、必ず難儀を感じていたことそれ自体が、私自身の反復強迫の表れであることを理解したのだった。

 それは、この本のタイトル通り、私にとって「劇的」な出来事だった。

 

 理論を構築し、世間を慨嘆させる学者の書物。その売り文句に圧倒され、押し頂いて読んでいる限り、いつまで経っても意味など分かりはしない。

 難儀することを有り難がっているだけの、暇な読書となってしまう。

 

 書物は、どれも、どれほど高尚であろうが、所詮人間が考えだしたことを書いてあるものだ。入口を捜し出せばどこかからするりと内側に入り込むことができるはずなのだ。その入り口を発見できない裏には、時に、抑圧とか否認とかがあるかも知れない。

 

 役者が脚本を読みこなすときのように、著者の心なり思考なりに入り込んで、共時的に存在しながら読み進める時、その学者がかくも膨大な紙数を費やして届けようとしたアイディアの息吹を感じることができるはずだ。

 

 まずは、自分の外の現実を、憧れを含むもの全てに於いて、必要以上に難解だと考えないこと。

 心構えをそこに置いて、再び書物を手に取る。

 今までは、どうしても熱が動き出さなかった、フェアバーン辺りから読み直してみるとしようか。

 「ミノタウロス」は、佐藤亜紀の小説。この作家の作品は、以前から色々読んでいて、どの作品にも深く感心したのだが、感動した作品とすれば「モンティニーの狼男爵」だった。

 感心する、と感動する、の差は、私の場合は、読了したときの爽快感に依るようだ。快哉を叫びたいようなカタルシスがあったか否か。

 単純だなあ。

 「ミノタウロス」は、数人の少年たちが、激動の無政府状態、ロシア革命の真っ直中を、それぞれの短い履歴に則って個性をむき出しに暴れ回り、ギリギリの駆け引きで生存しようとするも叶わず、死んでゆくという物語。

 やりきれないような設定である。

 壊れた社会の中で「生存」することの切羽詰まり方が、ものすごい描写力で立ち上がる。

 次いで、追い詰められる度に、火事場の馬鹿力だけで危機を乗り越えて行きながら、ついには自分の限界を悟り、自分らしいと感じられるシチュエーションの中で死んでいく彼らの在り方。

 人間がいれば生きながらえる装置として社会ができ、だがバグった途端、一瞬後には逆の装置として生存を脅かす。

 その渦中に生まれれば、脅威を当然のこととして相対し、彗星のように駆け抜けて燃え尽きるみたいに消えてゆく。

 その人生は、汚れ腐って腐臭を撒き散らしながら、死人の山を乗り越えて続く。なのに、なぜかとっても美しい。少年たちは、いずれもただの、どうしようもない破落戸(ごろつき)たちなのだが、その人生が、少しの不満も含まない、含む暇すらないことに、神聖さというか清々しさを感じるのだ。

 人間は、考える。

 ついつい考えすぎるほどだ。

 考えるのは宜しいが、下手の考え休むに似たり、と感じることも多い。

 何かから手を抜いたり、サボるためにも考えるふりをする輩が多いような...。

 考えて、自分なりのこだわりがあるかのように見せかけて、じつは、それすら怠惰の言い訳、身体を使いたくないためのサボりだったりする。

 逆に、考える行為が肉体的なときは、感動が湧く。

 身体を使ってから考えると、色々良いことがあるのよ。 

 「ミノタウロス」を読む前に、佐藤亜紀による創作のレクチャーとしてまとめられた「小説のストラテジー」という本を読もうとしていたが、こちらの頭が悪くてついて行けず、何度も手にとっては放っていた。

 それが、ミノタウロス読了後に再挑戦したら、嘘のように良く読める。

 佐藤亜紀の中にある戦略を存分に反映した作品を読んで、その後だったから、創作に至る運動の道筋を追えた、ということか。

 何か、身体を使った後に考える方法と似ている。

 

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